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こんなん絶対、マジで、愛。(第33回全国高等学校総合文化祭優秀校東京公演 愛媛県立松山東高等学校「きょうは塾に行くふりをして」を見て)

 幕が降りた後、しばらく鳴り止まなかった拍手には、「幕よ、もう一度上がってくれ」という期待が込められていたと思う。私たちはもう一度彼らに会いたかったのだ。これが対面できる最後の機会だと分かっていたから、より一層会いたかったのだ。
 とうきょう総文が終わり、国立劇場にて「きょうは塾に行くふりをして」が再度上演されることが周知された際、「また○○(登場人物)に会えて嬉しい」といった趣旨のツイートをいくつか見かけた。彼らはあの時既に私たちにとって「また会いたい人」だった。これはかなり凄いことだと思う。私たちは「東山高校演劇部」の面々と、助っ人の「ミナトくん」の、たったの60分に居合わせただけだ。しかしあの60分に、彼らの数ヶ月が、いや数年が凝縮されていたのは明白であろう。

 誰かの人生や、大きな出来事について語る時、その中にある笑いは割愛されがちである。しかし、その物語の要約がどれほど壮大な内容であろうと、悲劇的な内容であろうと、その日々の中にはちょっとした笑いがあったはずなのだ。後に当人たちですら忘れてしまうような笑いが、少しはあったはずなのだ。
 「きょうは塾に行くふりをして」はその60分の中で、忘れ去られがちな、割愛されがちな、しかし愛すべき笑いをしっかりと描いてくれた。思わず肩を震わせ、手を叩き、声を上げて笑ってしまう。きっと日常においても、そんな少しの笑いを積み重ねて、身体に笑いを蓄積して、私たちはその時を、「幸せだった」「楽しかった」というのではないだろうか。
 あの物語が要約されるとき、私たちが声を上げて笑い、思わず拍手を送ったあれやこれは、「ドタバタ」や「様々なハプニング」などの言葉で片付けられてしまうだろう。そして最後の10分程度が、濃厚に文章化されるだろう。それでもいい。そうなったとしても、私たちは、等身大の一生懸命のなかにあるあの笑いを、幸福感を、忘れないだろうから。

 「きょうは塾に行くふりをして」は、高校演劇への讃歌だ。そして、演劇だけでなく、この困難な状況のなか〝頑張った〟全ての中高生への讃歌だ。
 「東山高校演劇部」と「ミナトくん」は特別な存在ではない。彼らは彼らであり、そして彼らのように悩み、励んだ全ての人々である。一生懸命で、普遍的な彼らが会場を魅了したことは、何かに励む全ての人々が、その目撃者を魅了し得ることの証明だ。彼らのことを愛おしいと思う気持ちは、私たちが私たちの〝あの日々〟を愛おしいと思う気持ちなのだ。

 彼らが舞台から撤収する。私たちは、何も無くなった舞台を見つめる「いぶき先輩」の、今にも何かが溢れだしそうな、それでいて凛とした横顔を目に焼き付けて、彼らに別れと感謝の拍手を送る。再会はないと知っていて、それでも少し、期待しながら。「いぶき先輩」は最後、あの舞台に、あの空間に、何を見たのだろう。その瞳に、愛おしい景色が映ることを願ってやまない。そしてあの舞台に関わった全ての人々にとって、あの時間が、愛すべき日々の1ページとして残り続けることを願う。


 と、まあダラダラとまとまりなく、「きょうは塾に行くふりをして」への大きな愛を語ったわけだが、要は「超サイコー愛してる、笑いと涙をありがとう」ということである。
 松山東高等学校演劇部の皆様、先生方、本当にありがとうございました。とっても素敵でした。
 そして高校演劇に関わる全ての皆様、全員、サイコー!!!

「きょうは塾に行くふりをして」が気になったあなたは「青春舞台」を見てくれ……

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