ジョーカー
DVDレンタルでジョーカーを観た。
内容的には純文学。ジョーカーが全く面白く感じなかった人は“正常”で“普通”の人なんだと思う。逆に言うと、ジョーカーがナンチャラ賞とかいっぱい取ったのはヤバい。
“正常”で“普通”の人にとっては実につまらない基地外の戯言を綴った駄作だろう。何の感動もない。でも“普通”じゃない人の心は多かれ少なかれ揺さぶられる。
ジョーカーを観て最初に思ったのは「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ」というニーチェの言葉。
“正常”で“普通”の人には狂気を覗く正気との間に隙間が無い。だから狂気が見えないから、理解できないしつまらない。でも狂気というものを覗く隙間のある人間にとって、まさしく深淵が見返してくるから心が揺れる。
ジョーカーはオレがかなり前から言っていた「笑う門には福来る。笑ってばかりでホスピタル」というのを現した映画だった。印税生活を秘かな野望として持つオレにとっては、先にやられた!という思い。
話の社会的背景が日本人とは違うという当たり前の大前提もある。それを分かっていないとより深く理解できない。貧富の差というだけではなく、黒人と白人という人種のコンプレックスや歴史というものがあり、白人男性の貧乏人、いわゆる負け組男の歪んだ狂気。
アーサーはお母さんとの二人暮らしをする貧乏で独身の冴えない中年。さらに神経症でストレスがかかると笑ってしまうという病気持ち。「貧乏」「独身」「中年」「病気」というフォーカード。そこにもう一枚「白人男性」というジョーカーが混ざるファイブカード。
金持ちに対する群衆の批判は分かりやすいが、ジョーカーが多くの人の心を震わせた描写として、アーサーを治療するのは黒人女性というのがあるのだと思う。アーサーがあると信じていた母親との苦しいながらの愛情ある生活。それを持っていた恋人は“正常”な黒人女性。正直肌感覚としては分からないアメリカの人種差別と男尊女卑。
ピエロのお面で顔を隠し、金持ちを批判し、暴動を起こす群衆はネット民にも重なる。
ジョークで言われる日本人の沸点。
怒りレベル1・・・ニコニコ
怒りレベル2・・・ニコニコ
怒りレベル3・・・ニコニコ
怒りレベル4・・・ニコニコ
怒りレベル5・・・ニイタカヤマノボレ
これで行けばアーサーはレベル3くらいで人殺しになれるレベルの沸点に到達する。耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び、溜めに溜めて一気に放出する日本人からしたら、ちょっアーサーまだ沸点早い!とか、アーサーもう漏れてるよ!とか思ってしまう。プッツン行ったら狂気というのは変わらないのだけれども。
「やられたらやり返す。倍返しだ!」と仕返ししたらスッキリする気持ちは分かる。でもオレは嫌いな人はいても殺したいほど嫌いな人はいない。ネットで殺せとか書いてる人のどれ程が、本当に殺したいという衝動なのかはわからない。法があるから殺せないだけなのか、本当は口だけマンで殺せないのか。人を嫌うにも攻撃するにも殺すにもエネルギーが必要だ。人を殺して実はスッキリしてしまったアーサーの心情はオレには理解というか共感できなかった。ただ負のパッションが大きければ大きいほどジョーカーに対する共感は増すだろう。
ジョーカーが売れるのは社会としての危険信号だ。
ラストシーンでアーサーが笑う。何を笑ってるのか聞かれ、ジョークを思いついたと返す。ジョークの内容は教えてもらえず「理解できないだろう」と言って締めくくる。
理解したらいけないのだ。深淵に飲み込まれる。
最近の日本の漫画などは勧善懲悪ではなく、正義対正義で敵には敵の言い分や正義がある。でもジョーカーは生粋の悪。悪のエリート。曖昧さが無く、悪の方向にバロメーターが振り切れた。なればこそ成り立つ勧善懲悪。ジョーカーという映画はアメコミの底を押し上げた。文字通り基礎部分から持ち上げたと言っても過言じゃない。
内容的にはバットマンのジョーカーでなくてもよかった。バットマン出てこないし、出てきたら絶対敵。映画を観る観衆にとっても敵になるだろう。ただ悪の象徴としてジョーカーは分かりやすく使いやすい素材でもある。そしてバットマンの出ないバットマンだったからこその価値がある。アメコミという存在で考えると、バットマンの出ないジョーカーの物語が大局観的にアメコミ全体の収益になる。バットマンは正義のヒーローであり、嫌な金持ちであってはならない。だから全力で叩ける悪のカリスマジョーカーは絶対悪として必要なのだ。
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