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『みんな違ってみんないい』の世界

今朝、私の敬愛するあやみさんのnote『多様性を認め合うのは生ぬるい優しさとは対極にある』を読んで、すごく刺激を受けた。

どうにも書きたい気持ちが湧き上がってきたので、久しぶりにnoteに綴ってみることにする。本当に、久しぶり。笑

私は、表題の通り『みんな違ってみんないい』が当たり前になっている世界に生きたい。そう願うということはつまり、今生きている世界がそうではないということなんだろうと思う。

その『みんな違ってみんないい』の世界において、多様性が認められるというのは基本のきのようなもの。

ちなみに、多様性の意味はWikipediaによると

幅広く性質の異なる群が存在すること。性質に類似性のある群が形成される点が特徴で、単純に「いろいろある」こととは異なる。

だそう。

単純に「いろいろある」こととは異なる、というところが多様性を理解するに辺りフム確かにそうかもしれないと思った点である。

みんな違ってみんないいとは、どちらかというとむしろ色々あることだと思う。

共通するのは、いろいろあることも、多様性も、存在自体はまごうことなくあると認識されているはずのに、それを認める人ばかりではないということだと思う。良しとされないものでもある。特に、これまでの日本ではその傾向が強かったし、今でも世代や地域によっては本人たちに自覚があるかないかはおいといて「NG扱い」されていることは否定できないのではないだろうか。

うちの子どもたちが通う小学校でも「みんなが同じになるように」「みんなが揃わないので」といった理由で、提案した企画が却下あるいは変更されることがまぁよくある。

その度に、理由がそれだけなのだったら逆にみんなと同じではないといけないことを苦痛に感じる本人にとって、こんなに居心地のない場所もないだろうな、と思えて仕方がないのでそれ以外の理由が本当にないかをしつこく訊いてしまう。本当にそれだけの理由だったので、却下を却下したこともある。(ややこしい親だろうなぁという自覚はある。笑)

それくらい、私は『みんなと同じじゃなきゃいけない』というルールに反発を覚えるし、人はみんな唯一無二の存在であるというベースが私の中にはあるし、個性を殺して生き続ける辛さや、個性を守るためにとき必要な戦いもあるということをこの40年近いの人生で学んだ。

多様性を認めることも『みんな違ってみんないい』を貫くことも、痛みと苦しみを伴うことであるということを、それら以外の側面からも知っている。

だけれども、やはりみんな違う個性があって当たり前という世界を、あなたと同じ人間はあなた以外にいないということを、みんなが腑に落ちている世界を私はどうしたって目指してしまうんだなぁ、と小さなため息とともに実感している。

魚座の世界、水瓶座の世界

占星術に興味を持ったとき、最初におもしろいと思ったのが春分点だった。

まだ10代だったころ、私が友人から誕生日プレゼントにもらった本に春分点や歳差運動の話が出てきて、「今は魚座の時代の終わりで、水瓶座の時代になろうとしている」というような主旨の文があった。

それからおよそ15年経って、次は西洋占星術について調べているとき春分点に再会して、当時は名前でしかなかった「魚座」や「水瓶座」についての理解が多少進んだこともあってか、すぐにハマってしまったんだと思う。

魚座の世界は、一言でいえば支配、かなぁ。

春分点(についての詳細は省かせていただく。)は一つの星座で2160年ほど過ごすのだけど、魚座の象徴の一つとしてよくあげられるのがキリストの存在。魚座時代の幕開けは、キリスト誕生のタイミングでもあったのだ。だから魚座の時代は支配と共に、宗教とも語られる。

魚座にすべてを包み込んでくれる壮大な海の優しいイメージがあるとするならばそれは一面でしかなくて、反対から見ると津波のようにすべてを飲み込んでしまう怖ろしさも兼ね備えている。

すべてを包括してしまう、強引さ。

私は全ての世界史日本史に精通しているわけではないので、ざっくりと私なりに捉えた印象でしかないけれど、誰か1人の指導者が正といえばそれが全てであり、背くことは悪であり、例外はあくまで例外とされた、というこれまでの2000余年。

工場で型を使って大量生産された均一の使い捨て商品のように、小学校から中学、高校も、みんなが枠にはめられて少し飛び出したところや足りないところがあると良しとされない日本の教育環境。

それでもやはり少しずつ、みんなが同じじゃなくても良いんじゃない?っていう先生と出会うようになったことも事実。

長男が受け持ってもらった5年前は、みんなと同じようにできないことをわざわざ自宅まで「それでいいんですか!!??」と言いに来てくれたある先生も、今では「次男さんにはその方法が合ってると思うので、みんなと同じじゃないですけどお母さん気にしないで大丈夫ですから!!」と言ってくれる先生になった。(ねぇ、あなたこの5年間で何があったん?)

もちろん、いろんなところで多様性について目にするようになったし、ビジネスでダイバーシティマネージメントを取り入れろ!と言われたのはもう何年か前の話という気がするし、「みんなそれぞれの個性を生かして」という言葉自体にもう新鮮な響きはない。

にもかかわらず、みんなが同じじゃないと良しとされない雰囲気が根強く残っていることもまた確かなのだ。それは何故なのか?

魚座のイラストを見たことがあるでしょうか。

二匹の魚が尾をしばられて、あっちへこっちへ離れていこうとしている絵。

今は二極化が進んで、その先の世界にいるのかなぁと思う。一方は多様性は認められ個性は個性として受け入れられる、水瓶座的な世界。そしてもう一方ではみんな同じが正義とされる魚座的な世界。二つの世界が同時に存在しているのが今なのだ。

魚座の世界の住人は強引な支配の力が働いているから、そうでないものを枠にはめようとする。

しかし、水瓶座の世界の住人は、人は人なので「あ、そうなのね、あなたは違うのね。」とスルーして気に留めない。

どちらが正解でどちらが善というのはないけれど、もしも自分が「みんな同じであるべき世界」に居心地の悪さを感じるのであれば、自ら気付いて行動するしかない。魚座の支配を拒否し、抜け出すために、ときに戦いが必要になる。

「あそこの奥さん、婦人会の訓練に来ないのよ、非国民よ!!」と村八分にされるので、竹槍で戦闘機に勝てるわけなんてないと分かっていながらも渋々訓練に参加するしかなかい、といったような圧力が未だにどこかしこで存在するので、「私は参加しません。」とはっきり意思表示をし、不参加を勝ち取らなければならないのだ。

それを生まれながらにひょうひょうとやってのけるタイプの人間がいることも確かなのだけれども(例えば我が家の次男)、必死にみんなで同じであろうとすがり付いている(ように私には見える長男のような)人間もいて、もちろんみんな同じであることが正義であると信じて疑わない(夫のような)人間もいる。

私は自分が平々凡々な人間であることをクソつまらないなと思っていて、だからこそ根っからの水瓶座的要素を持つ人を見ると、そのオリジナリティーで型破りな非凡さにある種の嫉妬まで感じてしまう。ぐぞうらやまじぃぃぃ!!!!

Asc天王星合からか、人生においてオリジナリティーは私の永遠の課題なのよ。笑

みんな違うと受け入れるには覚悟が要る

『みんな違ってみんないい』とは具体的にどのような世界か。

日本で生まれ育って15年間ほど教育を受ければ、大抵「〇」という枠にはめられて、それが良しとされる。足りない部分は劣っている=悪、はみ出た部分は尖っている=悪。目に見えて分かりやすく需要のある世界においては才能とされることもあるが、すぐに認められるわけではない。

しかし、本来は凸凹がありまくりの〇からは程遠いカタチをしているのが人間で、凹凸のどっちがどっちで優劣があるわけではない。

自分には凹も凸もあると認めて受け入れた先に、みんな違ってみんないいの世界がある。

あくまで私の主観だが、私より年上の世代は、日本教育の成果か、もともと枠にはめられみんなが同じを良しとして疑わない人の割合が多かったのか、今でもその色が濃いように感じる。

みんなが同じであることの安心感、みんなと同じにするために「自分で考えて自分で選択して自分で決めて自分の責任で行動する」ということを手放し、代わりに手に入れた「失敗したとき誰かのせいにできる」というある種の気楽さ。空気は吸うものではなく、読むもの。

〇じゃない自分を〇に近づけるべく、涙ぐましい努力をした人がきっとたくさんいる。

自分が苦手なことや嫌いなことでも、『人並み』になれるように必死で練習したり勉強したり我慢したり。自分は違うと思っても、みんなと同じを装うために、自分を殺しまくる必要もあったかもしれない。みんなと同じことが正解で、みんなと同じでなければ悪だとされた世界に生きる人にとって、自分の好き嫌いで自由に行動を決めるというのは、身勝手で足並みを乱す悪しきことなのである。

そんな人に、突然「人は〇じゃない、凸も凹もあってみんなそれぞれ得意なこと、苦手なことがあって、違っていて当然!」なんて言ったところで、苦手だと分かってんならそこを克服する努力をしろよ!としかならないのも仕方ない、のかもしれない。(もちろん、逆に自分がそういわれて苦しんだので理解してくれる人も中にはいる。)

自分は苦しんでやったのに、お前はしないなんて楽する気か!お前も苦しめ!!というのは『みんな同じであるべき』教の常套句の1つで、よく聞く。恐ろしい…。

努力ではなんともならないものもあるし、苦手なのと苦しんでるのでも全然違うと思うし、だったら得意なことをもっと磨いた方が早かったりするんじゃない?と思うけれど、それは逃げでしかないらしい。いつまでたっても話は平行線。

なぜか?

みんな同じであるべき!をベースにこれまで生きてきた人にとって、嫌いなものを嫌いと認めるのにはとても勇気がいることだから。好き嫌いをするなっていうのも、みんな同じであるべき教の代表的な教えの1つ。

好き嫌いは悪なのである。

その中でも『嫌い』は絶対的な悪であると教え込まれて私たちは育ってきた。だから『嫌われる』ことなんてもってのほかで、最も恥ずべき事のように思い込んでしまっている。

断ること、嫌いだからしない、それだけでもう天変地異。

自分で考えて自分で選択して自分で決めて自分の責任で行動するというのを手放し、あるいは後回しにしてきたので、結果が自分に返ってくる、それを誰のせいにもできない、という事態に慣れていない。断ったら嫌われるかも、なんていうことも耐えられない。

そんな大ごとじゃないと笑うかもしれないが、そんなあなたは飲み会に参加して早めに「お先~!」となんの憶測もなく言えてしまう人だと推測する。

「自分で考えて自分で決めて行動して、起こったことの全ては誰のせいでもない。」というには、すべて自分の責任であると認めるには、大きな覚悟がいる。好きも嫌いもあって当然なのだから、自分を嫌う人がいることも当然と認めるには勇気が要る。空気を読んだうえで、同調しない発言をするのにも勇気がいる。

そして、その覚悟をもった上で『みんな違ってみんないい』の世界が成り立つのだと、私は考えている。

そしてそしてそして、くっそ悔しい、もとい、とても羨ましいことに、生まれ持ってそんな世界がベーシックだという人は当然いて、どんどん増えてるよねっていう話。

コロナ禍で加速した水瓶座化

今回のコロナによる緊急事態宣言で外出自粛を余儀なくされたことによって、これまでの無駄やただの例年踏襲という理由だけで続けられてきたことが浮き彫りになり、逆にこれはどう変わっても続けたいものだなという再確認もできた。

インターネットもより普及したし、可能性が広がったし、使う人と使えない人での二極化がここでも広がった。(今のインターネットの世界ってとても水瓶座的だよね。)

感染予防対策と経済活動再開とどっちに重点を置くべきか正解が分からないと言われるけれど要はバランスで、どちらが正解でどちらかが間違いではない。

世界にはこのように、実は正解不正解がないことばかりである。

誰かにとっては悪いことで悲しいことかもしれないけれど、きっと今はそこしか見えないだけで違う側面は必ずあって、そして同じことで(目に見えて誰にでも分かりやすい)何かを得た人もきっといる。

突然の別れ、事故、病気、天災でさえも、そうだと思ってる。

自分にとってこれは最善だと思えるものを、自分で選んで、自分で決めて行動する。

もしかしたらそれは誰かにとっての正解ではないかもしれないけれど、自分が決めたならその行動の責任は自分にあると、覚悟を決めて突き進む。途中で進路を変える身軽さは持ち合わせながら、その覚悟に対しては頑固を貫く。

と同時に、地方では感染者第1号が村八分にあって引っ越しした自殺したというニュースを目にすると、あぁやはり魚座的な要素も色濃く残っていると感じさせられるんだな。

生きたい世界を自分で選ぶ、決める、行動に移す

水瓶座は先程も書いたけれど、魚座的な要素を水瓶座的に変えようとはしない。

そして、おそらく魚座的な要素は物理的なこの3次元的なことが原因で廃れていくと思う。(時間、戦争、資源、そういう3次元的な要素)ただ、それは私に残された時間より長いか短いかは分からない。笑

というわけで、もしも自分がオリジナルな自分の人生を生きたいとおもうのであれば、周りの変化のスピードに合わせるのではなく、自らの行動が必要なんだろうと思っているので私はそこにこだわりを持つことにした。

『みんな違ってみんないい』な世界、地球上がすべてそうなれば素敵だけど、まずは身近な、自分がいま属するコミュニティーから。

究極の『みんな違ってみんないい』の世界はお金が要らない、私の得意と誰かの得意が巡り巡って成り立つ、物々交換の輪の大きくなったイメージ。それだったら狩りと農作物で交換してた弥生時代くらいがベストだったってこと?ってなりそうだけれども、そんな話ではなくて。(そういえば弥生時代とキリストの生まれた時代、長さは違うけど重なってるね。)

弥生時代よりはるかに複雑になった社会で、求められるスキルも多種多様になったはず。

私たちが幸せや生きがいを実感するには衣食住の確保だけでは不充分で、持てる富や財産の多さだけでもなくて、豊かさって何?とか誰かのために自分には何ができるだろう?とか自分だけが幸せでもそれでは満足できないよね?とかそういう精神的な内なる世界の話も欠かせないと思うんだけど、じゃあそれだけでオッケーか?と問われるとご飯食べきゃ生きていけないのはやっぱり確かで、そしてさらにただお腹が膨れたら満足かと言われるとそれも違っていて。

ちなみに私は自分が食べると切なくなってしまうものがあることを知っているので、そういうものしか家にないときはお腹が空いて目が回りそうなくらいでも食べないことがある。それは、後回しにしても確実に餓死する前に食べられると分かっているからこそできる行動である。

自分にとって幸せとは何か?何のために生まれて、この世界で何をするのか?って考えたのかな、弥生時代の人たちも。分かんないけど。

今、この時代の日本に生まれたからこそ考えられること、経験出来ること。世界を見渡すことができて、地球の裏側の人とも顔を見てお喋りできる時代。性別や国籍や肌の色や言葉を外見や性格や持って生まれた特性を、良いも悪いもなく、それぞれ尊重し慈しむ世界に。

女性として生まれてきたことが足枷にならない世界に。

私にできることは、自分と相手の違いを違いとして受け入れること。そこに優劣はない、善悪も、正解不正解もなく。

その為にはまず、私が私自身を受け入れること。卑下する必要も驕る必要もない。

私の戦いはいつだって、自分が誰かに勝つことではなくて、誰もが穏やかに暮らせる世界を手に入れるためなんだなって、ちょっとだけ気がついた。


おまけ

思うがままに、つらつらと書き連ねていると、着地までにいろいろと寄り道してしまったような気がします。笑

そして、書くのに思った以上の日数が掛かってしまったので、書き出しにある「今朝」っていうのがもう何日も前の話になってしまっていることはココだけの話です。



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