不自由な神
「不死の講義」という本によれば、不死を達成するには、不老、蘇り、霊、成し遂げられたこと、の4つということだそうだ。
不老は難しい。寿命は延びても、永久に生き続けることは、まだ出来ない。
蘇りはもっと難しい。プラナリアは切られたそばから再生するけれど、人間はそうはいかない。有史以来、蘇ったのはイエス・キリストだけだ。
霊になるというのは、なかなか確認はできないのだけれど、あるかもしれないという期待は持てる。エリザベス・キューブラ・ロスの本や「生まれ変わりの村」などを読むと、霊となって、さらに生まれ変わるということもあるのかな、というような気にもなる。
死して名を遺すというのは、不死というのとは、だいぶ違うような気がするけれど、人はその人のことを忘れなければ生き続けるというようなことも言われることを見ると、広い意味では不死なのかも知れない。まあ、釈然としないが。
実は、この4つ以外にも、不死に通じる概念があると思っている。その1つが「胡蝶の夢」。この世は実は夢でしかない。自分、または何かが見ている夢。「マトリックス」なんかもその延長線上にある。さらに言えば宇宙はブラウマンの夢であると言われたりもする。まあ、それはさておき、この世が夢であり、それを見ているのが自分であるなら、その本体は不滅であるのではないだろうか。夢から覚めれば…
もう1つ。自分の現実はすべて自分自身が作り出しているという考え。極論するならば、自分自身が自分の宇宙の創造主であるということ。つまり「神」。けれどこの「神」は万能であるゆえに、さまざまな経験に影響され縛られて、頭で望んでいる己が欲求に導かれる世界とは違う現実を形作ってしまう。まさに「不自由な神」であったりする。
いずれにせよ、何を思い描いて生きていくかが、死していくその人の在り方になると思っているのだが。
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