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# 50 悩める人間

コロナ禍でオンライン会議に慣れてしまった。これからも、これでやりたいし、わざわざ出向くのは勘弁してほしい。
要するに、面倒臭いのだ。
ザックリであるが「面倒臭い」について考えてみたい。
漸進法で進める。
1。学会や会議に出席するのは対面の良さがある。
2。何が良いのか?面倒臭い割に効果がない様に思う!無駄な会議も多かった。
3。リモートでの打ち合わせはコロナ禍では普通になっていた。それは世界の趨勢でもあった。しかし、マグニフィセント7と呼ばれる世界に名だたる大企業も、postーコロナでは出社する事を促している。効率がリモートより優れていると試算したのであろうし、コミュニケーションスキルが向上するはずだ、労務管理がしやすいとも考えたのであろう。物事は対面で進んできたし、今後もそうだと思う。
4。コロナ禍でのリモートの普及を加味するに、元に戻ることはない。それこそ、リモートワークを廃止すれば、通勤時間を含めた労働に関わる実質的な時間が長くなり、ワークライフバランスの維持が難しくなる。退社する人も現れるだろう。リモートが有利か否かは現在進行形で議論の真っ最中である。結論はまだ出ていないので、白黒つけたり、先走るのはどうかと思う。
5。医療に関してもオンライン診療が始まった。しかし、診療科によりその様相は変わる。外科系では対面が不可欠だ。内科系でも急性疾患は対面が望ましい。一方で、慢性疾患ではオンラインを望む声も強い。
6。オンラインは医療機関に赴くめんどくささから逃れられる。しかし、このめんどくさいのを我慢して、対面の診察を受ける方がより良い医療が得られるのだ。顔の見える診療は、患者と心でつながるのであり、患者は医師の顔を見て安心感も得られる、納得も得られる。
7。それはあまりに昭和な話ではないだろうか!厚生省はかかりつけ医を「健康に関することをなんでも相談できる上、最新の医療情報を熟知して、必要な時には専門医、専門医療機関を紹介してくれる、身近で頼りになる地域医療、保健、福祉を担う総合的な能力を有する医師。」と説明している。これは対面である必要性を強調するものでもなく、オンラインを否定しているのでもない。
8。人と人が直接、話し合うだけで脳は活性化すると言われている。この様にコミュニケーション能力を向上させることは、疑心暗鬼になりがちな患者には必要なのだ。
9。それはめんどくさいと感じることがよくないと言うことなのだろうが、人それぞれであり、一括りにする話でもないのでは。何事につけ、めんどくさいと感じ始めたら認知症の始まりとも言われている。要するに病気の危険信号というわけだ。しかし、若者にはその話はそぐわない。便利なオンライン診療を希望することは当然ではないだろうか
10。ここで、めんどくさいという事の内容を考えないと話は膠着状態に陥る。
習慣的になった事を繰り返すのは退屈だめんどくさい、これからやることが困難だったり苦手だったりする場合にも同様、めんどくさい。忘れ物に気づいて、戻る時のめんどくささは格別である。要するにやりたくない事をせざるを得ない場合、めんどくさくなる。
11。そのように捉えるのはめんどくさいということを怠惰であり、良くないことと決めつている様に思える。だが、人間に備わる、必要な感情ではないだろうか?
12。必要な感情かどうかは定かではない。しかし、避けられない感情だと思う。
そこを逆手にとり、気の向かない、めんどくさい事を、チャンスと捉える人もいる。めんどくさいを虱潰しに調べるというのではないが、これは誰がみても面倒だという事を、そうでなくする提案は消費者のニーズに適っている。
面倒臭いを楽しいことに変える錬金術なのだ。
13。金がないから何もできないし、楽しいことに出くわさない。恵まれていないから、煩わしいことで一杯だ。恋愛も、結婚も煩わしい。一度面倒だと感じるとセックスレスな夫婦は容易に誕生する、結婚生活も茨の道だ。生きて行のも希望が持てない。なんていう人が増えるのは社会問題でもある。こんな状況に不満も爆発するし、面倒臭いということにもなる。
14。不満と面倒臭いを同類項にまとめている様に見えるが、根っこは同じだということなのだろうが、どうかと思う?
不満は相手あっての不満だ。しかし、面倒臭いは自分の問題である。
脳科学者は面倒臭いというのは脳が活性化していない状態だと言う。セロトニンを活性化して脳を元気にする事を考えるべきではないかと述べている
15。脳の活性化には色々な方法があり、工夫がある。しかし、そもそも脳を活性化することにより幸福になるのだろうか?
16。幸福と関連づけるのも有りなのだが、めんどくさいと言うのが鬱であることだってあるのだ。病気を治すと言う意味では必要ではないだろうか。
17。面倒臭いと言うのは色々、裾野が広い感情であり、健康な人から病気であることまで、折り込まなくてはならない
病気であれば、治療が必要となる。しかし、誰もが持つ、軽度のめんどくささはどのように対応すれば良いのだろうか
18。何も病気を別物扱いする必要はないのではないだろうか!苦手なことを強いられるとそうなるのは人間の常である。要するに誰もが持つ生理的な反応という理解でどうだろう。その反応の濃淡はあるので、極端な場合を病気と考えるのだが、線引きするのはどうかと思う。年をとるにつれ記憶、感情、思考、伝達、理解、聴覚、視覚、運動などの各能力は衰えて来る。苦手な事も増えて行き、めんどくさいの頻度や度合いも強くなる。
そんな運命にどの様に順応して行くべきかであるのだが、自分の比較的、得意なものを自覚して伸ばして行くのも一考ではないだろうか。脳は高齢者でも絶えず鍛えれば応えてくれるという組織でもある。
19。苦手なことに目を瞑るのはどうかと思う。苦手を克服した際の達成感、幸福感を忘れてはならない。
20。めんどくさいにどの様に向き合うのか?冷静になりたい気持ちになる。
要するに、面倒臭いは感性に振り分けられるのであり、多様性がある。しかし、情報(知性)により分析できるし、対応できる代物でもある。ケースバイケースでの情報(知性)を綜合して、対応を考える、すなわち、理性的になるべき問題だと思う。そうしないと感性に沈んでしまい、面倒臭いに振り回されてしまいそうだ。これは個人的な色彩の濃いことでもあり、個人個人が工夫して、克服して行くしかないのである。私は、めんどくさいことを平気で克服している若者に接して、パワーをもらう様にしている。これを克服するには勇気もエネルギーも対応力も必要だ。
22 。誰もがめんどくさいと感じる場合もあるのだが!
そのケースはすでに述べたビジネスチャンスでもある。民間だけでなくて行政の仕事、出番にもなる。どちらにしても社会的に適切対応が求められるのであるが、進歩の貴重なエネルギー源にもなる。

複雑、且つ、めんどくさい話題でした。


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