たたかわないで

ひさしぶりになってしまいました。

日記はnoteにのせないまでも、しばらく書いていました。

ですが途中から「スマホをさわりすぎているね」という議題がnoteないし、手書きの日記を書くことで自然に解決された気がしたのでした。

しかし、内省したり内観するのにはこうして文を書くということに大きな意味があることにふと気づけるとっても良い時間、これは定期的に続けて行きたい次第です。

さてさて、昨日はひさびさに街らしい街に出かけた気がします。

わたしが以前までふつうにくらしていた街の人やお店をたずねましたが

ああすごく戦っている人が多いと感じました。

「お金に負けている」という言葉にはっとしたことがありましたが資本主義の社会でどう行きて行くかの議題とずうっとたたかい、

社会にたいする資本としての還元、世間からどんな風にみられているのか、という社会の目(見栄のようなもの)に疲弊しているのが以前よりはっきり見えました。

どう見られるかというのは、自己を律するという意味では必要なものかもしれません。しかし、ものづくりやつくることの本質から離れてしまう、不純物を含んでしまうかもと思うのです。

そうするとものの価値や、良さが濁る。

感度も、鈍る。色もくすむ感覚がある。

それから、外聞がとても大事なので人を評価する。人は評価するされるものではないと、信じたい自分の拒否反応が出て、すこし、いいえ、かなり息苦しい感がありました。

人が人を評価するのはもうごめんだし、ただ生きているだけでいいじゃないか

ありのままでやりたいことをやればいい、というのがまたはっきりと確認できました。

敵って自分の中でつくっていて

評価することで評価される自分もつくって

どんどん自分対他ができるのは息苦しいのでわたしはもうやりたくないなと


自分は他と同じで、すべてひとつであること。

すべて丸のなかであること。

ただそこをわかっているか、いないかでこれから見える景色が異なってくるのじゃないかと思います。

なかよくしたいな。

ひさびさの人、ひさびさの都会にたいしてそんな風におもったのでした。



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