元親友(予備校時代)

高校卒業後の話を書く前に高校の私のことで少し補足を。高校時代は早退と病欠をめっちゃしてたので英語の単位の日数がギリギリになってしまいまして、あと10回欠席したら卒業できないと言われてしまいました。そこで体調が少ししか悪くない時は他の教科は保健室で休んで英語だけ出席して帰るとかして10回全部使い切り単位ちょうどでなんとか卒業することができました。そんな補足。

高校卒業後、私とAさんは浪人生として同じ予備校に通いました。市内には大きめの予備校が2校あり、一方が賢い子が行く予備校でもう一方は賢い子が行かない予備校でした。私は料金の安さとなんかゆるそうという理由で賢くない予備校を選びました。ちなみに理由は違いましたがAさんも同じ予備校。うちの高校の浪人生でそこの予備校を選んだのは私とAさんだけ。他の浪人生は賢いほうの予備校に行ったらしいです。田舎なので浪人の為だけに都会に行った同級生もいました。

元親友は公務員になり1ヶ月、市を離れて違う市に研修に行きました。研修先から手紙がきて友達ができたとも書いてあって概ね順調なようでしたが、寂しさはあったのかこの間にかなり手紙のやり取りがありました。私の方は大して何も起こらないので書くことがなく絵とか書いて送ったりしました。卒業後、幼なじみから漫画の描き方とかの本を借りてこっそり練習していて、人に見せるのは元親友が初めてでした。元親友も漫画を描いてたことを教えてくれてお互いに絵を描いて送りあうこともしばしば。そんな感じで1ヶ月はあっという間。私は予備校でも休みがちではあったけれどAさんもいるし特に困ることもなく過ごし、早退願いも欠席の電話もなんなくこなしていました。

5月に一緒に暮らしてた祖父が亡くなりました。本人はもっと長生きしてたがってましたが、96歳だもの大往生だとみんなが言ってました。亡くなる前後がすっごく忙しかったです。病院で亡くなったのですが家に連れて帰って来る時とか当時まだ18歳の私が家までの道案内を任されたりして最悪でした(葬儀会社の人が遺体が重いだのなんだのと私にずーっと愚痴ってきたから)。遠方の父方の親戚のために丸1日うちに遺体を置いたから前日に病院で付き添いしたのと、遺体を1日家でみることになったのでお線香の番を私がすることになり丸2日徹夜しました。若かったですし元々不眠症気味なので寝ないと思ったら眠れないのが役に立ちました。かなり疲れたけれど若さは偉大。

それに比べて私にトラウマ?を植え付けたバカ従兄弟一家はそろって何もしやしねえ。バカ従兄弟の父親である美術教師の叔父は自分の妻は動かさずに私にお客様にお茶を出すように言ってきたりするから心の中で呪っておきました。バカ従兄弟はお通夜まで日にちがあるからと、そいつの母親の親戚とフランス料理を食いに行ったとかなんとか。あいつだけは許さない不幸になれ!と現在の私は思ってます。でも大好きな母方の伯父伯母や親戚もわざわざ遠方から来てくれたので、お通夜はうちに泊まってもらうことになり私、姉、母は家に帰ってきました。父親はもちろんお通夜会場です。次の日葬儀で式場に行くと従兄弟がひとり欠けてることに気付きました。後から聞いた話だと急性アルコール中毒で夜中に救急車で運ばれたらしいです。大人しい従兄弟だったので酒飲みの親戚から飲め飲め言われて断れなかったそうな。ちょっと可哀想。小さい頃からほとんど話したことはないんですけどね。

母方と違って父方は全員いい年齢をして葬儀のことを何も知らないのです。そのしわ寄せが全部母に来て母は走り回らされました。棺桶の釘打ちもみんなどっか行ってて「喪主の奥さーん」と母が呼ばれ(父は喪主じゃないから間違えられてる、本物の喪主である伯父は妻と別居中でした)姉と私が父親の兄弟探しに行ったり、火葬を終え遺骨や遺影(私が撮影した物採用)を運ぶってのに置きっぱなしにして我先に帰ってしまうのでどう考えても手が足りん!と私より一学年上の私と全く誕生日が一緒の従兄弟を捕まえて車で運ぶのを手伝わせてると、その母親である叔母が自分の大事な息子を誘拐されたみたいに大騒ぎ。ちょっと借りるだけじゃい!とは言えずなんとか説明して借りるのに成功。運ぶのを手伝ってもらい早急にリリース。もうひとつ書いておくと車椅子の祖母を階段で運ぶ時には母方の親戚ばかりが手伝ってくれました。ここまで書いてわかると思うのですが私は父方の親類が嫌いです。好きでも嫌いでもないのもいますけど、その人たちはどうでもよくて。ほとんどが嫌い。みんなで勝手なこと言い過ぎだから。

こうして母は祖父の介護生活から解放され、うちの家はかなり自由になりました。元親友も研修が終わって公務員として働きだし元々真面目な子なので毎日帰宅後も仕事の勉強をしていたらしいです。二人で手紙のやり取りや電話をしょっちゅうしていました。私は土日は模試以外の日は休みで公務員の元親友も土日が休みで月一くらいの割合で泊まりに来たりしてました。

母は家でじっとしてるのが嫌いなタイプだったのですぐにパートを見つけて働き出します。働き者。そして私は予備校を無断欠席するようになるのです。予備校に行かなくても親にバレなくなったから。人間は堕落するものです。いや、私が堕落しただけ。この間はAさんにも連絡してないから真面目に通ってたAさんには悪いことをしました。

堕落して人生を楽しんでいたら、ある日突然予備校から電話が来て仮担任みたいな講師に呼び出されまして、元がチキンなのでかなり焦りました。さすがに呼び出されてしまってはと予備校に行き講師と話を。「どうして無断欠席してるんだ?」「休んでみたくなったからです」「そうか……」というよくわからない会話をして再び通うことを約束させられました。

秋くらいに模試を受けてたら突然首が動かせなくなりました。実は中学時代、高校時代と度重なる寝違えでの首の痛みと謎の頭痛に悩まされていて度々整形外科に通い、中学時代にはベテランの整形外科の先生にレントゲンを見て首の骨の形がおかしいと指摘されていたのです。その頃はストレートネックが珍しくストレートネックという言葉は使われてはなく私の場合ストレートネックの更に曲がってはいけない方向に首が曲がってたそうです。高校時代は首の痛みと頭痛が頻繁になり、もう頻度が多すぎて半分仮病だと思われかなり無理をしていました。それで大きめの病院にもかかったものの首より頭痛を問題視され脳神経外科でCTを撮り脳に異常がないことから脳外科医に鼻で笑われる始末。もう脳外科医は信用しないぞ!と謎の誓いをたてたものです。さて、話を模試の日に戻しましょう。さすがにこの痛みはヤバい!でも模試が!と思った私はその日最後の教科だった倫理を高速で解き講師に提出し、首が痛いので帰ります!と早退してとんでもない痛みに耐えながら帰宅しました。その日は土曜日で次の日である日曜日も模試がありどっちにしても病院もやってないことから落とせない一教科だけ受けて早退。月曜日にやっと大きい病院に母が連れてってくれましたた。ですがまた脳神経外科にまわされ、やれやれまた脳外科医かと思っていたらその日は臨時の先生で前の医師と違ってたのです。経緯を話すと先生は私の目を瞑らせ指先をピンピン弾いたりしてました。そのよくわからない診察を済ませると先生は今日誰と来ているか私に聞いたので母と来ていますと答えましたら看護師さんに母を呼びに行かせたのです。看護師さんに連れられてきた母に先生は出てはいけない反射が出ている高額(当時一万円)にはなってしまうがMRIを撮らせてもらいたいと言い、母が承諾して人生初のMRIを撮ることに。検査技師のかたに大きい音がするけど我慢してねと言われたのですが、うるささとかは大して気になりませんでした。撮影も終わり結果を聞かされるのを待っている時、母はなんだかとても優しくかったです。診断結果は、けい椎間板ヘルニア。まだ19歳だったので先生に珍しがられ、なんの運動部に入ってたの?とか激しい運動を繰り返してたでしょ?とか聞かれました。残念ながら私は運動が大の苦手人間なので、運動部には入ってませんし趣味でも運動はしてません。なので、体育くらいしか運動してないですと答えると何度もおかしいなあ、おかしいなあと言ってました。先生からすると運動部とかで激しい運動とかしてないとこの年齢で有り得ないことだったっぽいです。将来的に手に痺れとか出始めたら手術とかいう話も出るかもだけれど今は痛みを誤魔化しつつ安静にして対処療法だけでということになり、とりあえず痛み止めとかコルセットとか出してもらって(コルセットが結構高い)帰宅しました。母は若くして頸椎のヘルニアになってしまっていた娘が哀れらしく今までごめんねと泣いてしまってました。コルセットで固定するとかなり楽になったのですが、痛みが取れるまで予備校はお休み。ヘルニアと診断されたもののとんでもない痛みはこの時が最後でその後もちょくちょく首の痛みはあれど、この時くらいの痛みは今現在まであらわれていません、手の痺れもないです。枕を選ぶようになってからは寝違えもほとんどなくなりました。でも枕がヘタってしまうとすぐに首にくるので買い替えを頻繁にしています。

さて、ヘルニアと診断されたことで一応決めていた将来の職種を変える必要が出てきて浪人生の秋にして志望大学も変えることになりました。私がなろうとしていた職業はちょっとヘルニア持ちには続けられそうになかったので。と言っても市内に公立の大学は二つしかなくもう片方を受けるだけなのですが。できるだけ楽をしたかったので受かりそうとかじゃなく受験科目が少なくて将来なれる職種の多い学部を受けることにしました。公立なのに3科目しか勉強しなくて良くなったのはラッキーです。問題は倍率がめっちゃ高いこと。ですが浪人したと言うのに私に本気度はあまりなかった気がします。高校時代よりは勉強したのは確かですが、予備校もサボりまくってたくらいなので。当時は将来をどう考えていたのかわからないです。何とかなるさと結構ポジティブだったのでしょう、性格は果てしなく暗いのにそういうところポジティブな理由が自分でもよくわかりません。

センター試験は一年目とは違う大学が試験場だったので両方の大学見れてラッキーだなあとか思いました。Aさん以外にも違う予備校で浪人してた友達に久しぶりに会えて嬉しかったですし倫理の模試で道内のトップ50名に名前が載ってたよねと言われ帰って確認すると本当に名前があってそれも嬉しかったです。まあ倫理は本当に選ぶ人が少ないですからね。でも浪人時代の唯一自慢できること。

センター試験の自己採点は予備校でやらされました。三教科しか勉強してなかったのに一応全教科受けてたのです。一応ね。正直現役時代より点数は悪かったです。なのに予備校の講師は私の国語の点数を見てすごいねとか言ってたから申し訳ないけどやっぱり予備校のレベルが低かったんだと思います。数年後にはこの予備校潰れてしまいましたし。

現役時代受けた大学は小論文だったけど、浪人して受けた大学は面接でした。人見知りで緊張しいなので面接とか大の苦手です。前期はなんとか頑張って受けました。落ちました。後期も面接。当日に大学前まで送ってもらって車を見送ったあと逃げました。私は地図とか地理とかわからないのだけれど、なんとなくこっちかなーとかやりながら歩いて街に着いて、家まで帰宅。この事は家族には言ってません。面接受けたことになってます。逃げたとはさすがに言えないです。お金もかかってるし送ってもらったりしてたので。

前期の合格発表の時に母方の従兄弟が東京で結婚式を挙げることになり家族全員で招待されたのですが、父は仕事の関係で行けず、私は一応浪人生らしく合格発表があるからとお断りして、母と姉が二人で出席しました。母は人生初の飛行機で姉がいろいろとお世話してあげたのもあり相当楽しい旅行になったそうです。従兄弟は母の姉の息子さんで私たち姉妹は年齢が離れていたためか、とてもかわいがってもらったのです。伯母もとても優しいひとで私は今でもしばしば電話でお話しています。近いうちにまた電話しようと思ってます。この旅行で母と姉は従兄弟の妹とその子どもたちとでディズニーランドに行ったり(2日連続で行ったらしい)姉は伯母夫婦のおごりで美味しいお店で高い生牡蠣を食べて牡蠣の食わず嫌いを克服して牡蠣好きになって帰ってきました。私の方は二人のこの旅行の間、元親友がずーっと泊まりに来てくれていて楽しくやってました。一応の合格発表も一緒に見に行ったりしました。あんまり元親友のこと書いてなかったけれどとにかく仲良しだったのです私たち。まあ、この年は特に問題も起こらなかったですね。結局、私が大学に落ちて予備校の講師から電話来て「来年どうするの?」「自動車の免許でもとりながら宅浪します」ってこたえたくらいが最後かな。

すみません!恋愛要素行く前に一年でたくさん書いてしまいました!多分次には恋愛要素あると思います!本当に申し訳ないです!あと自慢とか書いてヤバい奴ですみません!でも大学2回も落ちてるんで!しっかり頭悪いです!まあこの文章見たら頭悪いのバレバレですよね。

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