メガネを選ぶ=私を選ぶ
メガネを変えるタイミングとはいつなのだろうか、結構悩んでしまう。私は「なんか見えづらいなー」となってからしか行かないので、あまり頻繁にメガネを変える方ではない。
最近、メガネは自己表現の道具だと強く思うようになった。
唐突すぎて何のことか、となるが、フレームの形を変えるだけで「こうなりたい」という自分に手軽に変身できてしまうのが、メガネのすごいところである。
大学入学時にメガネを選んだ時は、「とにかく第一印象で勝つ!」と、それまでの野暮ったい銀縁をやめて、細身で下フチなしの、かなり鋭い印象のフレームを選んだ。実際、それは新生活に臨む「今までとは違う、シャープな私」を強く印象付けていた。で、ある日こう言われた。
「目つきこわいよね。なんか話しかけづらいというか。話してたら別に普通なのに」
それまで顔が幼いことをコンプレックスにしていた私は、「どうしたら下に見られないか」ということをかなり真剣に考え、そのために表情の練習までしていた。その是非は置いておくとして、それを極めた結果、人を威圧する目力とメガネのキツめの印象があいまって、初対面の人には少々強すぎる印象を与えてしまっていたらしい。
要するに、「下に見られるかもしれない」という私の情けない気持ちが、かえって私の印象を悪くしていたのである。
私は変わろうと思った。
まずメガネというものが信じられなくなったので、コンタクトに変えた。
自分の判断も信じられなくなったので、新しいメガネも人に選んでもらった。
コンタクトをつけた私は「フレッシュな私」であり、知らない人に会うときにはこの姿で出かけた。新しいフチなしメガネをかけた私は「大人びた私」として、スーツに似合うよ、と選んでもらった人に言われた。
でも、何か違う。
コンタクトの私はピッカピカの笑顔で話に相槌を打っている。メガネの私も穏やかな微笑をたたえながら自己紹介をしている。
そして家で前のメガネをかけた私は、ひどく疲れ切っている。
私がなりたい私とは、いったい何なのだろう。
二つの私を使い分けながら、答えの出る気配もなく時が過ぎた。
友人のメガネ選びに付き合ったときのこと。
私も友人にアドバイスを求めながらメガネを探したのだが、その日は結局満足いくものが見つからなかった。
で、私も友人にこれは合う、合わないなどと批評を加えていたのだが、友人がどういうイメージを目指しているのかがよくわからないので、最後には「いやーどっちでもいい気がする」としか言えなかった。
でもそれは、私にとってもそうなのではないだろうか。私の理想がわからないのに、友人が私のメガネを選べるはずもない。
私は、自分の理想を自分で決めることに自信をなくし、理想を人任せにしようとしていた。自分にきちんと向き合うことのできない、私の弱さゆえの結果である。
結局、私が自分で決めなければ、私は永遠に満足できない。
メガネ二つ分遠回りして、私はようやくその結論にたどりついた。
1か月後、友人がメガネを購入した店と同じところに出向き、店員さんに相談した。
店員さんは丁寧に売り場を案内して、フレームによる印象の違いを説明してくれた。
そうして私が選んだメガネは、実際とても私に似合っていた。
私はメガネの話しかしていないが、実生活の私の自己評価もおおむねメガネと連動していたように思う。
どんな自分になりたいか、決めるのは自分である。それが失敗することもある。でも、人に任せていてはいつまでも自分の正解は見つからない。
今になって入学当初のメガネを見直してみると、あちこちの塗装が剥げ、銀色が露出している。慌てて色を塗りなおしても、結局メッキは剥がれてしまうのだなと、私は苦笑した。