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そして愛が残り(劇場版怪盗クイーン・キツオタこじらせ感想編)

劇場版怪盗クイーンを見ました。

見ました、というか、見ている、というか。

劇場版OVAであるからにして公開初日からBlu-rayが発売されており、アーシらみたいな限界地方民も一回劇場に赴けば完全勝利できるってワケ……

 片道12時間かけて東京へ赴き、舞台挨拶に2回参加し、片道12時間かけて先ほど家に帰ってきたところです。

 まず前提として、劇場版怪盗クイーンは素晴らしいアニメだった。破綻のない美しい作画も、キャストの方々の演技も、脚本も演出も、スクリーンのこちら側への目配せも、何もかも含めて嬉しいことだらけで、こじらせ期間が長すぎて蛙男商会作のフラッシュアニメになることまで一通り想定済みであった私の心すら鳩の羽で優しく撫でてくれた。
 そう、ずっと怖かったのだ。
 一途と言えば聞こえはいいが、たった一つの作品に向けた20年物の思いなどもはや妄執である。劇場アニメ化が発表された去年の夏から、喜びに満ちた胸中の片隅に『何かがまかり間違ってアニメへの不満が生じ、児童書厄介成人クソオタク畜生道に堕ちてしまったらどうしよう……』という不安があった。まあ既にかなり救いがたい児童書厄介成人クソオタクではありますが………。

6年前のオタク、コワ~~~~(戦慄) 

 6月17日。朝9時20分の池袋で緊張だか興奮だか分からん震えを抑え込むこともできんまま劇場の席についてから1時間。別に基礎疾患があるわけでもないのだが見終えた後自分がどうなってしまうのか分からな過ぎて5種の薬をカバンに忍ばせていた。

 どうなってしまうのか。

 どうなってしまったのか。

 どうにもならなかった。

 上映終了し明転直後、誰のものでもない嘆息に満ちた館内で、10秒ほど虚脱したのち、一つの薬も使わずに立ち上がった。
 よかったねえ、おもしろかったねえ、と笑顔で語り合う人々に混ざって、長い長いエスカレーターを降りながら、どうにか言葉を、感想を捻り出そうとするものの、どうにも頭が浮ついていて、ロビーで30分後のチケットを買うことも忘れ、陽光射す中池袋公園のベンチに座ってぬるい伊右衛門を飲み、ようやくひとつだけ。

 いま、愛を見た。

 いま、愛を見ている。



どこにでも宿る

 愛。
 愛とは何か。
 辞書を引けば定義があり、人に聞けばそれぞれ答えもあろうが、こと、創作物に対する『愛』はどうもぐにょぐにょしていて難しい。誉めそやす時だけ『愛の込められた作品』なんて言ってみても、愛があるゆえにどうしようもなくなる作品もあるし、徹底してビジネスとして作られたゆえに上手いこと行く作品もある。撫でる愛があれば触れる愛もあり、殴ることを愛と呼ぶ人だっている。
 だから、私の見た愛を、あなたが愛と呼ぶかどうかは分からない。それでもよければ読んでほしい、話したいから。


 まず、劇場版怪盗クイーンの上映時間は58分である。1本のOVAとして見れば特に変哲のない時間だが、劇場上映作品としては、そして原作である『怪盗クイーンはサーカスがお好き』の文量を考えると、決して長くはない。

ついでだけど今kindleストアではやみね作品爆裂フェア中だからよォ………『理解る』よなァ…………????

 一介の読者からすると『なんで58分だけなのよォ!!???毎年一作づつ夏休み2時間アニメにしてよォ!!!』と趣旨を見失った身もだえをするしかないのだが、配給元であるポニーキャニオンの方々のインタビューを読むと、この形式がたいへんな苦悩と闘いの末に辿り着いたものであることが分かる。

 どうしても読者層が限られる児童書原作という媒体で、決して潤沢とは言えない予算で、限られた上映時間で。
 元から、何百回と読み込んだ作品だ。繰り返し鑑賞していると、 ああ、ここ好きなシーンだったけど削られちゃったんだなあ、とか、あそこ映像で見たかったなあ、とか、そういう気持ちになることはある。どうしたって。
 それでもいい、よかった、と思えるのはやはり、私が『愛』などという曖昧模糊としたものを、この映画から溢れんばかりに感じているからだ。


ああ、分かられている。


 と思った。映画を見ながら何度も。
 私たちが、この作品のどこを愛しているか。何を見たいと思っているか。誰に会えば嬉しいか。あるいは、映画を通して『怪盗クイーン』に初めて出会う人に対し、この物語の、このキャラクターの魅力をふんだんに。
 スクリーンのそのまた向こう側からのウインクは上越警部みたいに不器用ではなくて、画面にくぎ付けの私は心の中で、何度も必死に頷き返した。
 そう、これが見たかったんです。

 読者が作品に寄せる愛とは何か。それは続きが読みたい、あるいは読みたくないという気持ちだろうし、キャラクターに対する諸々の感情だろうし、果たして私には思いもつかない何かだろう。
 では、製作者が作品に寄せる愛とは何か。
 偉そうに言える身分ではないが、少なくとも私は、その作品の魅力を、見どころを、真っすぐに世界に伝えようとする姿勢こそを、創作物における愛と思う。
 パンフレットや各種インタビューを読むと、『はやみね作品がずっと大好きだった』とコメントするスタッフの、その多さに驚く。しかし、思い返せば納得もする。
 私たちははやみねかおる作品の、活字の向こうからこちらを見つめる、作者のに。10年以上小学校教師と児童小説家の二足の草鞋を履き、『盆と正月とGWにまとめて執筆する』という信じがたい執筆スタイルで、時に体をズタボロにしながらも、目の前にいる子供と、目の前にいない子供を思い続けるその人の眼差しに育てられた世代ではないか。
 劇場版怪盗クイーンには、スタッフの、キャストの、溢れんばかりの愛が溢れており、それは私の網膜で、蝸牛で、最高に魅力的な像を結んでくれた。
 いくら人気・歴史のあるシリーズだからと言って、興行的成功が約束されているわけではない。各種スタッフインタビューを読めば、苦難の道のりがいくらでも慮れる。それでも、この映画に関わった人々は、最善ではなく、最高を尽くしてくれた。今はただ、それが嬉しい。

https://miragequeen.jp/theater/

 

劇場版怪盗クイーンの上映はまだ始まったばかりだ。


 本音を言えば今すぐにでもあなたの家の玄関前に押しかけ全力でタオルを振り回しながら『はよ見に行けーーーーーッ💢💢💢遅なっても知らんぞーーーーーッ💢💢💢』と騒ぎ倒したいが、それこそ児童書厄介成人クソオタク畜生道待ったなしなので自戒、します。


 ここにひとつ、形のある愛があり、それは劇場映画の姿をしている。
 そして、誰かもいま、愛を見ている。



………。

…………。

……………は???

……………話が漫然としていて結局のところ作品のススメどころが分からなかった???

…………………………。

………………………………………………。




大画面の劇場音響で古川慎の催眠音声がタップリ聴取できるが………?






















.。.:*・゜+.。.:*・゜+.。 おしまい .。.:*・゜+.。.:*・゜+.