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11/29 異国が体から抜けていく。旅が終わる。

モスクワの空港で成田空港行きの便を待っていると、日本の旅行会社の団体ツアー客が次々にやってくる。彼らはきっとパックツアーの旅行者で、リッチに優雅に楽しんでいたのだろう。
中国にいるときは、日本語が恋しく思っていたけれど、こうやってツアー客の話す日本語を聞くと、「ああ、私はこの人たちと一緒に日本まで行っちゃうんだわ」と、あきらめに似た気持ちで思う。1人でバックパックした自分はツアーで優雅に楽しんだ彼らとは違うんだという卑小な自負だ。その自負が、天狗の鼻が、ベトナムからイスタンブールに飛んだ、日本人ゼロの環境を懐かしく思わせる。

仙台から東京に新幹線で行くときの気持ちに似ている。仙台から東京に行くときは、「戦いに行くぞ!」という気持ち。一緒に新幹線に乗る人は、同志のような。帰るときは、「私は今日東京でこんなことをしてきたんだぞ」という自負。それに今回の行き帰りの飛行機で思うことは似ている。

思えばこの旅は、不確定要素との闘いだった。起こってしまう突発的事項の対処に追われていた。こう書くとすごく事務的でビジネスめいてしまうかもしれないが、全くその通りだった。

北京の宿では、男女混合ドミトリーで日本人のお兄さんと二人部屋、近すぎるベッドで二人で眠った。

南京の宿では、私のベッドに見知らぬロシア人が眠っていた。

ホーチミンではいつ腹痛の波が来るかわからないなか観光した。

トルコ中部の街・アイドゥンではいつ発車するかわからないバスを30分待った。

旅にはいろんな楽しみ方がある。行き当たりばったりを楽しむ旅。観光地でただホテルでだらける旅。現地で友人を作る旅。私は、あらかた予定を立てていって、その予定を消化しつつその範囲内で自由行動をする旅が好きだ。

ベースは心配性なので予定がないと不安だ。何をどこから始めていいかわからない。なので一日に何をするか、どこに行くかは決めておく。ただ、その予定を消化する段階において突発的事項は起こる。その一つ一つについて、冷や汗をかきながら携帯を片手に、人に尋ねたりググり直したりして必死に一つ一つ片付けた。人事を尽くして天命を待つって、こういうことかなと、トルコで夜行バスを待ちながら、バス会社のオフィスで思ったのを思い出す。

旅をしていた私の体は、異国の食べ物と異国の空気と異国の思い出で満ちている。でも、日本に帰国してきて、上野駅のスタバにいると、このまま少しずつ日本の日常が体に入っていって、私の体をいっぱいにするんだなと感じる。

10kgのバックパックをもって、帰国したてでコーヒーを飲んでいる今はまだ、異国が半分くらい体の中に残っている。でもきっと明日になったら日常が埋め尽くすだろう。異国が体から抜けていく。そんな寂しさがある。

もしかしたらこれが、旅が終わる実感なのかもしれない。


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