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母親の話

この事を書こうと思ったのは、母親のお墓が出来たので、近いうちに納骨をすると言う話を家族からされたから。


僕の母親は若くして、肺がんに冒され、約4年の闘病生活。
その間に、僕の家族や母親への考え方や接し方は、同年代の友達とはまるっきり変わってしまった。

がんとわかった時には「余命半年」と言われた。
ステージⅣ、転移もしていて最悪の状況だった。
僕も、家族も、あの夏に母親が死んでしまうんじゃないかと思った。
そんなの急に言われても心の準備も出来てない。

いなくなる前に親孝行しなきゃ!と、思った。

僕が今まで母親にとても大切にされていた事、いつも僕の理解者だった事。
恩返しを少しでもしたいと思った。

なるべく、母親の残された時間を一緒に過ごしたかった。


しかし、母親の容体は思わしくなく、すぐに入院が決定した。

食事が出来ず、衰弱していたので体力が戻らないと治療は出来なかったからだ。

入院して暫くすると、体重が増えてきた。
顔色もだいぶ良くなり、ベリーショートだった髪の毛が伸びてきたから早く切りたいわ、なんて言うようになった。
体重が増えたとはいえ、相変わらずすごく痩せていたけど。

体調も安定してきた所で、抗がん剤治療を始めることになった。
入院中に初めて、副作用が少ないようなら通院でも可能と聞くと母親は「おうちに帰りたいわ」と寂しそうに笑っていた。

幸い、抗がん剤が体に合っていたのか、副作用もほとんど無く、帰宅の許可が下りて退院が決まった。
あの時は嬉しくて、みんなで喜んで、退院したら何食べにいく?どこか遊びに行く?なんて相談していた。


退院してからの母親はとても調子が良かった。
ご飯も食べられるし、笑顔も増えた。
平日は家で映画やドラマを観て、庭いじりをしたり、ご飯を作ってくれた。
休日は家族で出かけたり、一緒に買い物やカフェに行ったりした。
母と僕と姉と、母の友人とそのこどもたちみんなでディズニーにも行った。
みんなはしゃいで、ミッキーやミニーのカチューシャ付けて、お土産も沢山買って、すごく楽しかった。

周りから見たら、僕は相当なマザコンに見えていたと思う。
でも、マザコンで良かった。
だって、とても、とても、大切な人だから。
どんなに上手くいっても、僕が大人になって、就職して、初任給でプレゼントをするとか、結婚式とか、孫とか、見せてあげられる程、長生き出来ないのはわかっていたから、せめて出来ることを目一杯したかったから。

母親が「息子が優しくてなんでもしてくれるの」と友人に笑顔で話しているのを見た時、照れ臭さもあったけど、すごく嬉しかったのを覚えている。


両肺にあったがんの影がほとんどが消えるほど、抗がん剤は効いた。


医療ってすごいな、と思った。


コロナ真っ只中で、なかなか出かけられなくなってからは、ドライブや田舎へ行って庭を作ったり、一緒に料理をしたりした。


母親が亡くなる前の年の秋も深まったあたりに、急に体調を崩した。
がんだと言うことを忘れそうなくらいに普通に過ごしていたのに。


病院へ行くと、その場で入院が決定した。


目に見えてやつれていく母親。

怖くて仕方がなかった。
でも、コロナで直接会いに行く事が許されなかった。
何度も何度もお願いした。
それでも叶わなくて、手紙を書いた。
返事は来なかった。

がんの転移が脳、脳髄液にまで達していて、意識はあるがわからない状況になっていたから。

それでも、会いたくて、お願いした。
PCR検査も何度もした。


でも、僕の願いは叶わなかった。

母親に会えたのは、その手が冷たくなってからだった。


それが去年の事だ。


僕は、一年たった今も、まだ心の整理が出来ていない。
遺影の笑顔があまりにも綺麗で。
朝、リビングのドアを開ける度、おはようって出てくる気がする。
骨になったのを見たけど実感は湧かなくて。
まだまだ伝えたい事が沢山あったこと、最後にきちんと看取る事ができなかったこと。
この後悔が、いつか、後悔じゃなくなって、ただ素直に「お母さん、今までずっとありがとう」と言える日は、いつ来るのだろう。


納骨の日、入院中の僕は、立ち会う事が出来ない。
あぁ、また節目に、心の区切りがつけられない。
思う気持ちが大切だと、恋人は言ってくれる。
そうとはわかっていても、大切な時に僕も立ち会いたかったんだ。


今はまだ、整理する事は難しいけれど、天国にいる母親が天国でも自慢出来る息子になれるように頑張るよ。

僕はあなたの子供に生まれて、育ててもらって、同じ時を過ごせて、幸せでした。
僕にとって、最高のお母さんです。

ありがとう。


納骨、立ち会えなくてごめんなさい。

退院したら、お墓に会いに行くね。

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