自我を見つめている存在
自分を見つめるとか、客観的に見るとか、そういうことの必要性が大いにある時代になりました。
そういうことを誰もが求めている時代なんだと思います。
自分自身が感情に振り回されたり、コントロール不能になることは避けたい。
その為に自分自身を見つめて落ち着きたい。そういう気持ちが根底にはあると思います。
その気持ち、感情の元にある存在、それが自我です。
自我という自分の中の存在がそのトリガーとなっています。
それはまた性格と呼んでもいいかも知れません。
自我の性格、キャラクターがわたしたちを動かし、わたしたちにある固有の世界を見せるのです。
だから、わたしたちは世界をありのまま見ているのではなくて、わたしたちが世界を創り、それを体験している、そういう捉え方をした方が厳密には合っていると思います。
その主体が自我なのです。
僕がこの自我を強く意識し始めたのは、ソングライティングを始めた頃、二十歳位の頃だと思います。
当時は自我なんて、言葉は浮かんでいなくて、とにかく自分が思っていることを言葉にするのだ、という気持ちでした。
自分が思っていることを言葉にします。例えばそれを書きだします。
そして、それにメロディを付けて歌ったとします。
すると、もうその歌われている対象は別の存在のようになって、自分自身からは離れていくのです。
こんなことを考えていたんだ、僕は・・・
言葉にしてみて、初めてその姿を目撃します。
そんな作業を繰り返しているうちに、その存在がひとつの人格のように浮かび上がってきました。
その存在こそが自我の姿だった。
そういう気づきを得たのです。
そうなると、なぜこの自我はこのように世界を見るようになったのか?
なぜこのような性格になったのか?
そういう疑問が出てきます。
自我が作られた経緯、歴史。
それは無意識に追いやられているけど、ほぼ人間として発育していく過程にあります。
その形は6歳くらいまでに出来上がると発達心理学では言われています。
普通に思い出せる鮮明な記憶って、大人ならだいたい、小学生くらい。
だから、断片的な記憶はあっても、生まれてからの6年間は本人が思い出すことは出来ないのです。
でも、この期間に自我は作られている。
ここに人間の難しさがあるのです。
だから、自分のことが一番よくわからない。
そして、いよいよ、自分と向き合わなければならなくなって、ここに取り組むのです。
このタイミングは人それぞれです。その理由も。
そしてこの時初めて、ここに降りていくことになります。
自我の世界に降りていきます。
そして、どんどん振り返ります。
この時期、6歳頃までに自分に一番影響を与えた存在、そこを考えたら浮かび上がるのは親。そう親の存在なのです。
だから、自我と親との関係は密接です。
乳児期から学童期になるまでの期間。
そこでどんな経験をして、どんな思いをして、どんな存在であったか。
それがその人の世界を作ったと言っても言い過ぎではありません。
自我を見つめるということは、その作られ方、作られた経緯を追っかけていくことなのです。それは、つまり親との関係性をみていくことです。
この作業は決して楽しい事ばかりではないと思います。
時には辛い思い出もあるかも知れません。
しかし、ここに腰を据えないと自我を捕えることは出来ません。
ここから逃げるか、ここに立ち向かうか?
これが大きな分かれ道。
そうして、自我を見つめている内に気が付きます。
この自我を見つめている存在を。
この存在に気が付くと、見る世界と、見られる世界があったことが感覚として分かってきます。
そして、自我とは見られる世界で作られたひとつの姿であると、
あくまで、作られたという受動的な存在であると、気が付きます。
でも、自我と一体になっている時はそれに気づけません。
だからコントロール不能に陥るのです。振り回されるのです。
そこをゆっくり引き離していく作業。
それが大事だと思っています。
それが僕自身がやってきたことなんです。
だからすさのわという場所が出来、僕の役割も出てきたのかも知れません。
すさじいが伝えてきたことは、僕に新たな気づきをくれました。
見る自分、見られる自分。
自己と自我。
そして、この世のしくみ。
世界の見方がガラッと変わるような体験でした。