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思考を握られてしまった現代人

タイトルの通りですが、思考を握られてしまった、思考の幅を狭められてしまった、そんな気がしています。

本当はもっと、個人個人が世界を感じ、認識し、それを基に思考を組み立てることが出来たのではないかと思います。

それがいつからか、誰かが言っている見解を無意識にいただいて、それを自分の考えだと思い込むような思考回路になってしまいました。

僕の感覚では2000年代に入ってからぐらいだと思います。
不況が続き、経済的に先が見えなくなってきた頃。

お金が無くては生きていけない。お金を得るためには、お金を得るためのスキル、振舞い、行動、立場、つまりそういう常識を持つ必要がありました。

みんな、怖かったのです・・・自分だけが振り落とされるかも知れない。

だから、若者も早くから、社会性という常識を持つことに必死でした。

個より社会的な自分。

社会的な自分が社会にリンクしていないと、生きていけないという固定観念。

この観念に縛られ、思考の自由は無くなりました。

すっかり、無くなりました。

限られた中で思考をする枠を、いつの間にか、作られてしまったのです。

それ以外のことを考えさせない。

でも、「それ」が無意識に刷り込まれていて認識できない。

その刷り込みはマスコミがしっかりやっていました。

きっと、それは意図的に。

もう、ここまで来たんだと思います。

ここ最近の世の中の騒動も結局、わたしたち一人一人が考える力が無いから、何かに答えを求めるから、こんな状況ですね。

今までは、マスコミが統一の見解で、ある意味国民に安心を与えていました。それが確かだったかはわかりませんが、とりあえず、そこに寄りかかってきました。

でも、今は個々がそれぞれ発信できます。マスコミに出る権威もいるけど、ネットしか出ない権威もいます。

権威同士がぶつかって、どっちを信じるのか?
どっち派?というような分断も起きています。

思考はただ選ぶということではなくて、0から考えの構造を組み立て、その層をふくよかにしていくことです。

でも、それはちょっと面倒くさいのです。

そして、そういう思考は学校でもほとんどしません。

多分、わたしたちにとって一番、面倒くさいことなんですね。

一番、面倒くさいこと。

自分の頭で考える。

そして、その結果を自分が受け入れる。

でも、それをせずして、生きていると言えるのでしょうか・・・

ただただ、狭まれた思考の中で、日和見的に流されるだけでいいのでしょうか・・・

もう、気が付いたひとはたくさんいますね!

握られていた、正体というか、構造について。

誰が悪い!とかでは無いんです。どっちに付くとかでも。

構造を見ないようにしてきた、自分で考えないようにしてきた、そこを変えていくんです。

外を見て、あれはどうだ、これはどうだとジャッジしていくのではなくて、

どうしてわたしには世の中がこのように見えるのだろう?

という問いを自分に向けることです。

その方向性に向かえば、きちんと思考が働きます。

握られた思考から脱出することが出来ます。

もうたくさんの人が気付き始めました。

自分の翼の存在に気が付いています。

僕はもうすぐ、明けると思っています。

飛び立てると思っています。

日に日にそのことを感じています。