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天羽々斬、スサノオが切った大蛇とは?

スサノオがヤマタノオロチを退治した時に用いた剣は「天羽々斬」(アメノハバキリ)、別名「十拳剣」(トツカノツルギ)と呼ばれている。
天羽々斬の「羽々」(ハバ)が大蛇という意味らしい。
スサノオがヤマタノオロチを切った剣ということで「天羽々斬」という名前が付いたことが想像される。

この有名なオロチ退治の神話解釈で出てくる、ヤマタノオロチとはいったい何を表しているのか?

例えば、斐伊川の洪水の様子に例え、その灌漑に成功し土地を開いた偉人の話とか、元々この地に住んでいた、民族(オロチ族)を征服した話だとか、解釈はいくつもある。

どれもそれっぽい。ストーリーとして読むには大変面白い。

そもそも、神話とは何だろう?

出雲の地に住む僕にとって大変身近なこの話。身近であるがその直接的な意味や解釈は住んでいる者には到底及ばず、深くは考えたこともなかった。
様々な神話学者、歴史学者の解釈から気に入ったものを拝借する程度だ。
何せ時間スケールが大きすぎる。なんとなく昔のおとぎ話のようなものとして受け止めてきた。

しかし、古事記、日本書紀に書かれたこういった日本神話の多くは出雲の地が舞台になっていることが多く、記紀が書かれた時代(奈良時代)に出雲地方というのは何か大きな存在であったことは想像される。

そういった状況から、実質的な史実を探るのではなく、本質的に何を意味するものか?
具体的な解釈ではなく、哲学的に概念を構築するものと捉え、昇華させてみたい。
イデアとしての神話という角度から、抽象概念を再構築するのだ。

そのような考えをもつことになったきっかけは「ヌーソロジー」という宇宙哲学に出会ったことが大きい。


ヌーソロジー提唱者の半田広宣さんは新しい時代の空間認識としてよく「幅」と「奥行き」という概念を持ち出される。
私たちが当たり前に見ている知覚の空間に圧倒的な「差異」があることに気づかせてくれた。大きな反転。
そのような世界観から自分の中で、今まで無意識に眠っていた、知覚の現場に「奥行き」というメタな認知が生まれた。

まさか、空間の認識と神話が繋がってくるとは!

半田さんは言われる「神話は古い人間の世界であった話ではない。今もここで息づくイデアの話だ」と。
これを聞いた時、体中に電気が走った。
なるほど、昔の話だとすると、今の私の生命とは直接の関係はない。しかし、イデアの話ならば、今の生命の営みの根本を成すものだ。

こう考えていったとき、出雲神話の土地に住むものとしての自覚、意味を自分なりに考えるようになった。

そういった考えで、捉えた時の「天羽々斬」。
羽々はオロチ。オロチをハバと考え直し、ヌーソロジー的解釈でいう幅と捉える。幅は尺度、距離の概念上に成り立つ。
相対性理論によると距離がある空間には同時に時間が存在する。時空というやつだ。つまり時空という大蛇。
時間と空間に中にいる自分を想像する世界。私たちが普段当たり前に認識している外的な世界だ。大蛇に捉われた自己像。
私はどこにいる?と問われると日本の島根県の出雲市の・・・というように外側から見た私の肉体を想像する。私の周りに広がる空間をイメージする。
見られる私という世界。

では見る私はどこにいる?
見る私は、いつも見ている。視界そのもの。世界を感知し、映し出している、浮かび上がらせているホログラフィー。

私たちは普段この二つの私を行き来しながら生きている。

スサノオが羽々を切ったとは、幅を切ったとも言い換えられないか。
時間と空間に閉ざされた世界を切った。見られる空間から私を開放したのだ。

よくよく考えれば見られる私というのは見られると想像したから浮かび上がった自己像。
本当は存在しない、決して自分の知覚として全体を見ることが出来ない存在だ。
当たり前すぎて、意識化出来ていなかった自己、眠っていた自己。

ヌーソロジーはこのような世界観と量子論を重ね合わせ、新しい時代のゲシュタルトを示してくれる。

この出雲の地に「スサノオ」の神話やエピソードが多いというのは、実はこういった世界に関係するのではないか。
長い間それぞれが「見られる私」を主体において世界を構築してきた。
見られる私。だれが私を見てきたのか?私たちは誰に見られてきたのか?行き詰まりを見せてる世の中を打破するにはここをしっかり考えることだと思う。
見られる私と見る私。ここには大きな差異があった。見られる私を意識するあまり、潜在していた見る私。世界の主体としての私。
いよいよこの私が息を吹き返す番だ。神々の國と言われる出雲地方。国津神系の神の世界。

スサノオは見られる私で構築された世界を切り裂き、見る私の存在を浮かび上がらせてくれる!

ご縁を大切にする、出雲の人々。旧暦十月には神在月として八百万の神様が集まる。やはり、神様という存在を身近に感じている。私自体が大いなる何かに繋がっていると意識している人は多い。外的世界と内的世界の重なり方が絶妙だ。

新しい時代、スサノオはいよいよ私たちに、覚醒を促しているのだと思う。

新緑の風に包まれて、そっと目を閉じてみる。

須佐川のせせらぎが、新しい時代のヒントを運んできてくれそうだ。