歌声は自分を隠せない
僕は以前ボイストレーナーの仕事をやっていました。
東京の吉祥寺にあったボーカル教室。
吉祥寺は若者の街、音楽の街、プロ志望のボーカリストから、趣味で始めた年配の方まで、たくさん人の声と向き合いました。
声は顔と一緒。どれも同じことはありません。
どの声もその人らしくて、それぞれ素敵なんです。
そして、ボイストレーナをしていくうえで、「歌を歌う行為は自分をさらけ出す行為」「歌声は自分を隠せない」と実感するようになりました。
歌を共通項に関係を結ぶと自然とその人の「素」と向き合うことになる。
歌に対するイメージ、声に対するイメージ、歌うという行為、自分の姿、存在、見られる意識、キャラクター、人生観、等色々なものがその人から溢れ出てきます。
そう、歌声は自分を隠せないのです。
だからこそ、僕は歌に魅力を感じるし、歌、歌うことが好きなのかもしれません。
僕はたくさんの声と向き合ってきましたが「嫌いな歌声」「苦手な歌声」という歌声には出会ったことがありません。
もちろん、わざと変な声を意図的に出せば別です。
それは顔で言えば「変顔」のようなもので、一時的にしか作れません。
その人の自然な声はやっぱりその人っぽいし、味があります。どの声も印象に残ります。
声っておそらく、言葉を覚えてしゃべりだす時期に周りでしゃべられていた言葉を模倣し始めたところから出来上がったと思うんです。
もちろん、骨格や声帯なども発声に関係しますが、初めは聞いた音を耳で捉えて、それを真似ようとした音なんだと思います。
その音は親や家族,まわりの音。
つまりその人の外の音です環境です。元々は。
だから、そういう音が鳴っていた。
そう聞こえていた。
その結果だと思うんです。
元は、外からやってきた聴覚的刺激です。
その模倣で自分の声を作りました。
なので、その人の声を聞くと、その人の周りで鳴っていた音を想像させるのです。
わたしの周りではこんな音が鳴っていましたよ!
という自己表現でもあるのかなって思います、声って。
それはまるで海辺に落ちている貝殻を耳にあてるようなこと。
その人の内なる世界の音に触れる機会なのかなと思います。
そういえば歌って、唄、口に貝と書きますね。
そういうところからきているのかも知れません。
貝殻に耳を当てて聞こえる音は決して大きくありません。
そして、そんなに主張しません。
ただ、さざ波のように寄せては返す、穏やかな音、静かな調べ。
それが本来、鳴っているその人の声なんだと思います。
その声は自然体で世界とよく溶け合います。
そこに波の音、風の音が混ざればもうすでに音楽です。
自分の声に耳を澄ませば、小さかった頃、鳴ってた音を思い出すかもしれません。
それは誰かの声だったり、何かの音だったり。
その音をたよりに、周りの人を感じ、周りの気配を感じ、存在を実感していたはずです。
その音から作られた声は、今度はその人の存在を示します。
声を感じるとはそういうことで、世代を超えて受け継いできた結果の表れです。
決して、ゼロから獲得したものでは無くて、綿々と受け継がれてきた音の歴史だと思うんです。
そう考えると、もう隠しようがないし、それとして受け止めた方が自然ですね。
さあ、これから風の時代。
軽やかな風にどんな歌声を乗せていきますか?