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女性の時代

女性の時代と言われて随分経つ。

何となくそれは社会で女性が活躍するような意味で捉えられる。

女性が政治に参加できるようになった。
女性が仕事をできるようになった。
お金を稼げるようになった。
女性の地位が上がった。

それはこれまでたくさんの人が活動や啓蒙で獲得した権利。
そういった経緯があって、男女が平等に近づいていく、そういう文脈で語られる。
もちろんこれは素晴らしいことだ。
そういう意味では昔より随分良くなっている。

そこは前提として置きながら、女性の時代ってのは、どういうことなのか?今現在の感覚としてはどうなのか?考えてみる必要もある。

僕は男性だから、実感としては分からないけど、今現在そういった大きな差は徐々に無くなって、たしかに機会は平等になってきたと言われる。

でも、それは本当に女性が求めていたところだったのだろうか?
男性社会に女性が入っていくというのは、ひとつの権利だが、そこは男性性的なルールの中に女性が入っていくということだ。
社会という固定化された概念は基本、男性性優位で作られた。
権利や地位という構造を作った。

そして、そこで社会的な権利や地位を得るためには、義務を果たす必要がある。
権利と義務。ギブアンドテイク。
そういった取引の世界。それが大前提の世界。

この取引の世界を標準化していくと、それ以外の関係を非合理として無くしていく傾向がある。
そして、こういった合理化を自由、自由化と呼んでいる。

これは男性女性関係なく、言えること。
近代から現代、この「自由」という概念が世界に蔓延して、元々のその土地の世界観をどんどん崩していった。

この自由を喧伝して図りたかったのは価値の統一化。
この統一の価値を取引に使わなければ生きていけないという世界。
結局この価値を握っているものが一番強いということ。
それは現在の資本主義構造をみれば明らかだ。
この価値の外側の世界はないものとされてしまう。

それが自由なのか?

取引化できるものを増やしていくことは決して自由へ向かっている訳では無かった。
その価値にコントロールされてしまうことを意味していた。

今の世の中をみると、そう言わざるを得ない。


でも、もうそれを自由と呼ぶような時代は終わった気がする。

このシステムを裏で支えていたのは画一性、有限性、論理性だった。これがつまり男性性。

これが長い間と続いていた男性性的世界の姿。
もう十分その世界を堪能した。もうこの世界観の綻びがあちらこちらで見られる。

有限の物質的な豊かさはもう十分かも知れない。

そうなったときに、女性の時代は、決してここに向かうことじゃない。
女性がここに向かうことではなくて、ここに背を向けること。
それが本当の意味での、女性の時代だと思う。

そして、今までとは全く違う、新しい世界観を創造していくことだ。
それは多様性、無限性、感受性の世界。
違うことが前提。
価値はいつでも生み出せるが前提。
感覚、感情として受け止めるが前提。

それは、降り注ぐ恵みをただただ受け取る存在としての世界観。

今までだれもそんな世界を体験したことはないから、過去にそれを求めても分からない。
その世界さえも創造していかねばならない。
過去にはそのモデルは無い。


そして、それは取引の向こう側にあったものだった。
実はいつもあった。ずっとあった。

そこを見るには、取引の目隠しを外して、見せかけの自由を蹴り飛ばして、進まないといけない。

そして、そこには圧倒的に男性の理解が必要。
今男性がすべきなのは、ここだと思う。


男性も自分のなかの女性性について考えるということ。

矛盾を許したり、価値を生み出せる存在としての自己イメージを持ったり、感じること、共感することを大事にしたり、そういったことから始めていくしかない。

もう前の時代の男性像なんて、誰も求めていない。

新しい時代の風はそういうものだ。
この風を感じて動けるかどうか?
今、本当に男性が試されている。

女性の時代は女性がどう動くかより男性がどう変わるか。

それが本当のところだと思う。