「嫌い」をやりきってみる
かぶり慣れたコーチの帽子は脱いで、古い友達として話してみた。
私はまずなんやコイツと思ったら、心の中ではっきりと「嫌だ」と感じる。
人のこと嫌いだと感じるのは、お腹空いたらお菓子に手が伸びるくらいに、直感的で当たり前だ。
私は、人や物事を「嫌だ」と感じるのを我慢できない。
そんな私として、そのまま生きることにしてる。
嫌だ、嫌いだと思ったら、私の中でそのスタンスを遠慮なく取る。
スタンスを取るというのは、嫌だと思ってるのをそのままにしておくこと。
敵意剥き出しの態度を取るとか、攻撃的な物言いをすることではない。
自分の中で「嫌い」と思ってヨシってこと。
現実にだれかに危害を加えたりしないんだから、何思ったっていいのだ。
「そういうの嫌だな、やめてほしいな」とか思うのを溢れてくるまま止めないでおくと、気づくとほとんどの場合は忘れてしまう。いつの間にか枯れる感じ。
なんかいろいろ忘れてってる感覚だけがあって、何を忘れてしまったのか自分でわからない。
たまに嫌だと思ったことをXにポストして、何週間も経ってから見返してみてる。
引くくらいほとんど覚えてない。笑ってしまうほどに忘れる。
一種の健康法のように、嫌だなと思ってる自分を野放しにしている感じ。
おかげさまで、軽やかに生きれている気がする。
それでも、たまに忘れられなくて自分の中で渦巻いていることもある。
とても怖かったり、傷ついたりしたことだと思いきや、必ずしもそうではなく。
じゃあなにかと言うと、引きずっているのは「嫌だ」というスタンスを自分の中でしっかり取り切れなかったことなのだ。
自分の立場で嫌いとか思ってはいけない、とか。
嫌だと思ったら大切なものを失いそうだ、とか。
誰だって何かしら嫌だけどどうにしかしてるんだから、とか。
自分を諭すように、脅すように、押し込めたり後回しにしたりしたとき。
そのような選択をとることで、何か大切なものを守ろうとしたんだと思う。
だから、それはそれで健気で愛おしい私なのだが、身を挺して守っただけあって傷を負ってる感覚もある。
嫌だ、嫌なんだ!
ぜったいに嫌いだ!
許せない。いいわけがない。
受け入れることは断じてできない。
自分の中で、その声を出す。
何度も出す。
怒りと共に。悲しみの涙を流しながら。
声が枯れるほど搾り出す。
そういうの、けっこう気持ちいいよ。ヘルシーだし、身軽だよ。
・・・ということを、全部じゃないけどかいつまんで友達には言ったと思う。
友達は、誰かや何かを嫌いだと思うことは心の負担でしんどいと言っていた。
だから、嫌いになりたくないのだと。
そんなこと言ってる時点でもう嫌いだよね?って言ったら、確かに本当はすでに何コイツって思ってるって言ってた。
もうすでに十分すぎるほど嫌いじゃんw
2人で笑ってしまった。
そして、「距離取るわ、だって嫌いだから」と言ってた。
「自分はそれがすでに嫌なんだ」と正面から受け止めたら、どうするか/しないかということは呆気ないほどさっぱり素早く決まるものだ。
その後ちょっと思い出したのは、プロセスワークの学びの中で衝撃だったこと。
んなわけあるか!と思った。
それぞれのエッセンス、コアなエネルギーみたいなものは確かに全然違うと思う。
でも、両方とも「今の私の中にあったらしっくりこない」という点は共通してる。
「あの人が嫌い」は「今の私にしっくりこない」と同義なのだ。
「自分」を形作る柵があって、中と外をはっきりさせて自分を守る。
それがなかったら全部「自分」になってしまう。それこそ不安定すぎる。
だから、「あの人が嫌い」は、自分を守るための一種の線引きじゃないかなと思う。
それなのに気になってしまうというのは、嫌いと言いつつ、その人の中になんか私を誘ってくるものがあるのかもしれないよね。
母が言ってた。そういう人は羨ましがってるってことなのよ、と。
まあそういうわけなので、「嫌い」を恐れなくていいさというメッセージも受け取ってほしくて、これも少しラッピングして友達に贈った。
書いてみて思ったけど、私は本当にこの友達のこと愛してるな。
そして、私自身はしっかりとした柵をお持ちなようだ。
柵は揺らいでる。揺らぎを含みながら、私をかたどってる。