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金閣寺から邪馬台国を導く 〜金閣寺と巨大古墳ミステリー

今回はちょっと変わった視点から古代史ミステリーを語ってみたいと思います。
まだ誰も言ったことのない、バカ言ってると笑われるかもしれませんが、 
ちょっと耳を傾けてください。 ひょっとしたら、この発想が邪馬台国の場所を特定するカギになるかもしれません。

●金閣寺と大仙陵古墳は同じ意味で作られたーーー

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日本が世界に誇る2つの建造物。
時代が違うこの2つですが、おそらく両方同じ意味で作られました。
「そりゃ両方とも、権力者が権威を示すために作ったんでしょう?」
確かにそうなんですが、意地でも作らなきゃならない裏事情があったとみています。

どういうことか?  まず金閣寺を見てみましょう。
金閣寺を建立したのは、
室町幕府3代将軍・足利義満。最も栄華を極めた将軍でした。
ただ当時はまだ、南北朝で争っている最中で、南朝のパワーも侮れません。
九州肥後国(現熊本県菊池市)には南朝が征西府を置き、
征西将軍として後醍醐天皇の子・懐良 (かねよし)親王が勢力を張っていました。

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1369年、事は起こります。
中国明王朝の太祖が、
「日本国王」に東シナ海で略奪を繰り返す倭寇をどうにかして欲しい、と、
事もあろうに懐良親王に国書を送ってきたのです。
国書とは国の代表と代表が交わす正式な外交文書のこと。
そう、明は九州の懐良親王を日本国王(=天皇)と思い込んでいたのでしょう。
懐良親王は「良懐(りょうかい)」という名で、明に返書を送り、
最終的には日本国王として明と外交関係を結びます。

これにショックを受けたのは足利義満。
かねてから義満は明へ情景の念を抱いていたので、自分こそが国交を結ぶにふさわしい、と使者 を出すも認められず、
懐良親王が失脚した後も、しばらく義満は「良懐」と名を偽って明王朝と外交せざるを得ない事態に陥ってしまうのです。 

ようやく義満本人が明王朝に承認されたのは、30年以上経った1401年のこと。
その間、彼は苦渋をなめていたわけですね。
おそらく義満は、己の権威を明王朝からも認めさせ ようと、必要以上にヤッキになっていたでしょう。
九州ではなく、京都という都に見てくれと言わんばかりに、金閣寺などの荘厳な建築物を建てたのは、こう言った状況下だったわけです。(鹿苑寺1397年造営)

ーーこれは14世紀のお話です。
14世紀の時代でさえ、中国王朝は九州勢力の権力者を「日本国王」と思い込んでいた、 そういうことになります。
だとすれば、もっと古い時代ではどうだったのだろう…?
同じことが、5世紀の巨大古墳にも言えたのではないか、そんな発想が浮かびました。


●違いを見せたかった巨大古墳

中国王朝は古来より倭国とつながりがあり、少なくとも漢王朝(BC206~AD220年)までは、 「倭国の中心地は北部九州」とみなしていたようです。

あの有名な「漢委奴国王」の金印は、奴国(現在の福岡市)の王が倭王である、と 公言したものですし、また漢時代の鏡が、北部九州に集中して出土していることからも、 ”中国漢王朝は北部九州勢力と外交を結んでいた” と考えられます。
それに対し大和〜河内では、漢鏡など漢の時代の舶載鏡は、ほとんど出土しません。
つまり、漢王朝は九州に勢力を張る権力者を「倭国王」と、認識していたわけです。

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そして
邪馬台国の記述を最後に、中国の記録が途絶えて約150年間経った、5世紀初め、
世界的にも類のない巨大古墳が、大阪河内で造営されます。
なんであんな巨大な古墳が造られたのでしょう?
誉田御廟山古墳(応神天皇陵) 全長425メートル (5世紀初め造営)
大仙陵古墳(仁徳天皇陵)   全長525メートル (5世紀前半造営)

あり得ないほどの大きさです。
定説では、海から来た使者に王の権威を見せつけるために造られたとされていますが、必要以上の大きさは、何か強いメッセージ性を感じます。
そう、
その真意は、我々は中国のあなたたちが呼んだ「かつての倭」とは違うんだ!
我々はローカルな王ではない!この壮大な古墳を見よ!
スケールが桁外れに大きな力を、その権威を、中国王朝はじめ周辺諸国に見せつけて、認めさせたかった。その一心だっただろう、と私は思います。
そういう意味で、金閣寺造営と巨大古墳建設は、九州勢力が国王ではないことを中国王朝にまざまざと見せつけ、認めさせる手段だった、というわけです。

となると、
中国文献に書かれた3世紀(〜266年)までの倭と、
5世紀(413年〜)からの倭は、別国であった可能性が高くなります。
具体的に申しますと
3世紀までの「倭」は北部九州勢力。
5世紀からの「倭」は河内ヤマト政権を指していたのだろう、と。
では
3世紀に生きた卑弥呼は、
北部九州諸国の王だったのか、畿内ヤマトの王だったのか……。
皆さん
いかがお考えでしょうか……?

以上、ぼーっと古代史でした。

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