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邪馬台国畿内説を考える

先日、佐賀県吉野ヶ里で「よみがえる邪馬台国」というフォーラムありました。
聴講してきて驚いたのは、登壇された先生3名のうち2名は、「邪馬台国は大和にあった」と考えておられる点。吉野ヶ里という九州の地のフォーラムにも関わらずです(笑)。

一般に歴史学・考古学の先生方は、どうも「邪馬台国近畿説」支持が圧倒的で、
もはや当然の事実のように扱われているようです。

一方、一般聴衆の90%は「邪馬台国九州説」を支持。YouTubeなども観ますと、半数以上がやはり九州説。
つまりおもしろいことに、プロの歴史学者は邪馬台国大和説。
アマチュアは九州説が多数派となってきているんですね。
では、なぜ歴史学者の先生方は大和説を取るのか、
近年の研究成果を踏まえ、考えてみましょう。

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先生方の間で、最強の候補地としているのは、なんといっても奈良県桜井市にある日本最大級の遺跡「纏向遺跡」です。

2009年、ここの遺跡から東西にきちんと一直線に並んだ、3世紀中盤の巨大建物群跡が発見されました。東西南北を意識した建造物は、倭ではそれまで無く、中国思想の影響が見られます。
またここ周辺から西日本各地の土器が多数出土し、各地からこの都市に人々が集まってきた様子がうかがえるのです。
つまりこの3世紀の時代、ここまで広範囲に中心をなしたクニは、この纒向をおいて他にはありません。

3世紀と言えばまさに邪馬台国の時代。
実際、卑弥呼は238年に魏へ朝貢し、「親魏倭王」の金印と100枚の銅鏡を授かっています。卑弥呼が死んだのは248年。つまり、纏向遺跡の全盛期と重なり、この巨大建造物は“卑弥呼の宮殿“だったのではないか、とにわかに活気づきました。

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また、纏向の一角にある日本最初の大型前方後円墳「箸墓古墳」の造営年代は、
最近の研究で240〜260年であったかもしれないことがわかってきました。
(異論はありますが)
そうであるとすれば、なんと箸墓の造営と、卑弥呼の死んだ時期はほぼ一致し、
箸墓古墳=卑弥呼の墓ではないか、と考えるのはごく自然でしょう。

さらに、三角縁神獣鏡という鏡が、畿内を中心に多数見つかり、これが魏から授かった卑弥呼の鏡ではないか、と言われています。
もっとも中国では1面も見つかっておらず、日本国内だけ500面以上見つかっている不可解さから、これは卑弥呼の鏡とは関連がない、との説も有力ですが、畿内説の学者は「鏡の出来を見ると、その質に差があり、魏からもらった鏡をマネして倭国内でも作ったので、これだけ多くなったのだろう」としています。

ちなみに2018年10月、黒塚古墳(奈良県)出土の三角縁神獣鏡を蛍光X線分析にかけたところ、古代中国鏡とほぼ同じ成分であったことが確かめられました。
また鳥取県神原神社古墳から出土した三角縁神獣鏡の1面には、「景初三年」の文字が書かれており、景初三年と言えば、西暦239年。
つまり、卑弥呼が魏に朝貢した翌年にドンピシャなんですね。

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そう、これだけの考古学的証拠が揃えば、どう考えても「邪馬台国は大和にあった」と考えるのが自然。
さらに2018年5月に纏向の土坑から、2765個の桃の種が見つかりました。食べた跡ではなく祭祀に使ったようです。
桃は古来中国の神仙思想・道教でも神聖視され、初期道教を「鬼道」と呼ばれたことがあったそうです。ここから、これは「卑弥呼が道教を取り入れ行った鬼道」の証拠だったのではないかとし、邪馬台国大和説を補強しています。

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もっと言えば、この纒向遺跡の成立年代が3世紀前半。
それに呼応するかのように、数百年間、近畿で隆盛を極めた青銅器・銅鐸の民が消滅しました。
また、それまで仲のよかった吉備と出雲にも溝が生じ、吉備は親大和派、出雲は反大和派へ。伊勢・美濃・東海などのクニも大和へ参入した痕跡を、遺跡から見ることができます。
要するに、
纏向の成立が各地のクニの動きを左右させ、日本という国の成り立ちに、大きく踏み出したわけです
それはまさしく、クニグニが混乱した「倭国大乱」の後、各国の王に共立されて倭国をまとめた卑弥呼、その人の功績だったのではないか。

古伝の記録と、歴史的な流れ、そして考古学的な物証に蓋然性が出てくるわけです。


いかがでしょうか?
今、ザックリと説明しましたが、“邪馬台国大和説は揺るぎないものである“、と考える根拠はこういったことによります。
これを見れば、「なんだ、議論の余地もないじゃないか。邪馬台国は大和で決まり!」と思いますね。私も非常に説得力を感じます。

ただ一つ、注意すべき点をここに上げておくなら、
畿内説には、肝心の「魏志倭人伝」の考察が、あまりなされてないのではないかと。
「倭人伝」の記述に振り回されてはならない、とするのが学者の一般的な見解のようですが、となると、「倭人伝」の記述のどこが真実か、どこが虚偽かを見極め、本当に纏向に君臨した大国は「邪馬台国」だったのか?
それとも「倭人伝」には書かれてない別のクニだったのか?  
そもそも邪馬台国は大国だったのか……?
私は、そこから検証していく必要があると思っています。

以上、”ぼ〜っと古代史”でした。
(私の見解はこのサイト上のマガジン「邪馬台国の真相」に書きましたので、ここでは割愛します)

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