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古代ヤマト誕生〜ニギハヤヒは誰を殺したか?【3】なぜ大和が都になったか

【3】なぜ大和が都になったか

干魃で田んぼが干上がる。作物が実らない。大雨で集落が流される。
2世紀後半の天候不順は、古代人にさまざまな苦しみをもたらしました。
隣人の食べ物を略奪し、逆らう者には暴力をふるう。生き抜くための殺戮。

「後漢書」や「梁書」「魏志倭人伝」は、この頃に倭国が乱れ「倭国の乱」が起きたと伝えています。

 そしてこの時期に四隅突出型墳墓が山陰地方だけでなく、福井から石川県、さらに富山県 にも見られるようになります。これは青谷など出雲の民が東へ活路を見出そうと、海岸沿いをたどって稲作に適した平野を探し当てて、そこを拠点とした証でしょう。
しかしそれだけにとどまらず、先述したように出雲の高度な土木技術が大和まで 達しています。私は出雲の民が先住民のほとんどいない新天地をめざし、やがて奈良盆地までたどり着いたのではないかと思っています。後述しますが、纏向遺跡からは出雲系土器が多く出土している。そこに出雲の民がいなければ成り立たない事象でしょう。

一方同盟国の吉備もまた、瀬戸内海を東進し河内湖に入り、奈良盆地へと行き着いきました。
大阪府八尾市にある中田遺跡は、弥生時代後期から人が住み始め古墳時代には大集落に発展しますが、ここからは出る土器のほとんどは吉備式土器です。これも吉備の人たちが東進した痕跡と言っていいのではないでしょうか。

さて奈良盆地にはまだ鉄が入って来ず、散在する村が青銅器(銅鐸)にて豊作を祈るという農耕祭祀を行なっていました。吉備・出雲の開拓者たちは、洪水になっても水没しないよう奈良湿地帯の南東、「纏向(まきむく)」と呼ばれる山の扇状地に拠点を置きます。

ここは汽水湖が干上がってできた湿地帯。雑木林などは少なく平らな上に、東側の笠置山地・高見山地より 流れる川の水により土壌の塩分が抜け、幸運にも2世紀後半ころには稲作に適した耕地となりはじめました。
しかも川幅の狭い小川や小池がたくさんあり、水は豊富で、古代の土木技術でも治水しやすい環境と なったわけです。
地勢学的には本州の中央、交通の要所にあり、物流ルートの要に位置しました。西は大阪湾へ、東は伊勢湾へ、北は川路と琵琶湖湖水交通を利用して日本海へと、水運が可能でした。

奈良時代までこの盆地が都として栄え続けた理由は、この立地条件によります。

2世紀末。鉄を有した出雲・吉備同盟国が大和の地に根を下ろそうとしています。 まさに今、ヤマト王権誕生の舞台は整ったわけです。               (つづく)

全10回
(1)古代王は誰?        (2)殺された109体は何を語る?  
(3)なぜ大和が都になった?   (4)なぜ古墳から鏡が?
(5)神武東征伝説は本当か?   (6)ニギハヤヒの正体は?
(7)ナガスネヒコの正体は?   (8)なぜニギハヤヒはナガスネヒコを殺したのか?
(9) 箸墓古墳はなぜつくられたか? (10) 纏向は邪馬台国なのか?

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