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源平時代のうそホント【1】〜歴史ナナメ読み〜

今、私は某出版社から近々刊行される「まんが日本の歴史<平安時代編>」を描いています。
数年前には「まんが日本の歴史<奈良時代編>」までを集英社から出させていただいたので、日本の旧石器時代から鎌倉時代前夜までを、一応連続してマンガで網羅したことになります(笑)。
そこで、今回はあの有名な源平時代の最近の歴史解釈について、以前教科書で習った内容とぜんぜん違ったりする部分もあったりして、ちょっと意外で面白いので、お話ししたいと思います。
そういえば、鎌倉時代の開始年も「いい国(1192年)作ろう鎌倉幕府」ではなく、「いい箱(1185年)作ろう」に変わりましたよね。
それはなぜか?理由まで知る人は少ないかもしれません。
では、源氏と平氏のあの時代をわかりやすくナナメ読みで解説してみましょう。

INDEX
1)とってもいい人・清盛さま
2)鹿ヶ谷はなかった?

3) ブチぎれた清盛
4)以仁王 でかい爪痕を残す
5)巴御前はいなかった
6)なぜ鳥の羽音に逃げ惑う?
7)なぜ清盛は南都焼き討ちをした?
8)飢えた義仲、飢えた京に入る
9)義経VS義仲
10)「一の谷の戦い」のうそホン

11) 残念な義経さま
12)「屋島の戦い」のうそホント
13)「壇ノ浦の戦い」のうそホント
14) 鎌倉幕府はなぜ1185年?
15) もっと残念な義経さま

1)とってもいい人・清盛さま

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ご存知のかたが多いと思いますが、武士ってもともと貴族の用心棒でした。
世は乱れ、反乱やクーデターが頻繁に起こっていて、「こりゃやばい!」と都の貴族たちは武士に守ってもらわないと生きていけない時代だったのです。

やがて有力貴族の用心棒をしていた源氏や平氏が、エース級の武士になります。
特に平氏は清盛の父・忠盛が日宋貿易を手がけたり、豊かな国の受領(知事)を歴任したりして、莫大な資産を貯め込みます。清盛もそうだし、この親子って商人の才があったんでしょうね。
一方、源氏は1156年に起きた「保元の乱」で、源氏一族どおしが戦い、殺し合うハメになってしまい(用心棒どおしなので仕方ないのです)、源氏全体の勢力は少し衰えてしまうんです。

そして、この両者の差を決定づけたのが「平治の乱」(1159年)。
源氏と兵士が互いに敵同士になって戦ったのですが、その結果、棟梁の源義朝は謀殺され、源氏一族は散り散りの壊滅状態に。
一方、勝利した平清盛
名を挙げ、昇殿人となり確実に出世階段を登り始めるのでした。
ところが予期せぬことが起こります。勝利側の中で、次々に二条天皇や関白・基実が若死し、後白河上皇も幽閉され、政治を執るべきトップの人材がいなくなるのです。
そこで、それまで貿易などにより莫大な富を蓄え、惜しげもなく皇族や摂関家に分け与えて来た平清盛に白羽の矢が当たります。武士にもかかわらず、最終的には太政大臣に大抜擢。清盛は一躍国のトップにのし上がるのでした。(1167年)

この頃の清盛は「いい人」で、この後、政界は息子たちに任せてさっさと引退。
厳島神社を今のような美しい姿に修築したり、三十三間堂を作って後白河に寄贈したり、天皇家・摂関家にも気配りして、自身の出世欲はさほどなかったようです。

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2)鹿ヶ谷はなかった?

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さてそれでも「武士ごときが朝廷の殿上人などけしからん!」と思う連中たちは当然います。
特に、平氏一門の中でかなり天狗になっていた者もいたようでして、
「平氏にあらずんば 人にあらず」
よく清盛の言葉と勘違いしてる人がいますが、この言葉をのたまわったのは清盛の妻・時子の弟である平時忠。
もっとも時忠は、今でもよく酒の席で調子に乗る軽口の親戚のおじさんっていますよね。あんな感じ。以前にも口が災いして二条天皇を怒らせ、島流しに遭ったほどの男でした。

そんな平氏。面白く思ってない多くの者の代表は、誰あろう幽閉から解かれた後白河法皇。後白河派の面々が京都東山の鹿ヶ谷山荘で、近々平氏を討ち取ろうと密談をするのです。これが有名な「鹿ヶ谷の陰謀」。(1177年)
「瓶子(=平氏)が倒れて首が取れましたぞ」「ほほほ」
なんてベタなジョークが飛び出して、不敵な顔で笑いあうおっさんたち。
                (瓶子=酒の入ったビン。今のトックリ)

が、これは事実ではなく、反清盛派を一掃するために清盛がでっち上げた架空の密談だった、というのが最近の研究です。
「明日にでも延暦寺を攻撃せよ」と清盛に命じた後白河が、近々清盛の首を討ち取るぞ、と陰謀を画策するのはタイミングが不自然すぎる、というのが大きな理由。
この陰謀の発覚で、後白河こそ無罪放免とはなったものの、後白河の側近は斬首または島流しにされ、主な反清盛派はいなくなりました。
「鹿ヶ谷の陰謀」は、どっち側の「陰謀」だったのでしょうか?

3)ブチぎれた清盛

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以前は、仲が良かった清盛と後白河。
でもこの「鹿ヶ谷」の一件などで不仲が表面化します。
そこに追い討ちをかけたのが、二人の仲を繋いでいた清盛の息子・重盛のまさかの死。そして後白河の愛妻・滋子の若すぎる死。(滋子は清盛の義妹)
重盛と滋子、この二人は人格者で、いろいろと穏便に事が済むように働きかけていただけに、二人の死の代償は大きなものでした。

で、後白河はなにかと世話になったはずの重盛の領地を、死んだからと言って勝手に没収。平氏の預かっていた領地もさっさと摂関家のものに戻します。
これにブチぎれた清盛は、京都へ戻り大暴れ。
すでにあの頃の「いい人」ではなくなり、後白河を幽閉、平氏一門をどんどん公卿に起用して、平氏独裁政権を作っていくのです。
                 (治承3年のクーデター 1179年11月)
しかも翌年には高倉天皇を退位させ、新たな天皇には、なんとまだ1歳3ヶ月の自分の孫・安徳天皇を即位させてしまいます。
これはさすがにムチャクチャですねー。ブレーキが効かなくなった清盛。当然、まわりの軋轢は高まるのです。


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