源平の時代うそホント【3】〜歴史ナナメ解説〜
8)飢えた義仲、飢えた京に入る
そんな最中、清盛が熱病でこの世を去ってしまいます。
人々は「仏を焼いた祟りだ」と噂しました。
一方、北陸から怒涛の如く押し寄せた木曾義仲軍。
平氏にとっては、清盛も死んじゃったし南都の焼き討ちで周囲からは悪人呼ばわりされるし、ボロボロ。
義仲が来る前に、「これはヤバい、出直そう」と京都から逃げてしまいました。
てことは、京に敵はおらず、拍子抜けの義仲軍。
ここで義仲の兵は、京の町で乱暴狼藉をはたらき大混乱に陥れるわけですが、ちょっと彼らを擁護しますと、京はさっきも話したように大飢饉の真最中。
(養和の大飢饉)
「方丈記」によると、京都市中だけで43000人の死者が溢れたとあります。
ジョージ秋山先生『アシュラ』の人が人肉を食う悲惨なイントロは、この時の飢饉が舞台でした。
義仲軍は、きびしい戦も都に行けば美味いものにありつけると頑張ってやって来たのでしょう。が、実際は荒れ果てた死骸のような町。
「話が違うじゃん!」と食い物を探して強奪しまくって、暴徒と化したことでしょう。平氏が京をあっさり離れたのも、飢餓状態の京に見切りをつけたのが大きな理由かもしれません。
当然ながら、後白河は義仲を見限り、
「もう頼朝しかいない」と頼って、頼朝の東国支配権を認め、上洛を促します。
しかしそれを知った義仲は、キレました。
「俺が東国の支配者になるんじゃなかったのか!頼朝とこそこそ何やってる!このクソ天狗やろー」と、
なんと後白河の御院を襲い、火をかけてしまうのです。
史上初めて、武士自身が皇族を直接襲った事件でした。そこでさらに京は荒れ、またまた後白河は幽閉されてしまうのです。(法住寺合戦)
それにしてもこの人、何度幽閉されるんでしょうか?
9)義経VS義仲
そんな中、さっそうと京に登場し、義仲軍の垣間を縫って後白河を救出してしまうの男がいました。
そう、源義経です。カッコいい登場ですね。後白河にとっては待ちに待った頼朝方の軍勢の到着で、大いに喜んだでしょう。
「正義の味方が助けに来てくれたー!望みはなんでも聞いてやるぞ」と。
もっともこのときの頼朝は、朝廷に東国の支配権を認めさせるのが第一の目的でした。それを取りつけたのを見越して、京での報告を受けて、義仲討伐に動き出すのです。
義経軍のほかに、やはり弟の範頼軍を二手に分けて京をめざしました。
義経軍は南側の宇治橋から、範頼軍は東側の瀬田橋から、あっという間に攻め込み義仲軍は壊滅状態に。
義仲の最後は、2騎になって幼馴染の今井兼平とともに死場所を探し、琵琶湖のほとりで夢半ばにして散っていくのでした。
従来の説では、ここで義仲と巴御前との最後の別れを交わすシーンなのですが、残念ながらそれはないんですよね。
義仲は、あまりに目先の敵にこだわりすぎ、先を見る計画性を持たなかったのが敗因でしょう。追い詰められた義仲は、頼朝軍をやっつけるため、最後の手段として後白河の身柄を手土産に、平氏と合流しようとさえ考えていたそうです。
10)「一の谷の戦い」のうそホント
で、義経。
後白河たっての希望もあって、このまま西へ範頼とともに平氏討伐に向かいます。
(頼朝はこのとき、意外にも平氏との和平を考えてたようですが)
平氏の本拠地・福原の一角に「一の谷」があります。そこに陣を立てる平知盛。
大将の宗盛は海上におり、何千隻の平氏の船が瀬戸内に浮かんでいます。
範頼は摂津から海岸線づたいに東側に陣取り、義経は丹波の険しい山道を通り、敵の背後を突き、一気に攻め落とす作戦でした。
これが有名な「鵯越の坂落とし」。
「鹿でも下れる坂なら、馬でも降りれる!いくぞ」と、わずかな手勢で命をも顧みず一気に崖を駆け下り、平氏を大混乱に陥れ……!」
しかしこれはフィクションなようです。
鵯越は上洛するとき使う一般道だそうで、しかも最近の研究では、源氏軍は3手に分かれ、鵯越口から攻め入ったのは義経ではなく、摂津源氏の多田行綱だと。
義経は一の谷の西側に待機、まず山の背後から多田が攻め、直後に東から範頼、西から義経が攻撃。3方からの襲撃を受け、平氏は慌てて海へ逃げたというのが真実のようです。
どうも多田行綱の武功を義経に置き換えたのではないか、と最近では言われるようになりました。
11)残念な義経さま
さて、その勢いに乗じて次の戦いの舞台は、「屋島」へ移ると思いきや、違ってました。ここでいったん義経・範頼軍は引き上げます。
範頼は鎌倉へ戻り、義経はなぜか京に残るんです。
京に残ったことが、義経の運命を決めてしまったターニングポイント。
義経は京の人々から、義仲を討ち、平氏を追い払った“英雄“としてもてはやされます。とりわけ後白河から絶大の信頼を得て、「検非違使」になるよう任命されるのです。
検非違使と言えば、天皇のもとで警察・検察の仕事を一手に引き受ける重要ポスト。義経は、「源氏の誉!兄上もきっと喜んでくださる」と引き受けてしまいました。
そのことが頼朝の不信感を募らせます。
一般に、「朝廷から官位をもらったから頼朝は義経を排除したんだ」と言われますが、厳密には違うようです。
実際このとき頼朝自身も「正4位下」の官位を授かっていました。
最も問題だったのは、検非違使は京に常駐していなくてはならなかったこと。
後白河は、義経を手元に置き、とりこんで子飼いにしようと企んでいたようです。
“天下の大天狗“である後白河は、行く行くは義経を大将とした院政軍を組織し、頼朝の対抗馬にあてがうつもりでした。
頼朝はそれを見抜いていた。
何も知らなかったのは義経当人だけ。
だからこの後、義経はなぜ頼朝から距離を置かれ、自分が平氏討伐軍に呼ばれなかったのか、わからなかったのです。
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