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怒らせたい人と泣かせたい人の間で草を生やしたくなった話。

某掲示板のまとめ動画をみるのが楽しい。内容はさて置き棒読みちゃんのあの無機質な声を聞くとなんだか落ち着くからだ。

今日見ていたスレまとめに「俺っちは何もしなくてもお金もらいまくって生活してる」的なことを大袈裟にいう奴がいた。どこにでもいる俺TUEEEE系の人だなと思っていた。大体そういう俺TUEEEEだけ金持ち系の人はガチ金持ちの人の正論でオモチャにされるのがいつものオチだ。

私はどちらかというと後者なので、そういう偽物っぽい人をよく自分の映画に出演させてしまうことがある。現実は自分が創造しているので、世の中にそういう人が多いのではなく、私自身がそういう人を世界に投影させている。
メリットは何だろうと考えた時「正論で泣かせたいのかもしれない」という事が頭をよぎった。私自身も泣く側に回ることもある。

正論で泣かせたい人は、自分も泣いた経験があるからだろうと思う。自分に「人を泣かせるまで追い込んでよい」と許可を出すために、自分を泣かせる人まで出演させる。無意識の欲求とはなんて巧妙なのだろう。

思い返せば人を泣かせるのに全く抵抗がない。これは才能だろう。泣かせればなんでもいい。その為にずっと脳は冷静沈着を保っていた。相手がやることを観察し、ミスリードし、怒りそうな爆弾を持つ人を無意識に探していた。

俺TUEEEEの人は誰かがイラつくことをわざと言うことで相手が怒る顔をみたいという欲求を満たしている。芸能人を煽る人も、ネットニュースにそれなりのことを書く自宅警備員も、こたつ記者だって誰かが怒る顔がみたい。

でも、私の欲望は底知れない。その人たちが泣いてる姿を想像してしまうのだ。怒らせようとしてくる人がどうやったら泣くだろうか。その事を考えると胸がいっぱいになるのだ。
正論を叩きつけようか?機が来るまで熟成させようか?もしくはとんでもなく感動させるか?などと考えてしまっていることに気がつく。待て待て。そんなに慌てるな。

怒りの発散はストレス発散にはすごくいい。しかし、短期的なものなのですぐに次のものが欲しくなる。一方、泣かせたい人は仕込みを沢山するので時間がかかる代わりに一度誰かを泣かせるとしばらくは落ち着いている。衝動的犯行か、計画的犯行かの違いだ。

ふと、その中で「どちらでもないとしたら?」という疑問が沸いた。その狭間に草を生やすという役割の人がいないか。魅せプ大好きな秀吉と、ガチ勢の利休の間でお茶を濁してきた茶人がいたような気がする。(名前も忘れた)

ガチ勢が偽物の中に混ざると違和感がある。それがすごく面白い。コントでしかない。落語家がやる笑点くらい嘘過ぎて面白い。

私にもちょっと出来ないものだろうかと思案したのだった。

最後までお読みいただきありがとうございます、今日もいいことありますよ!