思ったことをそのまま言葉にしてみる

自分は狭い価値観で生きていると常々痛感させられる。

自分の苦手な人間がたくさんの人から好かれていたり、自分が正しいと思って起こした行動が叱られたりする。

人に前提を合わせることが苦手だ。
「なんで〇〇のこと嫌いなの?」と言われても、〇〇に対して好きが前提にある人に対して嫌いな理由をいくら並べたところで、僕の味方になってくれるわけもさらさらなく、「あぁ、そうなんだ」と受け流して、その話を当の〇〇本人に「この間あいつがこんなこと言っててさ」と情報を横流しする。こっちは穏便に生きていたいのに、周りの人間のコンテンツとして消費される。
「何でわざわざそんなことするんだ。」と言われた時も、自分が何を考えて行動したかを説明しても全く聞く耳をもってもらえない。なぜなら相手にとって自分の行動は全く不必要だったからだ。逐一全ての行動指針を与えていたならまだしも、こっちが考えて動いたら「なんでそんなことするの?」と気づいたら責められてる。たとえゴールが一緒でもプロセスが違うだけで、イライラさせてしまう。

それでもいいと思ってる自分がいる。前提がズレていようが、それはそれでいい。そんな開き直りをしたら危ないんじゃないかという感覚はあるものの、自分と周りとの感覚の違いによるすれ違いはもうしょうがないと諦めてしまっている。
他人の目線や意見を気にせずに、自分の思ったように行動してる時が、結果がどうであれ納得して、「ひとまず自分は〇〇をすることができた」という少しの満足感を持って生きられる。

結果がどうであれ、と書いたけど本当に結果はどうでもいいと思っている自分もいる。
自分の生活を観察してみると、たまにギャンブルで周りが引くようなのめり込み方をしている。ラブソングも幸せの渦中よりも恋の終わりとか好きな人に振り向いてもらえなくて苦しんでる歌ばっかり聴いている。それも自分が悩んでいるとかではなくて、良いことなんて何もないことが当たり前だと思えることにカタルシスを感じている。元々自分は何かに苦しむこと自体に肯定的だから何でもいいのかもしれない。

前提を合わせずに周りの何かを失ったり、ストレスを溜めたりすることはあっても、前提を合わせて自分から何かが失われたり、ストレスを溜めたりすることの方が何となく怖い。自分を捨て続けて関係性が構築されていくと、取り返しのつかないところで爆発してしまう。
相手に合わせたり、自分という存在を一旦消すみたいなことは散々やってきたから、問題になるラインにならない程度には上手くできるんじゃないか、そう思ってる。

前提を合わせないことを簡素な言葉で述べると、"自分らしく生きる"ということになると思う。

あれ、でも前提ってそもそもなんだ?そんなもの幻想なんじゃないか?頭が空っぽだったら、前提という前提が成立しない。こちらが与えて初めて、前提があったということが発覚するのではないか。

そう考えるとよりいっそう、それでもいいと思っている自分が正しいような気がしてくる。前提がないのであれば、ひとまず先に考えたり、行動したりしている自分を肯定しておきたい。多様性のある価値観を認める前に、自分の価値観を客観視したうえで認めてあげられた方が社会は生きにくくても手を広げられる範囲の生きやすさは手に入りそうだ。自分らしく生きるという理想論の負の側面を垣間見た気がした。

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