エアコン設定

「神は仰られて……」
「黙らんか! この異端者がっ」
「異端者だと!? 貴様は唯一にして崇高なる我らが父。全なる主を愚弄するというのか!」
「貴様ら心卑しき者の偽られし神など……」
 俺は、眼前で繰り広げられるソレを前に心の底から思った。
 どうしてこうなった、と。
「主は申し上げられてい……」
 ここはテレビ局の控室であるはずだ。なのに何故? 宣教師二人が疑似宗教戦争をしているのか? 俺は甚だ疑問でならない。
「異端を神と奉るか! 無法者がっ」
 尤も、これは宗教戦争そのものでもある。……はずだ。
「貴様らこそ、偶像崇拝も甚だしい。神は勇逸にして無二で……」
 まぁ、繰り広げられているのは壮絶な殺し合いではなく、単なる舌戦。
舌戦というかも疑問であるのだが……。まぁ、小学生の口喧嘩と同程度もしくはそれ以下のIQしか持ち合わせていない者同士のソレは舌戦と例えるには稚拙にすぎる。
「「#$%#&##$#~=$#“!」」
 もはや何を言っているかも聞き取れないほどに、彼等は互いを貶し、罵り、そして如何に自分達が敬虔であるかを謳い神とやらの尊さを説き続ける。
「だから神は言っているのだ!」
「貴様如きが主の御言葉を賜るだと!?」
 まったく面白いことに人間という生き物は、自身に絶対の正義があると信じて疑わないとき、それは自身の醜悪さに目を瞑り、他人の醜さを声高々に非難して見せるのだ。
 お前は、間違っている、と。
「異端の分際で神を語る等……。烏滸(おこ)がましいにも程があるぞ!」
 故に、互いの正義が衝突するこの場において、正義など聞こえの良いものは存在し得ない。
 如何に美辞麗句を着飾ろうと、本質は自分こそが正義たらしめんとする利己心のぶつかり合いであり、言うなれば単なる承認欲求を満たしているに過ぎないのだ。
 何故、自己を肯定し得るのに、他人を肯定できない? 何故、自身の正義を他人へ強要するのに、他人の正義を容認できない?
 それは、彼らが神という絶対なる大儀名分を有するからに他ならない。まったくもって傲慢も甚だしい事に、彼等は正義を貫かんと何処までも傲岸不遜であり続ける。 
 宗教とは無縁の俺には、まったくもって理解できない思考だ。
 尤も、俺は全ての宗教を、信仰を否定しているわけではないのだ。善良であらんとする心のソレ自体は非常に尊いものである。
 だが、眼前の二人は果たしてそのような思考が一片でもあるかは甚だ疑問であるのだが。
 それにしても、宗派の異なる宣教師二人を対談させようと提案した番組プロデューサー、奴だけは許さん。
 面倒事を増やしやがって、次見かけたら絶対に〆てやる。上司だけど……、もう知らん。
「主の慈悲に報いる事こそ、我ら子の本懐ではないのかっ!」
「邪神の子になった覚えなぞないわ!」
 さてと、まずはこの状況をどう処理するかだが……。どうしようもないな。
 いやはや、まったく。よくもまぁ、崇拝する神も、聖地も、発祥地すらも、全てが同じ。同一の素体から生まれたというのに、成熟する過程で何をどう間違えたらここまで貶しあいが出来るのやら……。
 感嘆さえ覚えるほどに無価値であり、果てしなく無意味な時間の浪費。合理性の欠片もないソレだが。
「邪神だと? ふざけるな」
 に、しても……。
「邪神を邪神と言って何が悪い? 神は仰っている。適温は26度であると!」
「いいや。主の御言葉を偽りし者よ。主は申し上げているのだ。適温は28度である!」
 この二人は、たかだかエアコンの設定如きで、なかなかどうして、これほどまでに言い争えるのだろうか……?
 事態の収取以前に、俺はそこが気になって仕方ない。

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