住んでいる場所が、住みたい場所という捉え方

「どこでも住めるとしたら」などと人は言うが、生き物としては、以下の条件を満たしていれば多分住める。
・酸素があり、呼吸ができる
・水を含む食料がある
・生存可能な気温

なので、「どこでも住めるとしたら(実際には住めないけど)」という反実仮想として住みたい場所を考えると、
・酸素がない宇宙や、水中
・食料のないサバンナ
・極寒の南極、灼熱のマグマの中
あたりが候補になってくる。

それ以外は、言ってしまえば、住もうと思えば住めるので、「どこでも住めるとしたら」にはあたらない。だって生き物的には住めるので。

でも、実際には住めない場所が多い。
それは、人間が生み出した社会という制約と、人間の感情によって制限されているように思う。

まず、現代社会では、場所というものには所有者がいる。(日本には所有者不明の土地が22%ある、という社会問題はあるらしいが。)
誰かの持ち物なので、勝手にそこで暮らすことは許されていないし、間借りすることが出来る場合にも、賃料の支払いを求められる。

私のような一般市民は自由にお金を得ることは難しい。なので、土地の所有や間借りに高い費用がかかる場所、例えば東京都港区には私は住めない。

以上の所有権や金銭面の問題は社会による制約の例で、宗教上の理由で住む場所が制限される場合もあるかもしれないし、そもそもビザがないと入国できないので住みようがないとか、そういうこともあるかもしれない。

つまるところ、生き物としての生存条件、社会による制約をクリアした場所の中で、人間は住む場所を選択する、その場合の選択は、個人の感情や価値観が如実に現れるものとなる。

仕事を重視する人は職場の近くに住むだろうし、友人関係を重視する人は友人が多い場所に住むだろう。それぞれが何に重きを置いているか、に依存する。

私は自然、特に山と川が好きで、田舎に住みたいと思うが、田舎すぎても不便で困るので、自然に近いけどある程度便利な場所、人口が20〜50万人くらいの地方都市に住みたい。感情としては、岐阜とか松本が好きな街なので、そのあたりに住みたい、でも、実際には、大学を出てから丸4年、首都圏に住んでいる。住みたい場所に住んでいない、その主な言い訳は「そこにはやりたい仕事、やれる仕事がない」である。

結局のところ、自覚的かどうかは置いておいて、いまは自然よりも仕事、という価値観なのだろう。価値観というよりは、優先度なのかもしれない。

と考えていくと、実は今住んでいる場所が、住みたい場所なのかもしれない、と思えてくる。

選択肢の多寡は人によって様々だが、いくつかの選択肢がある中で住む場所を決めている人は、多分そうだ。住みたいのに住めない、と言っている人は、何としてでもそこに住む、とは思っていないのかもしれない。制約というものは、個人の努力で乗り越えられる/乗り越えられないの境界が曖昧なものがおそらくある。私の「やりたい仕事がない」は、乗り越えられない制約ではないと思う。

それでも、私はそれを言い訳に首都圏に住んでいるということは、私はそう望んでいるのだろう。自分の価値観を正しく言語化するのは難しい。自分が自分の全てを知っているわけでもない。引っ越した時が、価値観が変わった時になるのではないか。価値観は不変のものではない。

「〜だから〜に住みたい」のではなく、「〜に住むことを選択した私は、〜という価値観なのかもしれない」という捉え方は、自分を理解する手段になるような気がする。それは、自分が住んでいる場所への理解、愛着にも繋がるかもしれない。

#どこでも住めるとしたら

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