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成熟社会のクラウドファンディング

今週から始まった鹿児島のジャズ喫茶の貴重な音楽的資源や(https://motion-gallery.net/projects/mon_innovate

一昨日参加した海士町アズマ堂の企画( https://motion-gallery.net/projects/azumado

のように、自分が尊敬している身近な仲間が立てたプロジェクトや、

自身が個人でこの1ヶ月でやってみたふたつのpolcaでの企画

(こちらは進行中→ https://polca.jp/projects/FYhN1UzAMhV

(こちらは終了 →https://polca.jp/projects/WoqokFFlQDa)

を通じ。
クラウドファンディングが自分たちの生活でさらに当然の資金調達方法になってきているのに気付き、最近じんわりと気持ちのよさを感じる。
この気持ち良さとは何なのだろう、と思っていたけど。

自身の感覚の変化を辿ってみるに、「お金が無いからできない」のではなく、使命に対しどう資金を調達するか でしかない、という事実を身をもって理解できる、ということなんじゃないか、とわかり始めた。

つまり、”不足”を解消するためではなく、物質的には満たされた状態から次へ行くときのお金の使われ方、ということなんだろうか。


自分たちよりも少し下のミレニアルズど真ん中の人たちはおそらく既に、より自由にこういう感覚を持ち合わせているのだろうけど。なんとなく自分の同じか少し上のバブル以降世代までは寄付とか募金みたいなことに対する清貧思想みたいなものが強かったように感じていて。(これって、私だけでしょうか?)
でもそういうのからも解放されるようになってきた気がします。


もう今の時代、特に日本においてはお金だけありゃいいってもんじゃないですし、でも何かを成し遂げるときのお金をどうやって調達するのか、その方法はより自由になるべきときだろうって感じがひしひしとします。

これまでも、仲間が立ち上げたクラウドファンディングに参加することは何度もあったけれど、最近はその辺りがよりライトに、肩肘張らずに、本当に投げ銭というかおひねり?心意気とかご祝儀、応援、という気持ちでできるようになっている気がして、楽しいな、と。


あと、自分たちのようないま30代半ばみたいな世代はデジタルとアナログの本当に境目で過ごしてきているので「ああ…!これにまだ間に合ってよかった!!」とアナログの価値が完全に見えなくなる直前ギリギリに気付ける部分も、多い気がしています。冒頭に書いた音楽的な資産とか、場所とか、そういった目に見えにくい私たちの前の世代が築いてきた財産だったりも、クラウドファンディングとの相性がとってもいいわけで。


意思あるところにどんどん”本気度の高い「いいね」”(つまり投げ銭的なもの)が支払われ、お金が通貨としての本来の意味を見失わないような時代になっていったら素敵ですよね。まさに成熟社会の経済ってこういうことなんだろうなと感じてます。

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