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蘭 第一話 蘭の花

あらすじ

「僕らって魂が手と手を繋ぎあってるみたいな感じなんだって。」
 彼女を見る。僕を見て目と頬に光をたたえて微笑んだ。
 13歳のとき、蘭に出会った。栗色のくせっけ、ブラウンの目とふてくされた顔。彼女に纏う影に嫌な顔をして、1人で生きていた。色を変えて。
「私の綺麗でつややかな瓶は空になるんだ。干からびていく、代わりに何を持つこともなく。」だからさ、蘭、僕ら下を見るくらいなら空を見よう。
絶対に下は見ないで影を拭って、2人でここから笑って出よう。

本編
 水晶のような目で彼女が言う。
「海の見える家で、大きな犬と暮らすの。ギターと本持ってどこにだって行く。たしかに幸福に。そうして幸せだと思えて、ずっとほしかった大人になった時、養子をもらってその子を大切に育てていきたいんだ。沢山愛してるよっていう。自分の子供は欲しくないよ。」
そう真っすぐ言った彼女を、僕はあの頃どんな顔で見ていただろう。
 
 絶対に俯かず、どこまでも進み大事なものを守りきった彼女の横で、僕はたしかなものをたくさん見た。オープンで好奇心が強い人だと、話して、笑って、すぐに分かる。だけど悩みだとか、彼女の心の中にある一番柔らかくてもろいものを人に言うことはない。出会ってすぐに、どこか他人を信じていない拒絶しているようなところを彼女から感じずにはいられなかった。彼女が嫌がりもってる重たいものの存在に気づいたこと、あるいはそれがどんなふうにおさまっていて、彼女をどんな気持ちにするのかに敏感に気がついたからだろうか。僕ら互いに、ちょっとほかの誰とも出来ない関わり方をすることができた。

 彼女はそのひたすらに考え、ぐるりと囲んで自分の中にぎゅうぎゅうと留めていた考えを、言葉を、雨上がりの花から雫が垂れるようにゆっくりとしずかにぼくと話すようになった。彼女の話し方で、透明なあの目で見て僕に伝えた。ことん、と。わっと。りんと。
ほかの人にとってどうなのかはわからない。でも僕らにとっては、自分の中にあるどぷんと重たいものを話すのは、ただ苦く顔のゆがむようなものでしかなかった。そうしてしまうことのもつ可能性に敏感で、意味を見出せずにいたから。だから、自分と同じ感覚を持つ人を見ること、一緒にいることは不思議で新鮮だった。その重たいものに浸かる時間、それがまとわりついてくること、その重たさの正体と向き合うことは途方もなく、寂しく孤独だ。
 
 でも、彼女はそれらから目を伏せる、ごまかす、嫌う、そのどれも選ばない。それを手で包んで見つめて、昇華させてった。僕はそんな彼女と出会って、全てが瞬く間に変わってった。
 そして彼女もまた、僕といる時怖がることなく自由にただすべての彼女でいた。透明で、青色、群青色で、透けるようなオレンジ、緑と赤と白の線が混じった黒。
 それができるのはとても特別で、難しいことなのだ。愛でとってもあふれている場所にいることが必要だから。
でもそれが僕らの日常で、人生だった。
 
 くせっけの栗色のショートヘアが力強く跳ねていた。沢山の色を全身に彩って流して、彼女はさなぎからすっと出るみたいにつるりとみずみずしい姿で外へと出た。飛ぶように、自由を喜ぶ笑顔で。思い出すと僕は笑ってしまって、いつだって水彩色で彩られる。
 
これは蘭の物語。強く美しく、愛に満ちた特別な人の話。


 
 僕らが出会ったのは中学2年生の5月頃だった。僕は13歳になったばかりで、緑の葉が町を色づけて、懐かしい少しのんびりした風が、さわやかな心地いい空気をつくっていた。彼女の家族は家の横にできた新しい家に越してきて、もともとの区間が異なっていたから彼女と僕の中学校は異なり、互いのことは知らなかった。

 その日、窓からぼんやりとひっこしの様子をみていたことを覚えている。そしてその時、アンバランスな家族だ、となんとなく思った。ひょろりとしていて、栗色でくせっけのショートボブの髪が見えた。それはその子が自由に動くのに合わせてくるくると跳ねる。なぜだか目を惹かれて、しばらくその突拍子もないいろんな動きをする子を見ていた。

生意気そうな不貞腐れたような顔はその子を落ち着きのない男の子みたいに見せていた。少年のような雰囲気を全身から発散していて、僕は気がついたらくすくすと笑ってしまっていた。父親だろう背の高い男の人が、引っ越し作業のため部屋と庭を行ったり来たりし始めるまで、僕は愉快な気持ちで笑っていた。

その人は、その女の子と何か持っている色のようなものが似ていた。その人が持っているものが、墨のようにじわりと、彼女ににじんでいるような感覚にとらわれる。そしてそれは、その子が別にちっとも望んでいないものであるんだろうことが僕にはただ当然のことのように見えたのだった。でもその墨の効力は彼女にしか効かない。彼女とその人だけがそれをもつことが出来るみたいに、彼女にだけにじんでいて、そしてそれを嫌がる彼女にもその存在は見えている。

 だけど表情か、なんなのだろう。目のもつ光、がまるで違った。その父親だろう人は表情を変えることなく作業の指示を繰り返していて、まっすぐなロングヘアの母親らしき人が静かにその引っ越し作業を見て立っていた。
そしてその人のそばでは、小学低学年くらいにみえる小さな女の子がしゃがんで何かを一生懸命に探しているのだった。四葉のクローバーかもしれないなと僕は思った。そんなのんきなことを考えるくらい、その子はなんだか無垢で幸せそうで、何も知らない、気がついていないみたいな感じだったから。その子の髪の毛もくるくるとあの女の子みたいで、ずっと楽しそうに笑っていた。

  ぼくの母は働きながら一人で僕を育ててきた。中学校一年生の時に離婚したから。別にそれまで一緒に暮らしてたわけじゃなかったけど、正式に僕を一人で育てることになったのがそのころだった。あまり会うことがなくても、両親の重たくてぐちゃぐちゃした空間や関係は垣間見えた。父親は僕がまだ幼いころに浮気して、母親はそれでもその人が好きだったのだ。母は優秀で仕事ができる人でお金には困らなかったけど、父親はあまり働かなくて、まあそんな感じだった。僕は少しもあの人が好きじゃなくて、関わりたくも母親に関わって欲しくもなかったけど、母さんは僕に「あの人のことが好きだからしばらく考える。しばらくごちゃついてしまうと思う。」と言った。僕が自分を取り巻く環境の違和感を覚え始めたころに。だから大丈夫だった。認めてくれないと何も始まらないけど、進みたくても進めないけど、母さんは認めたから。僕は分かったと言い、そこに何か期待をしなかった。

 
 そして今駅から15分ほど離れた場所にある、のどかで広々とした緑の多い町の一軒家に、母と僕と柴犬のルナとで暮らしている。母さんが隣の新しく越してきた家族のもとへ挨拶にいき(母さんの仕事が忙しく、隣の家の人が来るタイミングに合わなかった)、その時に隣の住人は蘭と鈴という二人の娘がいる4人家族だということを僕らは知った。越してきてすぐ、蘭はよく泣いたり叫んだりしながら家を飛び出していた。ぼくはそれにさほど驚かず、そのたびただ何かひんやりと冷たいものがすっと心を通るのを感じるのだった。
 
  ある日、僕は窓を開け放して自分の部屋のベッドで本を読んでいた。心地いい風が入って来て、僕の髪と白いシャツを揺らす。その時泣きながら叫ぶ声が下から聞こえた。どんと鈍い音がして、案の定僕の胸には冷たいものがさっと通過し反射的に窓の外を見る。バンと強い音がして、素足で転びそうになりながらドアから飛び出した鼻と目を真っ赤にした子が振り返りもせずにどこかへ消えていくのが目に映った。
 なぜか起き上がった僕はぼんやりと外を見ていて、どのくらいそのままそうしてただろう。
 ライム色の半袖のシャツを着た彼女はしばらくして戻ってきて、つまらなさそうに、睨むように家を見ていた。家の敷地の前の段差を、公園にある落っこちないように歩く遊具に見立てて歩き始めた。裸足のまま、ただなんども往復して。なぜだかわからないけどただその子の姿を窓際に頬杖をついたまま見ていた。一番端の家を折り返し、また戻ってきた彼女が舌打ちをついて上を見上げた。その時、本を持ったまま見つづけていた僕は初めて彼女の目を正面から見た。
  
 ブラウンの目と、栗色のくせっけの髪。
ぼくは気がついたら、「蘭。」とそのふてくされた顔で僕を見る子の名前を呼んでいた。
 
その日からだった、僕らが話し始めたの。
 
 話始めてすぐに、彼女は拍子抜けするほど明るくて、大きな声であっはっはと聞こえてくるように笑うことを知った。だけど恋バナだとか人間関係だとか、そんな話には興味がなさそうで、恋だとかの話に関してはうへーという感じだった。そういう顔をするのだ、ほんとに。部活動だとか他愛のない話を聞いてもたいていは興味なさそうに答えた。自分の話をあまりする気がなかったのだと思う。なぜ彼女がいつも泣いているのかも、どんな家族なのかも、なんも話さなかったから。ぼくらは出会ったころ一体何を話していたんだろう。空の話だとか、本とか、犬とか花とか絵とか、そういうことを彼女は話した気がする。ただ彼女から淡い影みたいなものを、うつむいたときとかに感じていた。最初に感じた墨のようなものをくっきりと感じることは、彼女の笑い声と目とくるくると動く表情を見てからほぼ不可能になっていた。
なぜだか一緒にいると落ち着いていられて、世界はすっと彩られ広がってった。笑いながら僕は僕も知らなかった自分でいられることに気がつく、そんなふうな始まりだった。








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