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見えない、見ていない 全セクション版

1


 神浜市。魔法少女が絶望しても魔女にならず、ウワサと呼ばれる謎の存在が日々生み出される世界。魔法少女はこの地に来ることで救われ、奇跡は近い内に世界へと広がると言う。その偉業を為すのはマギウス、そのエネルギーを回収するのはウワサである。ウワサは神浜市の各地に点在する。

 街の住民の中には、近日遊園地が開園するという噂を知る者もいる。しかし、それもまたウワサのひとつである。「キレーションランドのウワサ」。どのようなアトラクションがあるかは明らかにされていないが、噂によれば、帰りたくなくなること間違いナシと言う。開園前ということもあり、実際に行った者はまだいない。だが、従業員はメリーゴーラウンドの馬じみた見た目をしており、管理人はまだ高校生の女。全体的に趣味の悪い芸術家に丸投げしたかのような配色をしている……そうまことしやかに囁かれている。それでも行きたいと願う者は後を絶たない。

 ……キレーションランドは開園前。来園者はまだいない。そのはずである。しかし、一足早い来園者が一人だけいた。ベンチで管理人と手を繋ぎ、肩を寄せ合う大学生ほどの女。その髪は長い青色で、中指には青い宝石の嵌め込まれた指輪をしている。管理人の名は由比鶴乃、来園者の名は七海やちよと言う。


見えない、見ていない



「ねえ、鶴乃」

 やちよは話しかけた。鶴乃は眠るように瞑っていた瞼を開き、やちよのほうを向く。鶴乃の髪は鮮やかな緑色に染まり、肌は死人じみた白、瞳はワインじみた赤色だ。

「どうかした?」

「あなた、この遊園地の管理人なんでしょ? あの子たちの管理とかしなくていいの?」

 やちよは前を指さした。その方向には何体かの馬めいた見た目の異形……キレートマスコットのウワサが、せっせとジェットコースターを作っている。彼らには人間のような手足はないが、ウワサの持つ超自然の力を用いて、やや歪ながらも本物の遊園地にそっくりなアトラクションを作ることができる。

「そんなことしたらのんびりできないもん」

 鶴乃は朗らかな笑顔で返した。「それもそうね」と、やちよは疑問に思うことなく頷いた。このウワサを受け入れたことで、彼女の思考もまた視線の先にあるジェットコースターの如く歪んでしまっていた。

 七海やちよ。神浜市において最年長の魔法少女であり、最も魔法少女としてのキャリアの長い女。あらゆる魔法少女に頼られた彼女は、期せずして神浜市西側の統率者となり、信念のもとにその使命を全うしてきた。

 当然、神浜市に騒乱の気配があれば、彼女は見過ごさない。そうして新たな仲間と共に、ウワサと呼ばれる新たな脅威を排除し、本当の敵を知り、相棒と再会した。

 ある時、仲間の一人がウワサの一部となった。由比鶴乃。彼女を救い出すべく、やちよたちは攻撃を仕掛けた。だが、やちよは敗北した。何が敗因だったのか……ウワサによって強化された鶴乃の魔力、鶴乃に対するやちよの罪の意識、運命の悪戯、またはその全て……今のやちよにとってはどうでもいいことだ。なんの心配事もなく、二人でのんびりしている……それが全てだ。キレーションランドの外で誰が苦しんでいようと関係ない。鶴乃にとっても、それは同様だ。

「……そうだ!」

 不意に鶴乃が立ち上がり、やちよに手を差し出す。

「キレーションランドの案内してあげる! まだ建設途中なところもいくつかあるけど」

「いいの? のんびりとは違うんじゃないかしら」

 やちよは首を傾げた。鶴乃は無理矢理やちよの手を握って立たせる。

「わたしはのんびりしたいわけじゃなくて、無理したくないだけだよ。楽しいことをしていたいだけ」

「……そう。じゃあお願いしようかしら」

 やちよは微笑み、手を握り返した。鶴乃は満面の笑みになって、手を引いて歩き出す。

「うん! まずは……早速建設途中なんだけど、あのジェットコースター! ただのジェットコースターじゃなくってね、途中で炒飯休憩が取れてね……」

 …………。

「……それでね、最後にここ! キレーションランドのパレイド!」

 鶴乃が指し示す方向、川を流れる気味の悪い大きな船の上で、燕尾服のキレートマスコットとドレス姿のキレートマスコットが踊っている。周囲には魔法の花火やホログラムが飛び交い、見る者を圧倒する。やちよは嘆息した。

「すごいわね……」

「そうでしょ! キレーションランドの目玉にしようと思ってるんだ!」

「ええ、きっと相応しいわ。いつまでも見ていられるもの」

「えへへ……そう?」

 鶴乃は照れるように後頭部に手を当てる。

「開園したらみんなここに来ちゃうと思うから、それまではわたしとやちよの二人占めだね」

「そうね。それに、開園したらもう私は見られないでしょうし」

「……うん。そうだね」

 鶴乃は頷き、俯いた。そして、やちよに抱きついた。

「でも、開園まではあと何日かあるもん。それまではずっとここにいられるよ。ずっと一緒」

「……そうね」

 やちよは鶴乃を抱きしめ返した。

 キレーションランドは人を招くが、決して外に出すことはない。そういうウワサだ。ならば、満員になったときは、果たしてどうするのか? ……先にここへ来た順に、“退場”してもらう。ウワサの力の一部と化して、永遠の安心と幸福を人々に与える。

 数日後、キレーションランドは開園する。1日と経たず満員になるだろう。その時、七海やちよはこの世から“退場”する。


◆◆◆◆◆


 ホテル・フェントホープ。マギウスの翼に属する者のみが存在を知る建物であり、その内部は魔法によって外から見るよりも拡張されている。

 その一室に、梓みふゆはいた。彼女は実家の布団と同程度に上等なベッドに寝転がり、天井を見上げていた。その瞳は、まるで魂が抜けたかのような虚無だ。

「……やっちゃん」

 みふゆは呟き、窓の外を見た。フェントホープの周囲に昼夜の概念は存在しない。常に晴れた昼だ。

「……ワタシは」

 みふゆの呟きは部屋に溶けていく。彼女の姿に、羽根たちをまとめ上げる統率者としての威厳は微塵もない。今の彼女を見ても、絶望した普通の女にしか見えないだろう。

 コンコン。その時、部屋の扉がノックされた。みふゆはそちらに目を向け、身体を起こした。だが扉まで歩いて来客者を迎える力は湧かなかったと見え、その場で「どうぞ」と言った。

「失礼するでございます」

「失礼します」

 来客者は天音姉妹だった。翼の中でも特にみふゆを信頼し、またみふゆに信頼される二人だ。

「どうしました? またマギウスの喧嘩ですか?」

 みふゆは微笑みかけた。その微笑みが、2人の瞳にはこの上なく痛々しいものに映り、月咲は思わず目を逸らした。

「特に用事はないんですけど……」

「その……みふゆさんのことが、気掛かりだったのでございます」

 二人はためらいがちに告げた。出過ぎた真似かもしれないからだ。

「……そうですね」

 みふゆは俯く。

「確かに、あまり良い精神状態とは言えませんね」

 姉妹は気まずそうに顔を見合わせた。少しして、月咲が意を決して尋ねる。

「七海やちよとは、やっぱりそういう関係だったんですか」

「月咲ちゃん……!」

「構いませんよ」

 咎める月夜に対して、みふゆは力なく宥めた。「それより、座ったらどうです?」とベッドの空いたスペースを指す。二人は「それでしたら……」「お、お邪魔します……」と、おずおずとベッドの端っこに座った。二人の間には拳ひとつ入れる隙間すらない。

「こんなこと聞いてごめんなさい。でも、七海やちよを無力化したって報告に、翼の士気は今までになく高いです。ウチだって、ちょっとだけ複雑な気分にはなったけど嬉しかった。……みふゆさんだけは、違うみたいだから」

「だからって、いきなりそういう関係だったのかを訊くのは、少し単刀直入に過ぎますね」

「ご、ごめんなさい!」

「冗談ですよ」

 みふゆは薄く微笑んだ。彼女は時々冗談を言うが、普段はもっとわかりやすい。それでも、普段の調子が少しでも戻ってきたことに、姉妹は安堵した。みふゆは頷き、語り始める。

「月咲さんの、そして恐らく月夜さんのご想像の通りです。やっちゃんとは、昔お付き合いをしていました」

「今も、好きなんですか」

「当然です」

 みふゆは頷いた。その声音には先程までと異なり、微かな熱がこもっている。

「ワタシから突然捨てておいて、こんなのは都合の良すぎる話でしょうね。そうわかっていても、内心夢見ていました……解放された世界で、魔法少女としての運命に絶望することなく……普通の女の子たちと同じように、やっちゃんと生きることを……」

「助ける手立ては、ないのでございますか?」

 みふゆのことがいたたまれなくなり、月夜は思わず尋ねていた。みふゆから返ってきたのは、温度のない否定だった。

「ワタシは既に危ない橋を渡っています。これ以上何かを行えば、裏切り者との判断は免れません」

「……そうではございますが……」

「それに、ワタシには皆さんを翼に勧誘した責任があります。また放り出して逃げるわけにはいきません」

「……すごいなあ、みふゆさん」

 月咲が嘆息した。「非難されて傷付きたくないだけです」とみふゆは首を横に振るが、彼女は続けた。

「ウチは、もし月夜ちゃんか翼を選べって言われたら……月夜ちゃんを選んじゃうかも。責任とか全部投げ出して。月夜ちゃんのいない世界なんて、きっと耐えられないから」

「……わたくしもでございます」

 月夜は月咲の手を握った。「ねー」と相槌をうち、月咲はみふゆに向き直る。

「だから、そこでみんなのことを、救済のことを優先できるみふゆさんは強い人です。自分を責めないでください」

 月夜もまた同意を示すように頷いた。みふゆは曖昧に微笑んだ。

 ……天音姉妹が帰った後、みふゆは先程までと同じように、ベッドに横になっていた。姉妹の慰めにより、彼女の心は晴れたか? 否。むしろ心は惨めさで満たされていた。自分は天音姉妹が思うような人間ではないと叫びたくて仕方がなかった。同時に、信頼してくれている人たちを裏切れないとも思った。

 結局、救済の道を進むしかない。他の道は既に閉ざされているのだから。かつての親友……相棒……恋人を見捨て、進むしかない……。

「……やっちゃん……」

 知らず、みふゆの瞳からは涙がこぼれ出していた。彼女は拭わず、ただ流れ落ちてシーツに染みを作るに任せた。


2


「本当に楽しい場所ね、ここは」

「えへへ、そうでしょ」

 キレーションランド、管理人室。その名の示すとおり、管理人のためだけに誂えられた悪趣味なプレハブ小屋だ。中にはシングルサイズのベッドや机など、最低限の道具が置かれている。

「なんにも考えなくていいのがこんなに楽だったなんて、知らなかったわ」

 やちよは窓から外を眺めている。視線の先、建設途中のコーヒーカップと、せっせと働くキレートマスコットの姿が見える。鶴乃はその隣に立ち、嬉しそうにはにかんだ。

「ししょーはいつも頑張り屋さんだったもんね」

「あなたのほうがよっぽどだったじゃない」

「えー、そうかな。……ううん、やっぱりやちよのほうが大変そうだった」

「強情なんだから」

「やちよこそ」

 鶴乃は唇を尖らせた。その顔がおかしくて、やちよは思わず笑った。つられるように鶴乃も笑った。

「まあ、確かに大変ではあったわね」

 笑いも収まった頃、やちよは首肯した。鶴乃はやちよを得意げに覗き込む。

「そうでしょー?」

「ええ。どのスーパーのほうが安いとか、今日は何曜日だからポイント10倍とか、いちいちそういうことに気を揉んでたもの」

「なにそれー」

 鶴乃は冗談だと捉えたが、やちよの表情は真剣そのものだった。主婦っぽいのは生来の性格だと思っていたが、やはり一家の財布を握る者として、色々と背負うものがあったのだろう。鶴乃にはやちよの気持ちはあまらわからなかったが、同情はした。

「それに、ね」

 やちよの表情がふっと柔らかくなった。過去を懐かしむような瞳。その儚さに鶴乃は吸い込まれそうになる。

「かなえとメルのことも、ここでは忘れられる」

 その名を聞いた瞬間、鶴乃は神妙な表情になった。少しして、「そうだね」と微笑んだ。

「……ね、やちよ」

 鶴乃はやちよの手を握った。気の抜けた声とよく似ていたが、それは確かに甘い声だった。「なあに?」とやちよがそちらを向いたとき、鶴乃の顔はすぐそこにあった。反射的に体を引く暇もなく、唇が唇に触れた。

 やちよは目を見開き、瞼を閉じる鶴乃を見た。緑色に染まった睫毛の長さが、死人のように白い肌のきめ細かさが、ウワサの一部となってなお美しく整った顔立ちが、視界いっぱいに広がっている。驚きのあまり手の力が抜ける。すると、反比例するように鶴乃の手の力がより強くなり、握った手を離さなかった。やちよは……ゆっくりと目を閉じ、鶴乃を受け入れた。たっぷり10秒以上、二人はそのままだった。

 やがて、鶴乃の側から唇を離した。やちよにはその頬がほんの僅かに赤く染まっているように見えた。鶴乃は握った手を引いて、ベッドに向かおうとした。

「待って……」

 やちよは抵抗した。「え……?」と、鶴乃は傷付いた表情になる。

「そうじゃなくて……」

 やちよは窓の外のキレートマスコットを一瞥した。マスコットたちは彼女たちのことなど気にも留めずに仕事をしている。鶴乃は無造作に窓のカーテンを閉めた。

「勘付かれない? 魔力で繋がってたりするんじゃないの?」

「そうだけど……きっとみんな知らないふりしてくれるよ」

「楽観的すぎ……んっ」

 やちよの不満は鶴乃の口内に飲み込まれた。鶴乃はすぐに顔を離し、今度こそやちよの手を引いてベッドに腰掛けた。

「もう……」

 やちよは諦めたように隣に座った。「ししょーって押されると弱いよね」と鶴乃がからかうと、彼女は不満げに目を細めながらも、自覚はあるのか反論はしなかった。

 鶴乃はやちよに肩を寄せて、そのままゆっくりとそちら側に倒れた。やちよもまた巻き込まれるようにベッドに仰向けになる。鶴乃が覆い被さりながら髪留めを外すと、こぼれ落ちる蛍光緑の帳が、やちよを世界から遮断した。手のひらに脇腹を撫でられ、やちよの身体は微かに震えた。

 やちよは鶴乃の余裕に驚いていた。こんなことの経験はないと思っていたが、もしや既に誰かと寝たことがあるのだろうか。それとも単にウワサになったことで、性的な事柄への抵抗も消えただけだろうか。……前者はあまり考えたくない。無意識の内にそう思った自分にやちよは驚く。今まで鶴乃に対して独占欲など抱いたことがなかった。

(……いいえ、違うかも)

 やちよは自分で否定した。弟子になったときから、鶴乃は常にやちよの後ろについてきた。みふゆがいなくなって荒れていた時期でさえ、支えようとしてくれていた。独占欲を自覚することがなかっただけかもしれない。

(考えてみれば、昔から独占欲自体はあったわね)

 やちよは数年前のことを思い出す。まだみふゆと付き合っていた頃。あの頃のみふゆはまだ幼さを残しつつも、大人の美しさをますます帯びてきていた。水名女学園は許嫁のいる者が多かったが、それでも先輩後輩問わずよく告白されていた。なぜやちよが知っているかといえば、本人から何度も伝えられたからだ。妬かせようとしているのは見抜いていたから、やちよも取り立てて相手にしなかった。それでも自分の知らない知り合いと親しげに話している姿を見れば、面白くない気持ちにもなったし、時には多少拗ねてみせたりもした(そうすると、みふゆは決まって嬉しそうにしていた)。みふゆに言わせれば、「ワタシはいつもその何倍もやきもち妬いてますよ」とのことだったが……。

「ねえ」

 氷柱のような声が、やちよを思い出から現実へと一気に引き戻した。鶴乃の温度のない瞳が、やちよを覗き込んでいる。

「誰のこと考えてたの?」

 その鶴乃は、今までのどんな姿とも違った。初めてやちよは鶴乃を怖いと思った。

「……ごめんなさい」

 やちよはそれだけ言うのがやっとだった。鶴乃はじっと見つめてくる。ここで殺されること自体は怖くなかった。ただ、最後まで自分は鶴乃に迷惑をかけ続けてきたのだと、そう自覚させられることが怖かった。

 鶴乃は、ふっと相好を崩した。

「いいよ」

 そして、やちよの首元に唇を寄せて、舌でなぞった。

「んっ……」

「わたしでいっぱいにして、忘れさせちゃうから」

 鶴乃はそのままやちよの首元を啄むように吸ったり、舌でなぞったりした。他方では、やちよの腰のベルトが解かれ、スカートの裾から指が侵入してくる。

「わたしね、ずっとやちよのこと好きだったんだ」

 指はやちよの内腿をくすぐったいほどに弱く撫でる。やちよはもどかしい気持ちを我慢して、悟られないようにする。

「やちよって肌すべすべだよね。こうしてると服の内側もそうなんだってわかる」

 鶴乃の指が臍の近くまで上がってきて、スカートが捲れ上がる。露わになった黒いレースのパンツに、やちよは脚を寄せて最大限見えないようにした。

「あんまり外からだとわからないけど、しっかり腹筋あるね。毎日トレーニングしてるもんね」

 鶴乃は人差し指で腹筋の割れ目をなぞる。手の位置は更に上がり、やがてブラジャーの下の縁へとかけられた。

「身体上げて」

 耳元で囁かれる鶴乃の声は、それ自体が一種のウワサの魔力のようだった。やちよは曖昧になってきた思考の中、上体を上げる。背中側に回された指先は、容易にブラジャーのホックを外した。

 ワンピースごと、鶴乃はやちよを脱がせようとした。だが、やちよの抵抗がそれを阻んだ。彼女の手は鶴乃の腕を弱々しく掴み、その頬は恥じらいに赤く染まっている。この程度の力であれば、無理矢理脱がすこともできただろう。鶴乃はしなかった。たとえ些細なことでも無理をさせまいとする優しさか、ちょっとした悪戯心か……恐らくは後者だ。

「手、どけて?」

 鶴乃は甘く囁いた。やちよは唇を固く結び、腕を弱く掴み続けたままだ。

「このままだとしづらいなあ」

 鶴乃の囁き。やちよの力が弱まる。あとひと押し。

「やちよししょー。だいすき」

「っ……」

 やちよの手が、鶴乃の腕を離した。鶴乃はガラス細工を扱うような繊細な手付きで、キャミソールごと服を脱がした。やちよが身にまとうものは下着だけになった。下着の黒が肌の白を際立たせる。

 やちよは左手で顔を隠し、右腕で身体を隠そうと身を捩った。しかし、そのポーズは格好の無防備さや外れかけたブラジャー、身体の健康的な細さ、脚の長さを強調し、むしろ……。

「えっちだね、ししょー」

 鶴乃が囁く。その吐息には無視できないほどの熱が混じり始めている。「格好が、でしょ……」とやちよは無意味に反駁する。

「うーん、格好だけかなあ?」

 鶴乃は面白がるように笑い、顔を隠す左手をどけてやちよに口付けた。下着姿になった分、二人の密着する距離はより縮まった。まるで奇妙な死体じみた外見と化した鶴乃だが、触れた肌の内側にはしっかりと温かな血が流れていた。温度を求めるかのように、やちよは鶴乃の背中に腕を回す。鶴乃は閉じていた瞼を薄く開いた。潤む瞳はやちよへの恋慕の情で満たされ、今にも溢れ出さんばかり。

 鶴乃は目を閉じ、より深く口付けた。熱い舌が唇を割り入って、やちよの舌先に触れる。やちよの手が微かに強張ったのを、鶴乃は背中に感じた。

 余裕の態度を崩さない鶴乃も、技術となればやはり話は別のようだった。拙い舌使い、こういった行為に慣れているとは到底思えない。やちよは安堵した。幸い、鶴乃と違って数年分の経験がある。彼女は入ってきた鶴乃の舌に、巧みな動きで絡め合わせる。

「ぁ……」

 一貫して余裕そうにしていた鶴乃から、ようやく悩ましげな声が漏れた。やちよは少しだけ良い気分になり、今度は逆に舌を引いた鶴乃の口の中に舌を入れ、逃げられないよう後頭部を手で押さえた。やちよの舌は歯茎や歯列をなぞり、追ってくる鶴乃の舌を絡め取り、口内を蹂躙する。

(やちよにされるの、すき……)

 鶴乃はもはや抵抗をやめ、されるがままだった。混ざりあった唾液がやちよの頬を伝う。

 やがて、どちらからともなく顔を離した。唇の間に渡っていた銀色の橋がぷつりと切れる。二人の吐息は湯気のような熱を伴い、呼吸は数分呼吸を忘れていたかのように荒く、表情は愛に染まりだらしなく緩んでいた。

「やちよししょー……!」

 鶴乃はやちよの首元に顔を埋めた。それはさながら犬が飼い主に甘えるように。だが……もしよく懐いた飼い犬であれば、剥き出しにした牙を当て、あまつさえ力を込めるような真似は、しなかっただろう。

「いっ……!」

 やちよは苦痛と快楽の入り混じった声を上げた。鶴乃が口を離すと、肌には痛々しい歯型の痕。数箇所からは血も滲んでいる。鶴乃は優しく血を舐め取った。

「ウワサの口づけ、だね」

 恍惚とした声音だった。「口づけどころじゃないわよ、もう……」と文句を言いながらも、やちよにもまた不快に思うような様子はなく、むしろどこか嬉しそうだ。

「これじゃ撮影なんてできないわね」

「もうしないでしょ?」

「それもそうね」

 ずっとわたしの傍だもん。鶴乃は少しずつ頭の位置を下げていく。鎖骨を経由し、もはやほとんど意味をなさないブラジャーをどけて、固くなった胸の先端へ。

「ぁ、っ……」

 やちよは声を我慢する。鶴乃は舌で胸を舐りながら、もう片方を手のひらで撫でるように弄る。やちよの胸は平均よりもいくらか小さい。そのスレンダーさも主に女性人気を集めることに貢献したわけだが、彼女自身はそれを知ってなおコンプレックスに思っている。

「わたしも、やちよのスレンダーさ好きだよ? 細すぎて不安にもなったけど」

 舐る合間に鶴乃が言う。「いきなり、なに……っ……」やちよは眉間に皺を寄せた。褒められたところで、当然ながらコンプレックスは解消しないらしい。好きなのにな、と心の中で呟きながら、鶴乃は舌を動かすのを継続する。

「つるの……」

 やちよが乞うような声を出した。彼女は内ももをもじもじと擦り合わせ、下着の中心には水に濡れたような染みを作っている。何を求めているかは明白だ。

「……どうかした?」

 鶴乃は笑顔で首を傾げた。やちよは唇を噛んだ。何を求めているかは明白なはずだ、いくら鶴乃でもわからないわけがない。なのにこういった反応をする。つまり、意地悪以外にありえない。

「いつもの、意趣返しのつもり……?」

「なんのことだろー」

 鶴乃は笑いながら、やちよの胸の先端を指の腹でくりくりと刺激する。「ガマンはよくないよー?」と鶴乃。やちよは屈辱に耐えるように瞼を固く閉じ、快楽と天秤にかけ……吐息と共に口を開いた。

「こっちも、して……」

 やちよは鶴乃の太ももに自身の脚を絡め合わせ、脚の間を押し付けた。くち、と微かに粘性の液体が立てるような音が聞こえた。やちよは顔を逸らす。鶴乃は唇を尖らせて不満顔だ。

「うーん……それだけ?」

「それだけ、って……」

 やちよは鶴乃を睨みつける。潤んだ瞳に普段の迫力は欠片もなく、むしろ鶴乃の情欲を煽り立てるだけだ。

「まあいっか。やちよをいじめるの心痛むし」

「心にも、ないことを……!」

「ふーん。まだそんなこと言うんだ」

 鶴乃はパンツの縁、下腹部ギリギリをくすぐるように引っかいた。「っ、やっ……!」とやちよは身を捩る。

「なーんて、うそ。全然心痛まない。でもいじわるされるやちよが可愛いのも悪いと思うなあ」

 あっけらかんと鶴乃は責任を押し付けた。やちよは何か言おうとしたが、普段鶴乃に対して意地悪ばかりしていたことを思い出し、何も言えずに口を噤んだ。

「それで、いじわるついでなんだけど」

 鶴乃はそこで一呼吸置いた。そして、パンツの縁に指を引っ掛けて、言った。

「自分で脱いで?」

「っ、そんなことっ……!」

「できないなら、してあげない」

 鶴乃は楽しそうにパンツの縁を持ち上げたまま指を滑らせる。その動きによってパンツと擦れる秘所に、やちよの本能はさらなる快感を求めるように粘性の水を溢れさせる。

「っ……この、いじわる……!」

「やちよほどじゃないと思うなあ。それで、できないの?」

 鶴乃の指が秘所の周りを、つう、となぞる。やちよは震え、ためらう様子を見せ、「……できる、わよ」と声を絞り出した。

「じゃあ、脱いで?」

 鶴乃が指をパンツから離した。入れ替わるように、やちよの指が縁にかけられる。彼女の指は恥辱に耐えるように震えている。鶴乃は愛おしそうにただ眺めていた。

 ゆっくり、ゆっくりと、寝覚めの低血圧の少女の数倍緩慢な動きで、やちよはパンツを下ろす。黒い生地に隠されていたピンク色の秘所と、整えられた青色の毛が露わになる。パンツの中心とやちよの間には細い銀色の橋がかかっており、パンツの内側は外から見るよりも遥かに湿り、ぬめっていた。鶴乃は嬉しそうに口元を歪める。

「こんなに感じてたんだ」

「言わ、ないで……!」

「あの尊敬してたししょーが、一番弟子の手でこんなに感じちゃうなんて」

「っ、だから……!」

「すっごく、興奮しちゃう」

 鶴乃はしゃぶりつくようにやちよにキスをした。当然のように舌を入れる。今度はやちよがされるがままになる番だった。

 先程までと比べると、鶴乃の舌使いの技術は2段階ほど上手くなっていた。やちよの技術を既に学び、自分のものとしたのだ。無論それはやちよの舌使いそのものではなく、より強勢だ。熱に浮かされた頭の彼女では、抵抗など考えるだけ無駄だ。やちよは鶴乃とのキスに夢中になる。

 だが、鶴乃はすぐに顔を離した。やちよはお預けを食らった犬のような気分になる。

「ねえししょー、気付いてる?」

 鶴乃は意地の悪い笑みを浮かべ、やちよの下腹部に指を立てる。

「わたしの身体に、全身……特にこの下を擦りつけてきてたこと」

 やちよはようやく気がついた。自分が背中を逸らしてより密着するようにし、脚で太ももを強く挟んでいたことに。途端に顔が熱くなり、彼女は腕で顔を隠した。

「恥ずかしがることないのに」

「はずかしいわよ……!」

「でもー」

 ぐり、と鶴乃は太ももを押し付けた。「ぁんっ!」とやちよの身体が跳ねる。鶴乃はやちよに顔を寄せ、「やちよがえっちなことなんて、もう知ってるもん」と囁いた。

「っつるのの、ばかっ……!」

「もうきらい?」

 鶴乃が言葉の先を読んだ。やちよが腕の陰からちらりと目を覗かせ、すぐに逸らして「すきよ」と呟いた。鶴乃はもう我慢できなかった。

「ん、ふぅっ……!」

 鶴乃はやちよの顔を隠す腕を乱暴にどけて、性急なキスをした。その時、指は既に秘所にあった。

「ん~~~っ!」

 秘所を指で擦ると、その分だけ液体の量は増し、ぐちぐちという下品な水音は大きくなった。やちよの手がしがみつくように鶴乃の背中に回され、爪を立てた。走る痛みに反射的に鶴乃は顔をしかめたが、すぐに快感の一部に変わった。あのやちよししょーが、自分の手でこんなにも喘いで、爪痕さえ付けてしまっている。そのことが嬉しくてしょうがなかった。

「すき、すきっ……やちよっ……すきっ……!」

「ぁ、はぁっ、んぅぅぅっ! ぁぁああっ!」

 鶴乃は無我夢中で愛を伝え、やちよは与えられる強い刺激にただ喘ぎ声を上げる。

「はっ、やあっ、つる、のっ……! もう、いぃっ、く……!」

「う、ん……! イって、やちよ……! すき……イって……!」

「ぁ、ぁぁっ、っ! んんんんんん~~~~~~!」

 やちよの全身がビクビクと跳ねた。その様子を見て、鶴乃の身体も微かに震えた。やちよの腰の震えも落ち着いて来た頃、鶴乃はふとベッドを見た。二人の体液で随分濡れてしまっている。あの子たち……キレートマスコットのウワサたちにどのように言い訳しようか、そうぼんやりと考えていると、鶴乃の両頬を手のひらが包んだ。

「つるの……」

 快楽に呆けた様子のやちよが、求めるように唇を突き出している。ベッドを見て微かに冷静になった部分は、やちよへの情欲にいとも簡単に塗り潰された。鶴乃はキスし、やちよの体液に濡れた指を自らの秘所に当て、小さく震えた。

「今度は、一緒に気持ちよくなろ……?」

 鶴乃は魔法少女服を消し去って裸になると、肌と肌をくっつけ、胸と胸を擦り合わせ、秘所と秘所と触れ合わせる……。


 ……メルが死んだことは知っていた。どんな死に方だったのかも、薄々想像がついていた。それでも、記憶の中で実際にメルが魔女になる光景を目の当たりにしたときは本当に悲しかったし、わたしもいつか魔女になるって運命に絶望もした。かなえっていう人のことは、2人とも全然話に出さなかったから知らなかったけど、記憶を覗けばその人のことが大好きだったんだろうなってことはわかった。

 きっと、やちよは苦しかったんだろうな。リーダーとして。2人の仲間の死を見届けて。なんだかんだ真面目だから、自分のせいで死なせてしまったとか背負い込んで。だから、きっと、死にたいんだろうな。

 いつかここから“退場”しなくちゃいけないことを伝えたとき、やちよは全然慌てる素振りなんて見せなかった。むしろ受け入れてすらいた。もっとショックを受けるものだと思ってたから、わたしのほうが唖然としちゃったくらい。

 やちよは死にたいんだ。やちよは優しいから、2人の死を背負い込んで、苦しいんだ。今までずっと、苦しんできたんだ。

 終わらせてあげよう。ここは何にも我慢する必要のない、ただのんびりしていたらいい場所。生きていることすら苦しいのなら、楽にしてあげよう。ウワサとして。

 死なせてあげよう。


3


「くふふっ、くふふふふふっ!」

 灯花は日傘を差し、くるくると踊るように回っている。超自然の穢れに満ちた重苦しい空間に、彼女の楽しげな雰囲気は不釣り合いだ。

「玩具を買ってもらった小学生の子供だって、そこまではしゃぎはしないよ。……むふふっ」

「そーいうねむだって充分楽しそうなんですケド」

 口の端を歪めながら説得力のない苦言を呈するねむに、アリナはどうでも良さそうに言う。3人の中では、つまらなそうにしているのは彼女1人だけだ。灯花は頬を膨らませる。

「もー、二人して水差さないでよ! こんなにエンドルフィンが出てるの久しぶりなんだから!」

「確かに、今回ばかりは灯花の気持ちも理解できるよ。目の上の瘤を、僕のウワサが無力化したんだから……むふふっ、むふふふふふっ」

「ホント、ウィアードな似た者同士だヨネ……」

「「似てない!」」

 否定が重なり、灯花とねむはむっとした表情で睨み合った。アリナは心底うんざりした表情で視線を逸らす。

「それより、みふゆはまだなワケ? みふゆが来ないならアリナ帰るけど。方針も二人で決めれば」

「みふゆに甚くご執心だよね。ああいうタイプが好きなのかい? それにしては、フールガールちゃんは随分子供っぽい印象だけど」

「……何が言いたいワケ?」

 アリナはねむを睨みつけた。掌の上に結界を凝縮した緑色のキューブが出現する。ねむは視線を真っ向受け止めた。開かれた本のページが魔力を帯びて光る。灯花は二人の間の雰囲気などどこ吹く風で、再びくるくると回っている。

「お待たせしました」

 その時、階段を降りて最後の参加者が現れた。魔法少女姿の梓みふゆ。相変わらずその表情に覇気はない。

「ホント待たせすぎなんですケド」

 言葉とは裏腹に、キューブを収めたアリナは嬉しそうな様子だった。ねむはその様子を鼻で笑い、自身もまた本を閉じる。

「じゃ、そろそろ始めよっか」

 灯花は踊りやめ、椅子に尊大に腰掛けて気品を感じさせる所作で紅茶を飲む。

「七海やちよの今後の扱いについて考える会議!」

 灯花の宣言に、ねむは気のない拍手をし、アリナは無視した。みふゆはただ俯いている。

「それで早速だけど、やっぱりわたくしとしては七海やちよもウワサにしちゃいたいなー」

「そう言うと思ったよ……僕は反対」

 ねむはため息をついてカップを傾ける。彼女の所作は灯花のものよりも遥かに庶民的だ。

「えー! なんで!」

「いいかい灯花。キレーションランドのウワサでは、来園者は1度入ればもう出られない。それが原則。そこにウワサにしたいから来園者を寄越せなんて伝えても、突っぱねられて終わりだよ」

「むー……ねむがウワサの内容を書き換えたら解決じゃないのー!?」

「僕は誇りをもって物語を紡いだ。キレーションランドを出入り自由に改変するなんて、物語を貶めるのと同義だよ」

「マギウスの命令があったら差し出すとかにすればいーでしょ!」

「たとえスポンサーの意向でも、僕は納得できない物語は紡がない」

「この頑固親父ー! アリナは!?」

 灯花はアリナに水を向ける。アリナは面倒臭そうに背もたれに寄りかかっており、姿勢も悪い。

「どーでもいいケド……強いて言うなら」

 アリナはみふゆを一瞥し、目を細める。

「環いろはたちの前でアリナの魔女の餌にするのが、ベストだと思うんですケド」

 注視していなければ気付かないほど微かに、みふゆの肩が跳ねた。アリナはにんまりと笑みを浮かべた。

「それじゃもったいないでしょー!」

「それに、結局ウワサの内容から外れていることに変わりはない。却下だね」

「ねむはなんなワケ? 七海やちよはそのまま見殺しにするとか言うんだろうケド」

「察しが良くて助かるよ。ウワサにはウワサとしての本懐を遂げてもらう。それが最善手さ」

「ねむはウワサファーストすぎー!」

「それのどこが問題なのか理解しかねるね」

「みふゆはどう思うワケ?」

 アリナがみふゆに水を向ける。みふゆは3人を見て、ためらう様子を見せ、口を開き……俯いて頭を振った。

「わかりません」

 …………。

「月夜ちゃん……」

「月咲ちゃん……! こんなところで、誰かに見られたら……!」

「こんな隅っこで影になってる場所、誰も気にしないよ。ね、ちょっとだけだから……」

「少しは我慢というものを覚えるでございます……!」

「月夜ちゃんは、ウチとこういうこと、したくない……?」

「っ……! ……そういうのは、ずるいでございます……」

「ずるいのはお互い様でしょ?」

「…………」

「ねーって言ってくれないんだ」

 壁を背に、月夜は目を伏せてそっぽを向いている。その頬に触れて、月咲はこちらを向かせた。瞳の中に瓜二つの作りをした顔が映っている。浮かべている表情までそっくりだ。二人は目を閉じた。距離が縮まる……。

「……っ、みふゆさん!?」

 月夜の声に、月咲は心臓が止まるどころか爆発したかのような心地を覚えた。慌てて身体を離して振り向く。視線の先には確かにみふゆがいた。しかし、みふゆはこちらに気付いていない。

「……タシは……として……」

 何事かを呟きながら、フェントホープの出口へと向かい、扉の奥に消えていく。月咲は安堵した。それと同時に、気の毒に思った。

「みふゆさん、だいぶ参ってるね」

「……はい……」

 力のない返事にそちらを向けば、月夜もまた何かを迷っている様子だった。彼女が何を迷っているのか、月咲には手に取るようにわかった。

「月夜ちゃん」

 月咲は月夜の手を取った。月夜が顔を上げる。

「ウチはもう、覚悟できてるよ」

 月咲の言葉に、月夜は目を見開いた。真剣な瞳が見据える。月夜は目を閉じ、微笑むように口元を緩め、「ありがとうございます。月咲ちゃん」と言った。

「……それで、さ」

 握られた手に力がこもる。見れば、月咲の瞳は真剣なまま、ゆっくりと近づいてくる。

「さっきの続きしたい」

「ちょっ、と……月咲ちゃん!」

 月夜は手を振りほどいて、月咲の顔を押さえた。月咲は眉間に皺を寄せて、露骨に不機嫌な態度を見せる。

「だって寸止めされて……このままじゃ生殺しだよ」

「別に、嫌なわけじゃなくて……」

 月夜は頬を染め、俯きがちに月咲と床を交互に見やっている。

「……続きは、お部屋でしたい……で、ございます……」

「…………! うん!」

 二人は手を取り合い、天音月咲に割り当てられた一室へと向かった。どちらの中にも、キスだけで終わらせるつもりはなかった。


◆◆◆◆◆


「結構痕くっきりしてるね」

 鶴乃がやちよの首筋の歯型を指でなぞると、やちよは痛みに顔をしかめた。二人は既に服を着ている。ベッドの染みや部屋にこもったにおいは、ウワサの一部となった鶴乃の魔法で、当初と変わらぬ状態まで元通りになった。

「別にいいわよ。鶴乃の言った通り、もう外に出ることはないでしょうし、撮影もないもの。それよりも……」

 やちよは鶴乃の背中に触れた。魔法少女服で隠れない位置に、やちよの立てた爪の痕が残っている。

「ごめんなさい。鶴乃にまで痛い思いをさせるつもりはなかったのだけど……」

「こんなの気にしなくていいのにー。むしろ、ししょーとおそろいって感じで嬉しいよ」

 出来れば見やすい位置のほうがもっと嬉しかったな、そう言いながら鶴乃は己の背中をなんとかして覗き込もうとする。やちよはその様子を眺めながら、首筋の歯型に触れた。鶴乃はこれをウワサの口づけと言った。魔女の口づけと違って魔力がこもっているわけでもない、あくまで言葉遊びの一種だろう。だが、やちよはこの口づけによって、本当にウワサの……鶴乃の一部になった気がした。

 コンコン。その時、管理人室の扉がノックされた。二人は顔を見合わせ、鶴乃が扉を開けた。やちよは不自然にならない程度に、扉の方角から歯型を隠す。

 ノックしたのは当然キレートマスコットのウワサだった。何事かの報告を鶴乃は笑顔で聞いていたが、段々と表情が曇り、やがて真顔で首を横に振った。マスコットは一礼し、何処かへと走り去っていく。

「何だったの?」

 扉を閉じる鶴乃にやちよが尋ねる。鶴乃は隣に座りながら答えた。

「マギウスがやちよをウワサにしたがってるんだって」

「ウワサに? でも……」

 眉をひそめるやちよに、鶴乃は頷く。

「うん。一度この遊園地に来園したなら、もう二度と出られない。わたしはそういうウワサだから」

「そうよね……。大方、私を戦力にしたかったんでしょうけど」

「敵に回ったやちよかあ……やだなあ、強いもん。いろはちゃんたちも災難だね」

「一時期道場破りしてた子とは思えない発言ね」

「最初だけだし、それにもう最強目指してないもーん」

 鶴乃はそっぽを向いて頬を膨らませた。「ごめんなさい」とやちよが頭を撫でると、彼女は「えへへー」とすぐに機嫌を取り戻した。

「それに、やちよと離れたくないもん!」

 鶴乃はやちよに抱きついた。やちよは少し照れながら、「私もよ」と抱きしめ返す。


 ……そうだよ、せっかくやちよと一緒になれたのに。やちよをわたしだけのものにできたのに。また遠くから見るしかできないなんて、手放すなんて絶対にやだ。最期のときまで、やちよのことは絶対に離さない。やちよを独り占めするのも、死なせてあげるのも、わたしだもん。


◆◆◆◆◆


「信じられない!」

 バン、と灯花はテーブルを叩いた。ウワサのすぐ近くまで伝令に向かった2人のうち、白羽根は動じなかったが、黒羽根は怯えるように肩を跳ねさせた。

「癇癪を起こすほどのことじゃないよ。僕は確かに言ったよ、無理だって」

「だって、ウワサなんてどうせねむが作った道具じゃない! そのマギウスの命令を無視するなんて、生意気すぎ!」

「……確かに道具としての側面も多分に持っているけどね。今回の件に関しては、君の理解が浅かったと言わざるを得ないよ」

「このバカねむ……!」

 灯花とねむの間の空気が張り詰める。「ガキってホントノイジーだヨネ」とアリナはただ眺めている。普段であれば、ここでみふゆが止めに入る。だが、みふゆは俯いたまま、なんら行動を起こさない。黒羽根は縋るように白羽根を見た。白羽根は気付かないフリをした。誰だって藪をつついて蛇を出したくはない。

「ねむなんて……!」

 灯花がなんらかの決定的な一言を放とうとした。アリナは眺めるだけで止める素振りすら見せない。黒羽根は白羽根を見る。白羽根は気付かないフリをする!

「提案があります」

 その時だった。その場の全員が発言者のほうを向いた。梓みふゆ。白羽根は安堵の息を吐いた。黒羽根は白羽根に軽蔑したような視線を向けた。

「七海やちよをウワサにするために、一度外に出す必要があるのでしたら。ワタシがキレーションランドに入り、対象を無理矢理にでも連れ出してくるというのはどうでしょうか」

「ゼッッッタイ、ダメなんですケド!」

 真っ先に声を上げたのはアリナだった。彼女は衝動的に立ち上がり、全身から怒りと魔力を発散させていた。「ヒッ!」と怯えた黒羽根が尻餅をつく。

「もしみふゆが出てこられなくなったら、そのパーフェクトなボディが失われるにも等しいワケ! そんなの、どんな理由があろうと許されないカラ!」

「そこまで堂々とした体目当て宣言には清々しさすら覚えるよ。僕にはみふゆの提案は悪くないものに思えるけどね」

「えーっ、いいの!?」

 ねむの言葉に、灯花は驚愕した様子を見せた。ねむは不満げな表情をしながらも頷く。

「ウワサの内容に反することにはなるけれど、少なくとも僕の物語は損なわれない。それならわざわざ止める必要はないよ」

「ふーん……ま、わたくしもねむに賛成! みふゆならあの最強さんの対処法も知ってそうだし!」

「アリナは反対だって言ってるヨネ?」

 アリナの掌の上にキューブが出現する。黒羽根は南極探検隊隊員のようにガチガチと歯を鳴らし、白羽根でさえ唾を飲んだ。マギウスの3人が争えば、巻き添えは免れない。それにしても短気すぎる、知識や才能とあまりに見合わない。梓みふゆはこれまでこんな3人の怪物を御してきたというのか……! 白羽根はみふゆへの尊敬の念を深くする。今まさに、黒羽根からの尊敬を失っているとは知らずに。

「アリナ!」

 みふゆが一喝する。アリナはみふゆを睨み、舌打ちしてキューブを収めた。

「その代わり、ガードをつけること! 白羽根をスリー、オア、モア! 黒羽根は……数ばっかり増えても仕方ないからどうでもいいケド」

 アリナの言葉に黒羽根は歯を食い縛る。白羽根と黒羽根など、アリナの視界には最初から入っていないのだ。

「それでは、今から突入部隊を編成し、可能な限り急いでウワサの結界に向かいます」

 みふゆは一礼し、踵を返してこの空間を去った。遅れて、羽根の二人が慌てて頭を下げて後についていく。残る3人は何も話さず、ただ座っていた。数分が経ち、ようやく灯花が口を開く。

「裏切ると思う?」

 その問いにアリナは肩をすくめ、ねむを一瞥した。ねむは冷めた紅茶を口に運びながら答える。

「半々だね。まあみふゆがどう行動しようと、もう大局に影響する段階は過ぎた。そういう意味ではどっちでもいいかな」

「みふゆが羽根に号令を掛けたら?」

「勿論いくらかは離反もあるだろうけど、ほとんどは七海やちよの敗北におかしくなってしまったと捉えるだけじゃないかな。そう考えると、みふゆからしたら裏切りのタイミングとしては最悪だね」

「ふーん……ま、わたくしはどっちでもいいにゃー」

「自分から聞いておいて……」

「大体同じ意見だったんだもーん」

「まったく……アリナは?」

「あのボディが損なわれなければいいケド」

「アリナって、みふゆに性欲感じてるの?」

 不意に灯花が尋ねた。「ハァ?」とアリナは睨むが、灯花はむしろ身を乗り出す。

「性欲っていうのはつまり……アリナでもわかるように説明すると」

「それくらい知ってるんですケド。アリナのアートはそういうテーマじゃないカラ」

「えーでもー」

 マギウスの3人は他愛もない会話を続ける。これから自分たちが引き起こす災害や悲劇など、欠片も気にしていないかのように。


4


「うーん……」

 ベンチに座ってパレイドの予行演習を眺める鶴乃の表情は、晴れやかなものではなかった。やちよが心配するように話しかける。

「完成度に不満?」

「ううん、これとは関係なくて……嫌な雰囲気っていうか……」

 先程から、鶴乃は魂の芯にピリピリとした微弱な違和感を覚えていた。魔法少女、もしくはウワサの第六感の警告か。何にせよ、これではのんびりなどできはしない。鶴乃は立ち上がった。

 そのとき、向こう側から一体のキレートマスコットが走ってきた。鶴乃は神妙な表情で報告を聞き、頭を撫でて下がらせる。

「羽根たちが来たみたい」

 やちよに尋ねられるよりも早く、鶴乃の側から言った。

「わたしと対面で交渉したいんだって。みふゆと天音姉妹が入ってきたみたい」

「みふゆが……!? でも……」

「うん。いくら交渉を重ねても、やちよは外に出せない。それに入ってきた以上、みふゆたちも帰らせるわけにはいかない」

 驚愕するやちよを横目に、鶴乃はマギウスの思考を訝しんだ。交渉したところで土台無理な話であることなど、誰にだって理解できるはずだ。何より、創造主であるねむがそのことを知らないはずがない。まるで意味がわからない。

(それに、みふゆが代表で来たのも腑に落ちない)

 鶴乃の見立てでは、みふゆはやちよのウワサ化という計画には一番に反対するだろうと思っていた。マギウスの犬として尻尾を振るほうが、やちよよりも大事だったのだろうか。……いや、そうなのだろう。元々、みふゆは解放に縋ってやちよを別れの言葉もなく捨てたのだ。

(どれだけやちよが傷付いたかも知らないで……)

 鶴乃の胸の内に怒りが湧き上がる。ウワサになる前も、似たようなことは何度も頭に浮かんだが、その度考えないようにした。由比鶴乃に求められる感情ではなかったからだ。それもタガが外れた今では関係ない。……頬に手が添えられた。

「怖い顔よ」

 やちよが心配するようにこちらを見ていた。鶴乃は歯を食いしばっていた己に気付き、ふっと表情を緩めて添えられた手を握る。

「ごめんね。……ひとつ聞かせて」

「なに?」

 鶴乃はやちよの瞳を覗き込む。

「やちよも、ここから出たくないよね?」

 それはどこか縋るような声音であり、視線だった。やちよは鶴乃の手を取って、首筋の歯型へと運んだ。

「当たり前じゃない」

 やちよは安心させるような笑みで言った。鶴乃は確かめるように歯型をなぞり、頷いた。

「ありがとう。やちよは座ってて。みふゆとの話はわたしがつける」

「……ええ」

 鶴乃はやちよから離れ、キレーションランド入り口の方角を向いた。……数分が経過し、キレートマスコットに導かれて、みふゆが彼女の視界に現れた。報告通り、後ろには天音姉妹を伴っている。全員変身していない。敵意がないことを示すためだろうか。

 3メートルほどの距離をあけて、みふゆたちは立ち止まった。みふゆは鶴乃を一瞥し、その背後のやちよに視線を向ける。そのまま何も話さなかった。

「七海やちよをウチらに引き渡してもらうよ」

 みふゆの代わりに、天音月咲が宣言した。続けて「これはマギウスの決定でございます」と月夜。鶴乃は首を横に振った。

「マギウスの決定でも従えない。ウワサの内容は絶対だから」

 天音姉妹の間に動揺はなかった。答えの大体の予測はついていたのだろう。そう、わかっているはずなのに。

「ウワサの内容は、絶対。だからわたしは3人のことも帰らせるわけにはいかない」

 鶴乃はそう言うと、にっこりと笑いかけた。

「せっかく入ってきたんだもん。みんなでのんびりしていこうよ! もうすぐここも開園しちゃうけど、それまでは貸し切りだし!」

 天音姉妹は顔をしかめ、お互いの手を握った。甘い誘惑をお互いの存在で打ち消さんとするかのように。一方で、みふゆの様子に変化はない、が……彼女は歩きだした。鶴乃の方向へ。

 鶴乃は笑顔で待ち構える。だが、自分に用があるわけではないことはわかっていた。みふゆは鶴乃の横を通り過ぎて、その背後のやちよのもとへ。鶴乃は無表情になって振り返る。

「みふゆ……?」

 ベンチに座るやちよは、みふゆを不思議そうに見上げた。みふゆはやちよの目の前で立ち止まると、まっすぐに瞳を見つめた。やがて手を伸ばし、やちよの頬に触れた。やちよはくすぐったそうに目を細める。みふゆは手を下にスライドさせ、首筋につけられた歯型に触れた。鶴乃は胸の奥にムカムカとした気持ちが湧き上がるのを感じた。わたしとやちよの繋がりに触らないでよ。怒りが空気中の魔力を伝ってキレートマスコットに伝染し、何体かが低く嘶いた。

「やっちゃん」

 みふゆは手の位置を動かす。首筋から鎖骨へ、左肩、二の腕、前腕、そして中指に。ソウルジェムは一点の濁りもなく輝いている。彼女の動きは、その全てがやちよを愛おしむようなものだった。鶴乃はますます気に食わない気持ちになる。

「厄介な敵を二人も無力化したことで、マギウスの翼の士気は今までで最高とも言えるほどに上がっています。対照的に、いろはさんたちチームの動きは非常に消極的になりました」

 みんな、とやちよが呟いた。みふゆは頷いて続ける。

「戦力不足でしょうから仕方ありませんが、待ち受けるのは彼女たちの敗北です。無茶をして死んでしまう子が出るかもしれません。やっちゃんだって、ここが開園したら……。やっちゃんはそれでいいんですか?」

 みふゆはやちよの瞳をじっと見つめている。「無駄だよ」と鶴乃が声をかけても、なんの反応も返さない。眼中にない、そう言いたいのだろうか。しかし、今回は鶴乃の言葉が正解だ。やちよが答えた。

「あの子たちが死ぬのは良くないけれど……。結局、魔法少女である以上は遠からず死んでしまうわ。私たちは余生を過ごしているだけ。それが短いか、長くなってしまうか……ただそれだけ。私は長生きしすぎたのよ」

「だから言ったじゃん。無駄だよって」

 やちよの言葉を受けて、鶴乃が勝ち誇った。みふゆは相変わらず鶴乃には見向きもせず、ただ顔をしかめ、震える声を絞り出す。

「このままでは魔法少女の救済という大義のもと、罪のない魔法少女が、一般人さえもたくさん犠牲になります。これが正しいと、やっちゃんは本当にそう思いますか? これを見過ごすのが、本当に正義の魔法少女ですか?」

 やちよの目が微かに見開かれた。やちよの心に乱れが生じた。みふゆの魔法少女としての観察眼が、それを確かに捉えた。やちよは俯き、答える。

「正しく生きるのにも疲れたの。……もう、お願いだから放っておいて」

 その響きは、どこか自分に言い聞かせるようでもあった。みふゆは固く目を閉じ、やちよの手を離した。

「ね? やちよはもうキレーションランドの虜なの。もう外には出ないから!」

 鶴乃は勝ち誇って両手を広げた。みふゆは振り返り、鶴乃のほうを……正確には、その背後の天音姉妹を見た。姉妹は頷き、お互いの手を固く握りあった。

「ところで、みふゆものんびりしていく気になった? といっても出られないから、のんびりしていくしかないんだけどね」

「……いいえ」

 みふゆはようやく鶴乃を真っ直ぐに見据えた。彼女の全身は夜闇を切り裂く月光じみて輝き、次の瞬間、魔法少女服を身にまとっていた。右手には3フィートはあろうかという巨大なチャクラム。左手で何かを鶴乃の背後に放り投げた。赤紅色のソウルジェムが二つ。

「当然出ますよ」

 鶴乃の背後で二つの輝き。天音姉妹の変身。空気が張り詰める……!

「やっちゃんと一緒に!」

 みふゆはやちよの首根っこを掴んで乱暴に伏せさせると、上に向かって巨大チャクラムを放り投げた。チャクラムは物理法則を無視した軌道の円を描いて上昇し、やがて目の眩むような満月へと……。

「まずい……!」

 鶴乃は気付き、その場から急いで離れた。この結界内に月などあるはずがないのだ。ましてや、周囲が夜の荒野になっているなど、ありえない! 鶴乃は知っている。これがみふゆの必殺技の前兆であると!

 逃げ遅れたキレートマスコットたちは周囲の光景に困惑し、右往左往した。その身体を、無数のチャクラムがめちゃくちゃに切り刻み、バラバラにした。その周りにいた全てのキレートマスコットが、そして運悪くすぐ近くにあった船のアトラクションが、同じ運命を辿った。敵に幻覚を見せ、わけも分からぬうちに全てを終わらせる梓みふゆの必殺技。アサルトパラノイア。

 鼓膜が破裂せんばかりの音を立てて、船が下の水に落ち、ひしゃげ、使い物にならない巨大なゴミと化した。鶴乃は幻覚の影響を振り払いながら、その光景を見た。一瞬、アトラクションを一所懸命に組み立てていた彼らの姿が脳裏に去来した。そしてすぐに元いた場所を見た。みふゆとやちよの姿は忽然と消えていた。鶴乃は呆然とした。その隙を、突かれた。

「「笛花共鳴!」」

 二つの声と、二つの笛の音色が響き渡った。鼓膜が割れる。ニューロンがブチブチと引き裂かれる。眼球が奥へと押し込まれる。否、全て錯覚だ。鶴乃にだけ流し込まれるこの音色が、そう錯覚させている。彼女は耳を押さえて膝をつきながら、音色の元を仰ぎ見た。

 ジェットコースターのレール上、赤紅色の和装じみた魔法少女服に身を包んだ二人の少女。天音月夜、そして天音月咲。彼女たちは覚悟を決めた瞳で鶴乃を見下ろしている。みふゆのところへは行かせない……そう主張するかのように。


 ……マギウスから命令を受けたすぐ後。白羽根と黒羽根の二人には、それぞれ自室に戻って休むよう伝えた。突入作戦に羽根は連れて行かない。マギウスに背くことにはなるが、元々今からしようとしていることは最大の背信行為。罪状がひとつ増えるだけだ。

(もう後戻りはできませんよ)

 フェントホープの敷地外へ歩きながら、みふゆは自分自身に言い聞かせる。この行為によって、スカウトした多くの羽根は混乱し、みふゆを恨みすらするだろう。蝙蝠だと非難されるかもしれない。それでも、やちよを救い出す。いくら多くの人々に恨まれようと。こんなところで殺させはしない。たとえ鶴乃と刺し違えようとも、やちよの命さえ助かれば……自分の命など……。

 ……背後から追いかけてくる足音が聞こえた。二人分、聞き慣れたもの。みふゆは振り向く。

「……月夜さん。月咲さん」

 天音姉妹。二人は手を繋ぎ、何らかの覚悟を決めた瞳でみふゆを凝視している。

「助けに行くんですよね。七海やちよを」

 月咲が確認した。みふゆは首を横に振った。

「助けるわけではありません。マギウスの命令で七海やちよをウワサにするため、ひとまずキレーションランドからの奪還を……」

「私たちにも、嘘をつくのでございますか」

 みふゆの言葉は、全てを見透かしたような声に遮られた。みふゆは月夜を意外そうに見て、諦めたように笑った。

「ワタシを止めに来たんですか? 断っておきますが、いくら月夜さんたちでも邪魔をするのなら……」

 みふゆは変身するようにソウルジェムを掲げた。月咲は一歩踏み出す。

「みふゆさんと一緒に戦います」

 その発言に、みふゆは完全に虚を衝かれた。真意に気付き、またはマギウスの命令で裏切り者として処罰しに来る者はいるだろうが、まさか共に来ようとする者がいるとは思いもしていなかったのだ。

「……何故です? 解放を諦めるんですか?」

 だが、まだ完全には信用していなかった。取り入るために嘘をつき、油断したところを闇討ちしてくる……その可能性は充分にある。

「私たちは確かに解放されたいでございます。いつまでも月咲ちゃんと一緒にいたい、ずっとふたりで生きていたい」

 月夜は月咲を見た。月咲は肩を寄せて「ねー」と言った。

「ですが、今のマギウスに従い、その末に運命から解放されたとき、私たちは本当に幸せになれるのでしょうか。犠牲になった人たちの骸の上で、私たちは無邪気に幸せを享受できるのでしょうか。……月咲ちゃんとなら、もしかしたらとは思いました。……絶対になれる、とは思えませんでした。だから、翼を抜けることにしたのでございます」

「信じられる人に付いていこうって気持ちがなかったわけじゃないけど、だからってみふゆさんが気負うことじゃないよ。これは、ウチらがした決断だから」

 みふゆは何も言うことができなかった。彼女はただ瞬きし、二人の勇敢な少女を見ていた。掲げたソウルジェムもいつの間にか降ろされていた。風が吹き、周囲の草原が揺れ、彼女たちの服がはためいた。

「ありがとうございます」

 みふゆは、深く頭を下げた。天音姉妹は慌てふためく。

「そんな頭下げないでください!」

「そうです、私たちの決断でございます!」

「それでもです」

 みふゆは頭を下げ続けた。彼女は己を恥じた。後輩がここまで覚悟を決めていたというのに、己は自暴自棄になっている体たらく。反省しなければなるまい。

「……まだ、私は完全には解放を諦めきれていないでございます」

 月夜の言葉に、みふゆは顔を上げる。その眼の前に、ふたつのソウルジェムが差し出される。

「みふゆさんに持っていて欲しいでございます」

「ウチらが裏切れないように」

 みふゆは目を見開く。魔法少女にとってソウルジェムを預けることは、単なる変身能力の放棄を意味しない。文字通り命を預けるに等しい。みふゆは考え、やがて、ソウルジェムを受け取った。

「わかりました。あなたたちが本当に裏切らないと確信できるまで、これは預からせてもらいます」

 天音姉妹は礼を述べ、頭を下げた。みふゆは手の上の二つのソウルジェムを見た。二人の覚悟を無駄にはしません。絶対に、やっちゃんを助けます。

「それにしても、いいんですか?」

 顔を上げた姉妹は瞬きした。みふゆは悪戯っぽい笑みを浮かべていた。

「やっちゃんを助けに行くワタシは、かっこいいみふゆさんではないんじゃないですか?」

 それを聞いた姉妹は呆気にとられ、苦笑した。

「みふゆさんはちょっと抜けてるくらいがちょうどいいのでございます」

「ねー」

「まあ!」

 みふゆは口元を押さえ、くすくすと笑った。


 ……天音姉妹は鶴乃を見下ろす。笛花共鳴の対象は二人まで。キレートマスコットが来れば、もはや続けることは不可能。だから、せめてそれまではここで足止めし、タイミングを見て合流する。

 天音姉妹の眼下、鶴乃は耳を押さえて蹲っている。この音色は魂まで響く音、たとえ鼓膜を破壊したとしても逃れることはできない。マスコットが来るまでどれだけある。どれだけ足止めできる。あと何秒……。

 そのとき、鶴乃が顔を上げた。両目、両耳からどす黒い血を流して。彼女は耳から手を離し、両手に燃え盛る扇を生み出した。ぞわり、と二人の肌が粟立った。

 二人はそれでも音色を乱すことはなく、懸命に吹き続けた。彼女たちは最善を尽くした。ただ……鶴乃が上回った。ただそれだけのことだった。

「あぁァ……アアアアアア!」

 鶴乃が跳び、緑色の炎の矢じみて飛び蹴りを繰り出した。月夜に向かって。月夜はすぐさま演奏を中断、クロス腕ガードの姿勢を取る。鶴乃の飛び蹴りはガードを突破し、月夜の胸を打った。

「がはッ……!」

「月夜ちゃん!」

 月咲は怒りと共に鶴乃を睨んだ。それを上回る憎悪に燃える瞳が睨み返した。鶴乃は蹴りの反動で更にこちらへと跳び、扇を振り上げていた。月咲は月夜が落ちていった方向に跳んだ。背中を炎が一文字に焼いた。緑の炎は魂まで凍えさせるような冷たさだった。月咲は落ちながら歯を食いしばり、意識を失った月夜に手を伸ばす。

 鶴乃は二人が地面に落下するのを悠長に見届けるつもりはなかった。彼女は耳鳴りめいた笛の残響を感じながら、視線を巡らせてキレーションランドを一望する。目と耳から流れていた血が緑の炎と化して扇へと吸い込まれる。一刻も早くやちよを取り戻さなければならない。もう二度とみふゆのわがままで苦しませちゃいけない。やちよを幸せにできるのは、わたしなんだから。憎悪に呼応し、扇の炎が脈打つ……。

「…………」

 そして、やちよを抱えて走るみふゆの姿を、鶴乃は捉えた。彼女は跳んだ。


5


 みふゆはやちよを両腕で抱えて走る。結界の出口まではあと半分ほど。周囲にキレートマスコットの姿はまだない。ほとんどがあそこに集まっていたのだろうか、それにしては数が少なかったのが気になるが……。天音姉妹には無理をしないよう伝えてあるが、まだ鶴乃を留めおけているだろうか……? 後ろを振り返っても、二人の姿はアトラクションの陰に隠れて見えない。

 腕の中のやちよを見る。やちよはおとなしくこそしていたものの、みふゆから目を背けて俯いていた。みふゆは一抹の寂しさを感じながらも、今またこうして触れられていることが嬉しかった。そして、ただ状況に流されるままのやちよの姿が悲しかった。

 やちよには気高くいて欲しかった。確かに、みふゆはやちよにもマギウスの翼に入って貰って、以前のように肩を並べて戦うことができたら、そう夢想したことがなかったわけではない。だが、心の一部はそれを否定していた。むしろ拒絶すらしていた。やちよは己の信ずる正義を貫く人間であり、マギウスの行いを決して許しはしないだろうと。事実、やちよは思った通りの行動を取った。その姿にみふゆは劣等感に苛まれながらも、どこか安心していたし、誇りにも思っていた。

 だからこそ、こんなところで殺させてはいけない。鶴乃の独り善がりな我儘に付き合わせてはいけない。今はウワサの影響で自我が薄まっているが、外に出さえすればまたいつものやちよに戻るはずだ。いや、戻らずともいい。生きてさえいてくれたら。やちよの死という最悪のシナリオを回避する、今はこれだけを考える!

「……ッ!」

 みふゆは立ち止まった。やちよが訝しむようにみふゆを見上げる。

 みふゆは全身に纏わりつくようなどろりとした気を感じていた。憎悪のこもった殺意とでも言うべきか。キレートマスコットにここまでの気迫が出せるとは思えない。自分たち以外の乱入者の可能性もある。だが、やはり一番ありうるのは。

(鶴乃さんにここまで憎まれることになるなんて、昔は思いもしませんでしたね)

 みふゆは己を奮い立たせるように笑い、よく剪定された紫色の木の下にやちよを下ろす。

「そこでじっとしていてください」

 みふゆはやちよの頬に触れ、未練を断ち切るように踵を返すと、自らは開けた場所に立った。四方から狙われる形にはなるが、壁を背にした状態で壁を破壊されるよりは、まだ対応がしやすい。巨大チャクラムを構えて腰を落とし、注意を張り巡らせる。

 鶴乃は既にこちらを把握しており、どこかに隠れている。ではどこに? 先程味わった憎悪は既に鳴りを潜めていて、方向を把握することはできない。みふゆを許したわけではないだろう。不意打ちをより効果的なものにするための戦略に過ぎない。

 自分だったらどこから不意打ちする? みふゆは周囲の遮蔽物を確認する。遮蔽物は3つ。まず、やちよがもたれる木の背後にコーヒーカップ。4つあるカップのどれかに潜んでいる可能性はあるが、やちよを巻き込む危険もある。みふゆであれば選ばないし、鶴乃も同じはずだ。

 次に、洞窟じみた入り口。地下へと通じているようで、アトラクションの内容は想像するしかできないが、この状況では関係ない。あの暗がりであれば炎を消せば隠れられるだろう。最後に、虹色のネオン光るキレートマスコット顔出し看板。センスはともかくとして、木製であれば破壊も容易、不意打ちには良い場所かもしれない。

 みふゆは深く呼吸し、全身に魔力を循環させる。空気中の魔力と己の境界を薄れさせ、一体化するイメージを脳内で形作る。僅かな空気の乱れも見逃さないために。内なる魔力の高まりに、瞳が紫色の光を帯びる。風が吹き、歪められた紅葉が流れて行った。……憎悪が膨らんだ。

「来た!」

 みふゆは叫び、そちらに巨大チャクラムを投げた。同時に、キレートマスコット顔出し看板が緑炎を撒き散らしながら粉砕され、鶴乃が渦を巻く炎と共に飛び掛かってくる。やはりやちよを巻き込む方向からは来なかった。そして、これで先手を取れた! 本物のチャクラムと共に、10を超える幻惑のチャクラムが鶴乃へと襲い掛かる! 相手からすればまるで刃の壁が迫り来るようであり、不慣れな魔法少女であれば混乱している内に本物のチャクラムに斬り裂かれ、運良く避けられたとしても崩れた姿勢では続く追撃にまともな防御姿勢は取れない。しかし、鶴乃は元はみふゆと同じチームで戦っていたのだ。

 鶴乃は扇を打ち振り、炎の風を生み出す。所詮それは大した密度を持たず、チャクラムを減速させることもできない。炎はチャクラムをすり抜けた。……そう、すり抜けた。ひとつのチャクラムを除いて。すなわち、それが本物である。鶴乃はスライディングで本物の下を潜り抜ける。幻惑のチャクラムは彼女の胴体を透過し、すり抜けた。

「やはり……!」

 みふゆはバック転から側転に繋げ、鶴乃から、そしてやちよから距離を取る。魔法少女同士の戦いに巻き込めば怪我では済まない。鶴乃はみふゆを追う。視界の端に映る、こちらへやってくる生き残りのキレートマスコットたちの姿。やちよの奪還は配下に任せ、自身は敵大将の足止め、ないしは無力化をしようというのだろう。天音姉妹はどうなった? もしや、既に鶴乃に……。

「みふ……ん!」

 その時だった。みふゆの鼓膜に微かな声が届いた。一瞬そちらに意識を向ければ、遠く木やアトラクションの上を飛び渡ってくる天音姉妹たち。無事だった!

「月夜さんたちはやっちゃんを守ってください! 鶴乃さんはワタシがなんとかします!」

 みふゆはあらん限りの声で姉妹に呼びかけた。姉妹は確かに頷き、やちよのいる方向へと進路を変える。キレートマスコットの数は見えている限りでは1ダース程度、万全な天音姉妹であれば勝てるだろうが……それにキレートマスコットもこれで全部ではないだろう。

「へぇ、わたしをなんとかするつもりなんだ!」

 獰猛に笑う鶴乃がみふゆとの距離を詰める。扇が届く距離まであと1メートルもない。先程投げたチャクラムはブーメランじみてこちらへと戻ってくるが、恐らく鶴乃の攻撃がそれに先んじる。魔女相手であれば有用な得物でも、やはり魔法少女相手となると力不足……!

「当然、ワタシはやっちゃんと同じくベテランなんですよ!」

 みふゆは両手に魔力を集中させ、それぞれにチャクラムを生成する。それは普段使用する巨大チャクラムからは程遠く、直径も半フィート程度。殺傷力の点では劣るが、対魔法少女戦での取り回しでは遥かに勝る!

「だから何!」

 扇の届く距離! 鶴乃は扇を振り下ろす! みふゆは手に持ったチャクラムで防ぐ!

「わたしは強いんだよ! 昔ならいざ知らず、魔力の弱まったみふゆがわたしに勝てるわけないでしょ!」

 もう片方の扇が逆袈裟に振り上げられる。みふゆは避け損ない、腕に浅い火傷を作る。

「さあ、それはどうでしょうか!」

 みふゆは不敵に笑い、後ろに跳びながらチャクラムを投擲した。チャクラムは幻惑ごとまとめて扇で切り払われる!

 鶴乃の言葉は真実だ。みふゆの見立てでは、全盛期であっても戦いの腕は鶴乃と同等程度だった。しかし、今は加齢に伴い魔力が弱まってしまっている。その上、鶴乃はウワサのバックアップを得ており、魔法少女の中ではまさしく最強だろう。1対1の戦いでは勝ち目は相当に薄い。

 だからこそ、秘策を用意してきた。みふゆは己に幻惑をかける。魔力を一度に引き出せる量を、実際よりも多く自分に錯覚させる。危険な行為である。蛇口を限界を超えて捻るようなものだ。故に、少しだけだ。全盛期ほども望まない。ただ、今より少しだけ多く引き出せればいい。無理はしない、相打ちが目的ではないからだ。やちよを救い出した後も、マギウスをここまで増長させた責任を取らなければならない。

 みふゆは体内を巡る魔力の流れが活発になったのを感じ、昔を思い出して高揚した。一方で、まるで魂に爪で触れられているような、不穏な違和感も覚えている。無理はしない。倒せずとも良い。やちよを逃がす隙さえ作れればそれで良い。

 三角を描くような連続攻撃をギリギリで躱し、屈んだ姿勢から新たに生成したチャクラムを振り上げる。刃は鶴乃の足を浅く斬った! 鶴乃は意外そうな顔をした。みふゆは畳み掛けるようにロー、ミドル、ハイのコンビネーションキック! 鶴乃は2発を耐え、最後のハイキックを後ろに跳んで回避。蹴られた腹部を擦る。

 そのまま2人は睨み合い、円を描くようにジリジリと動いた。周囲にキレートマスコットの姿は無し。やはり全て天音姉妹の方へと向かったのだろう。みふゆのこめかみを汗が流れ落ちる。

「鶴乃さん」

 みふゆの呼び掛けに、鶴乃は反応を返さない。説得は通じるだろうか。恐らく無理だろう。それでも一縷の望みはある。

「やっちゃんと一緒に、みかづき荘に帰りましょう。みんながお二人を待っています」

「別にいい。わたしは帰りたくないもん。やちよだって同じ」

「ウワサの結界の中にいるからそう感じるだけです。あなたたちは洗脳状態に……」

「やちよは死にたがってたよ」

 鶴乃が冷たく言った。みふゆは口を閉じ、次の言葉を待つ。

「洗脳状態? 確かにそうかもね。でもね、わたしもやちよも嘘はついてないよ。心の底にしまってた本音をさらけ出してるだけ。わたしはここでのんびりしてたい。やちよはここで死にたい。どっちも本音。わたしはやちよの望みを叶える。幸せにする。……やちよが一番苦しんでた時期に、もっと苦しめるような真似をしたみふゆと違って」

 鶴乃は憎しみの滲む低い声で言った。みふゆは動揺しない。動揺すれば付け込まれる。

「やっちゃんを殺せば、鶴乃さんは一生後悔しますよ。たとえウワサを剥がしたとしても……」

「もういい」

 鶴乃は獣じみて深く屈み込んだ。その背中から緑炎が迸る。

「やちよを苦しめようとするなら、のんびりさせてあげない。もう二度とわたしたちに関われないように、ここで死んで」

 鶴乃はバネじみて飛び掛かった。みふゆは前転で下を潜り、着地際の鶴乃に対してチャクラムを振り下ろす。鶴乃は扇を捨て、みふゆの腕を押さえた。鍔迫り合いめいた拮抗状態。みふゆは攻撃的な笑みを浮かべた。

「鶴乃さん。ワタシは今、かなり怒ってますよ」

「へえ。わたしとおんなじだね!」

 鶴乃は獰猛に笑い返し、力を込めた。みふゆは諦めて手を振りほどく。パワーでも魔力量でも、やはり鶴乃に分がある。しかし勝たねばならない。負ければやちよもあと数日で殺される。正念場だ。みふゆはソウルジェムから魔力を引き出す……!


◆◆◆◆◆


「ヤァァッ!」

 月咲はキレートマスコットの横面を笛で殴りつける。魔力のこもった笛の一撃だ。マスコットの頭は爆散し、首から下も塵となって消えていく。

「はぁっ、はぁっ……!」

 月咲は肩で息をしていた。ウワサと戦った経験はないが、それでもウワサの子分などに遅れを取るような魔法少女ではない。背中の傷と結界の重い空気、そして人を守りながらの戦いが彼女の動きを鈍くしている。月夜は笛を吹いて敵に対処しているが、その音色から普段の繊細さは感じられない。彼女も似たような状況なのだ。

 月咲はへたりこんで動かない七海やちよを一瞥する。西側の最大の驚異であり、あれほど苦しめられた存在が、ウワサに敗北して今ではこの有様か。胸の内に哀れみが浮かぶ。

 月咲がやちよに抱く感情は複雑だ。死神、悪鬼、妖怪、災害……やちよの持つ無慈悲さも相まって、彼女はマギウスの翼内で様々な呼ばれ方をしている。一方で、みふゆが親しい者に語る七海やちよ像は全く異なるものだ。仲間を大切にし、気高い心を持ち、主婦のように値段やポイントを気にする魔法少女。一番最後のものに対して、よく理解できていないようだった水名のみふゆや月夜とは対照的に、工匠の月咲はひどく共感したのを覚えている。

 元マギウスの翼としては、やはり助けたいと思う気持ちにも多少の躊躇いはある。それでも、みふゆが助けると決めた。ならば自分たちはそれを手伝う。それが月咲の下した決断だった。

(……でも、もし。七海やちよが、本当にここで死にたがっていたんだとしたら)

 月咲の脳裏に不穏な思考が閃いた。本当に死にたいのであれば、それはやちよの意思に反することになる。長生きしすぎた、彼女はそう言った。ここで死んだほうが、彼女にとって幸せなのだとしたら? 自分たちのしている行為は、単なるエゴイスティックなものなのではないか?

(……ウチらはとにかくみふゆさんの目的を果たす。その後のことは、後で考えればいい!)

 月咲は笛を地面に叩きつけた。魔力が地面を拡散し、半径数メートルのキレートマスコットを怯ませ、接近し過ぎた何体かが消滅する。

 やちよは目を瞑り、ただ俯く。何もかもから目を背けるかのように。


◆◆◆◆◆


 至近距離打撃の応酬を制したのは鶴乃だった。彼女は首元を狙うチャクラムを弾き、頭突きを繰り出す。みふゆは咄嗟に頭突きを合わせようとするが、間に合わず額に直撃する。一瞬視界が揺れ、鶴乃の姿がブレる。みふゆは咄嗟にバック転した。炎が彼女のソウルジェムがあった場所を薙いだ。

 みふゆはそのまま距離を取ってメリーゴーランドまで後退し、キャビンの屋根の上で回転した。彼女は紫色の竜巻となり、その中から無数のチャクラムが投擲される。面制圧じみた密度! 無論大多数が幻惑ではあろうが、こうまで多くては見分けることは不可能である!

 鶴乃は連続側転で回避。チャクラムは追ってくる。このままみふゆの魔力が尽きるのを待つか? 肌を浅く刃が裂き、鶴乃はその案を却下した。尽きる前に滅多切りにされるのがオチだ。鶴乃は両手の扇を投擲した。その軌道はみふゆから大きく逸れている。鶴乃は更に扇を生成、投げ続ける。その全てがみふゆから外れている。

 だが、鶴乃の扇はしっかりと目標を焼き切っていた。メリーゴーランド全体を覆う屋根、それを支える中心の柱を! ZZZZGGGGM……! 屋根が崩落を始め、たまらずみふゆはチャクラム投擲を中止して跳び離れる! コンマ5秒後、彼女の乗っていたキャビンを屋根の破片が粉砕した。

 空中のみふゆへ鶴乃が飛び掛かる! 鶴乃の身体にはチャクラムによるいくつもの裂傷があり、中には肉が見えるほど深い傷もある。だがその動きは微塵も鈍っていない。鶴乃は扇をめちゃくちゃに振り回す。みふゆはチャクラムで逸らし、逸らし、逸らし、逸らし続ける! 扇のほうがリーチが長く、反撃に転ずることができない。その上、防ぐ度に散る炎が肌を焼き、視界を奪う。地上に着くまでにあと何回逸らせる? その前に致命的な一撃を喰らうのではないか? みふゆの気は逸る。

 そして、賭けに出た。鶴乃の袈裟懸けの扇を、みふゆは半回転して背中で受けた。魂を焼かれたかのような苦痛が走る。必要な負傷だ。みふゆはもう半回転し、両手のチャクラムを投げた!

 鶴乃は目を見開き、片方のチャクラムを弾いた。もう片方は、扇のリーチの内側に飛び込み、彼女の左太腿を骨が見えるほどに深く裂いた! 鶴乃は歯を食いしばり、扇を後方に打ち振った。反動でみふゆに接近、全力の回し蹴りを叩き込む。深く入った。みふゆは吹き飛び、地面に身体をしたたかに打ち付けた。鶴乃は離れた場所に着地し、よろめいて膝をつき、扇を支えになんとか立ち上がる。太腿の傷から血が噴き出す。

 対するみふゆは立ち上がれず、四つん這いになりながら身体を起こす。新たに生成したチャクラムも、もはや持つことができず、両脇に捨て置かれている。

「げほっ……かはっ!」

 みふゆは咳き込み、血を吐き出した。本来であればチャクラムは胴体の中心を深く抉るはずだった。結果として、与えたのは左太腿の傷、受けたのは背中の火傷、重く入った回し蹴り、地面との激突ダメージ。あのまま逸らし続けたほうがマシだったか。

(昔からワタシは判断ミスばっかりですね)

 みふゆは独り言ち、顔を上げる。視線の先には全身に裂傷を作った鶴乃。有効と言える傷は太腿のもの程度だろう。対するこちらはこの有様だ。

「勝負あったね」

 鶴乃が無表情に言う。勝利の喜びも特に感じていないのだろう。

「遺言があれば聞くよ。それくらいはやちよに伝えてあげる」

 鶴乃は無造作に近付いてくる。扇の緑炎が新鮮な死を待ち望むかのように揺らめく。みふゆは、尚も笑みを作り、俯いた。ソウルジェムが輝きを発する。

「遺言ですか。そうですね……」

 そのまま、彼女は動きを止めた。鶴乃は訝しむ。遺言を必死に考えているわけでもなさそうだ。ならばこの状況を打開するための策を必死に練っている? だが無駄だ。鶴乃は片方の扇を振り上げる。反撃の素振りを見せれば、扇ですぐさまソウルジェムを焼き切る……。


 次の瞬間、飛び蹴りが鶴乃の腹部に叩き込まれた。

 鈍化した時間の中、鶴乃は理解できずにみふゆを見た。うずくまるみふゆは紫色の靄となって爆散した……正確には、みふゆの形をした幻が。そして今、光学迷彩を解くアサシンめいて、目の前のみふゆの輪郭が確かな質量を持った。ヒールが食い込み、パキパキと音を立てて肋骨を砕く。鶴乃は血を吐いた。時間が速度を取り戻す……!

 鶴乃はワイヤーアクションじみて吹き飛び、鉄柵に激突した。彼女はそのままうつ伏せに倒れた。

「結構ですよ。遺言なら今年も直接伝えます」

 みふゆは着地し、残心した。


「……っ……!」

 みふゆは苦しげに顔をしかめ、崩れ落ちた。彼女は己のソウルジェムに触れる。ソウルジェムは悲鳴を上げるかのように微かに震えていた。

 相当な無理をした。全盛期でさえ苦労したであろう大技だ。分身を作るだけであればそう難しい話でもないが、それと同時に姿を消すとなれば全く別の話だ。呼吸も、足音も、魔力すらも悟られてはならないのだ。両脇に置いたチャクラムをひどく簡素な結界の代わりにし、分身が完全なものとなった瞬間に姿と気配を消しながらロケットスタート、全力の飛び蹴りを食らわせる。成功はしたが、無視できない負担の大きさだ。ソウルジェムを休めねば、これ以上の戦闘は不可能だろう。

 みふゆはソウルジェムを押さえて立ち上がり、鶴乃を見る。鶴乃はうつ伏せに倒れたまま動かない。太腿の傷から流れ出る血が小さな血溜まりを作っている。可能であれば鶴乃のこともウワサから引き剥がしたかったが、このソウルジェムの状態では諦めざるを得ない。

 みふゆは踵を返し、遠くやちよのいる方向へと早足で向かう。それにしても、鶴乃の様子は異常だった。キレーションランドのウワサの内容は、生物から一切の緊張や警戒といった感情を失わせ、「のんびり」とすることしか考えられなくするというものだ。だと言うのに、ウワサの一部と化した鶴乃からは安穏とした雰囲気は一切感じられず、ただ憎悪だけを向けられていた。鶴乃の激情がウワサを上回ったのだろうか。だが、あのアリナでさえウワサには逆らえなかったのだ。果たしてそんなことが……。

 ぞわり、と。背後から魔力の奔流が吹き抜けた。まさか、とみふゆは足を止めて振り返る。そして信じられないものを見た気持ちになった。彼女の視線の先、鶴乃は膝立ちで起き上がっていた。全身の傷口から緑炎を迸らせて。足元に出来ていた血溜まりも石油じみて燃え上がり、炎と化して傷口に吸い込まれていく。その姿はさながら禍々しき怨霊じみていた。鶴乃の瞳は虚空を向いており、こちらを見ていないが、口元は何事かを呟くように動いている。みふゆの魔法少女の聴力はその声を捉えた。

「……もっと、力を……足りない……ウワサの力……やちよを守らないと……わたしに、ちょうだい……全然足りない……!」

 鶴乃の傷口を覆う炎はますます勢いを増す。地面が……否、世界が苦しげな唸り声を上げている。みふゆは恐怖した。鶴乃はウワサの一部となっただけのはずだった。ウワサを着込むようにしているマミのほうが、ウワサとの合一の度合いは高いが、それでもあくまでウワサが上位に立つ。だが、あれではまるで、ウワサを捻じ伏せて己の燃料として消費しようとしているかのようだ。道理すらも理不尽に捻じ伏せるエゴを、鶴乃は持っていたというのか。

 みふゆは鶴乃から目を背け、痛む身体を押してやちよの方向へと走る。使う魔力は筋肉に電気信号を送るだけの最小限、脚力のブーストはできない。これ以上ソウルジェムに負担はかけられない。なんと遅々とした進みだろう。みふゆは己が地を這うナメクジになったような錯覚を覚える。

 戦闘の音が近くなる。視界に天音姉妹の姿、そしてやちよが映る。天音姉妹はボロボロだが、それでもまだ戦い続けている。月夜がみふゆに気付いて声を上げた。

「みふゆさん!」

「やっちゃんを連れてこの結界から脱出します! 撤退を援護してください!」

「「はい!」」

 姉妹の力強い返事が重なった。最後のひと踏ん張りだ。彼女たちはその音色でウワサを退け、みふゆが進むための道を切り開く。みふゆはその道を通り、やちよの元へ走る。やちよは揺れる瞳でみふゆを見ている。

「やっちゃん!」

 みふゆは手を伸ばし、やちよの手を掴んだ。そのまま走り抜けようとした。


 手が、振り払われた。


「……え?」

 みふゆは振り返った。自分の手が虚しく開かれていた。やちよの手はそこにはなかった。やちよは固く瞼を閉じている。こちらを見ていない。(どうして?)みふゆはそれだけ思うのがやっとだった。やちよ以外の全ての音が、光景が周囲から消えていた。

 キレートマスコットがみふゆを蹴り飛ばした。みふゆは無様に地面を転がる。「みふゆさん!」と月夜が指向性の高い音色でキレートマスコットを貫いて消滅させる。

「……なん、で。やっちゃん……?」

 みふゆは起き上がり、やちよを見た。信じられなかった。やちよに本気で拒絶されたことなどなかった。呆れ顔をされたり躊躇われても、いつも最後には受け入れてくれた。マギウスによる解放は否定されたが、みふゆも心から納得して翼に入ってたわけではなかったから、そこまでショックではなかった。だから、今回も同じだと。本心から死にたがっているわけじゃない、きっと一緒に来てくれる。そう、思っていたのに。

「みふゆさん! 由比鶴乃が!」

 月夜が半ば悲鳴を上げるように伝えた。遠くに人の形をした緑炎があった。それは鶴乃だった。災いが具現化したかのような姿。緑炎はこちらへと歩いてくる。まるですぐ近くにいるかのような威圧感だった。

『やちよは……行かせない』

 世界が自ら発したかのように、その声は全方位から、耳元で響いてきた。肌が裏返りそうなほどの恐怖が月夜たちを襲った。

「みふゆさん!」

 月咲が叫んだ。みふゆはまるで聞こえていないかのように呆然としている。

「っ……月夜ちゃん!」

 月咲は己の姉に助けを求めた。月夜は一瞬の状況判断を迫られた。どの行動が正しい。由比鶴乃の迎撃か、それとも逃走か。

「……みふゆさんを連れて逃げるでございます!」

「七海やちよは!?」

「今は諦めるでございます! このままだと全員囚われてしまいます!」

「……わかった!」

 月咲は頷き、「ちょっと我慢してください!」とみふゆを乱暴に担ぎ上げて走り出した。月夜はその背中を守るように動く。キレートマスコットたちのほとんどがそれを追い、2体はやちよの傍で待機した。

 やがて緑炎をまとう鶴乃が到着し、やちよを見下ろした。鬼気迫る空気に、2体のマスコットは怯えるような動きを見せた。やちよは恐れとも心配ともつかぬ表情で鶴乃を見上げる。鶴乃は何も言わずに見下ろし続ける。……少しして、緑炎の勢いが弱まり、消失した。鶴乃の身体がぐらりと傾いた。

「鶴乃!」

 やちよは立ち上がって鶴乃を抱きとめる。鶴乃は息も絶え絶えに、力なく微笑んだ。

「よかっ、た……やっと……やちよのこと、まもれた……」

「縁起でもないこと言わないで! 今すぐ治さないと……でも私じゃ治癒魔法なんて……」

「大丈夫……ウワサの魔力で、治るから……それより、開園、もうちょっと遅れちゃうかも……ごめん……」

 鶴乃は項垂れ、動かなくなった。気を失ったのだ。「頑張ったわね」とやちよは鶴乃の頭を撫で、抱え上げる。そして管理人室へと歩いた。キレートマスコットたちがその後ろに続いた。


 ……キレーションランドの結界からやや離れた場所。天音姉妹は変身を解いて澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、その場にへたりこんだ。彼女たちの全身に疲れがどっと押し寄せる。空には皮肉なほどに綺麗な月が浮かんでいる。

「死ぬかと思ったよ……」

「わたくしもでございます……。地下室より空気が澱んでいた気がして……」

「ねー……」

 月咲は肩に担いでいたみふゆを下ろした。みふゆは瞼を閉じている。気絶しているようだった。

「でも、みふゆさんが無事で良かった……。…………?」

 ふと、月咲はみふゆのソウルジェムを見た。嵌め込まれた小さな宝石の中で、光が不規則に明滅している。月夜もまたそれに気付き、ソウルジェムに手を当てた。

「……魔力の異常な流れ……」

「まさか穢れが溜まりすぎて……!? でもドッペルが出るはずじゃ……」

「落ち着くでございます。魔女になろうとしているわけではない……そのはずでございます。ですが、何らかの異常事態が起きていることは間違いなく……」

 月夜は顔をしかめて月咲を見た。月咲は頷いてみふゆを肩に担ぎ直す。結界に突入する直前、何かあれば自分を調整屋に運べとみふゆから伝えられていたのだ。彼女たちは取り乱すのも最小限に、調整屋へと向かう……。


6


「やっちよししょー!」

 昼下がりのみかづき荘。わたしはソファで微睡むやちよに抱きついた。「ぐっ!?」と声が聞こえて、サイドポニーが引っ張られる。

「……いらっしゃい、鶴乃。今日も元気ね」

「うん! 特訓しよーししょー特訓ししょー!」

「そうね……ええ。じゃあ今日はどれだけ静かにしていられるかの特訓をしましょうか」

 やちよの声には隠す気のない怒りが滲んでいた。「鶴乃さんの今日の運勢は最悪ですね」「また占ったのか?」「勘です」「あーそう」バーカウンターっぽいところにいるメルとももこの会話が聞こえる。

「ふふっ。鶴乃さんは今日も元気ですね」

 声の方向を見ると、みふゆがいた。みふゆはいつもの優しげな笑みを浮かべている。

「うん! なんて言ったって最強だもん!」

「どうせなら静かさも最強になってほしい、わねっ」

 やちよは無理矢理わたしを引き剥がした。わたしは唇を尖らせる。

「しようと思えば静かさも最強だもん! みふゆもそう思うよね!」

「そうですねえ。鶴乃さんは最強の魔法少女ですから、もしかしたらやっちゃんより静かになれるかもしれませんね」

「でしょでしょ! ふんふん!」

「またみふゆは甘やかして……」

 やちよは呆れたようにため息をついた。わたしはさらなる同意を求めてメルとももこのほうに向かう……。

 ……鶴乃は薄く目を開いた。彼女は夢を見ていたように思った。一番楽しかったときの記憶の夢。最強になること以外何も気負わずにいられた、時には最強になることさえ忘れられた頃。

「鶴乃?」

 自分を呼ぶ声に、鶴乃は瞬きして視界をクリアにしながらそちらを向いた。やちよがこちらを覗き込んでいた。右手に熱を感じる。どうやら握られているようだった。鶴乃は起き上がろうとして、全身に感じる痛みに呻いた。

「無理しないの。というより無理しすぎよ」

 やちよは鶴乃をベッドに寝かせ直す。鶴乃は素直に従った。彼女は己の中から破滅的な力が欠落したのを感じた。あの瞬間の、キレートビッグフェリスの力さえも取り込んだときの感覚は微塵も感じられない。またあの力を引き出さなければならないときが来るのだろうか。……のんびりすることに直接繋がるものではないことは確かだ。彼女はその機会がもう来ないことを祈った。

「ありがと、やちよ。それより開園だけど、明後日には絶対するから」

「明後日? でも……」

 やちよは窓越しにキレーションランドの惨状を見た。キレートマスコットが掃除にあたっているが、元通りにするには2日では足りないのは確実だ。

「うん。だから正直不満ではあるけど、残骸とかの片付けだけして開園する。建て直すのは開園してから少しずつ。アトラクションが少なくても、一応ここにいるだけでのんびり自体はできるはずだから」

「そんなに急がなくても……」

「急いでないよ。……ううん、急いでるのかな。やちよを早く楽にしてあげないと」

 それはみふゆとの戦いを経て、鶴乃の中で更に強く固まった決意だった。誰もが自分勝手にやちよに役割を押し付けて、苦しみ続けることを強要する。やちよの気持ちも考えずに。自分がやるしかない、自分にしかやれない。そのためにはこの傷を早く治さねばならない。

「…………」

 やちよは意外そうな目で鶴乃を見ていた。鶴乃は「なに?」と首を傾げる。

「いえ……なんていうか、のんびり至上主義の管理人さんらしくない発言だと思って」

「んー? んー……」

 確かにその通りだと鶴乃は思った。何か目的のために頑張るなど、ウワサになる前とやっていることが変わらない。ウワサの内容にも反しているように思える。ウワサの内容自体は来園者に向けられたものであるため、管理人が従う必要はないといえば確かにそうだが……。

 鶴乃は難しいことを考えるのをやめて手招きした。やちよは「なあに?」と身を乗り出す。鶴乃はやちよの背中に腕を回して、ぎゅっと引き寄せた。そして目を剥いた。

「いッ……! 痛いいたいたたた……」

「当たり前じゃない! 骨だって折れてるのよ?」

 やちよが気遣うように離れようとする。鶴乃は腕と脚で固くホールドして阻止する。

「そのうちウワサの魔力で治るってば。それに……」

 鶴乃はやちよの唇に自身の唇を押し付けた。数秒で離し、はにかむように笑う。

「やちよとこうしてたほうが、きっと治りも早いもん」

「そんなわけないでしょう、もう……」

 そう言いながらも、やちよは既に離れようとはしていなかった。二人は顔を寄せ、睦み合う。残されたあと僅かの時間に、お互いの存在をより色濃いものにしようとするかのように。


◆◆◆◆◆


 一日が経過した。キレーションランドの片付けは七割ほどが終了し、翌日の開園には間に合いそうだった。邪魔をする者は現れず、この日の鶴乃とやちよは一日中睦み合って過ごした。鶴乃の傷はもうほとんどが治っていた。

 一方、キレーションランドの外。神浜市には不穏な空気が渦巻いていた。まるで嵐が来る直前のようだった。人々はわけもわからず不安に駆られ、家や職場に籠もるようにして過ごした。マギウスの計画が順調に進んでいることの証である。信号は予定通り魔女を呼ぶ。災厄を。

 また一日が経過した。

 その日が訪れた。


◆◆◆◆◆


「全然アトラクションないよね」

「ほんとそれ。撮っても全然映えなそうだし。でもなんていうか……めちゃくちゃ落ち着かない?」

「わかる。何もしたくない感じ」

 柵に寄りかかった少女たちが虚無的な瞳でおかしな馬のパレイドを眺めている。パレイドはアトラクションが完成するまでの間、24時間常に行われるらしい。遊べるアトラクションが限られている今、ほとんどの来園者がこの場所に集まり、広範囲に満員電車じみた混雑を形成していた。そのことに対して不平を述べる者はいたが、わざわざ別の場所に行ったり、キレーションランドを出ようとする者はいなかった。そのための気力もないのだ。ここにいない者は、なんとか生き残った鏡の館やお化け屋敷を楽しんだり、提供される鍋料理に舌鼓を打っている。

 その様子を、遥か上から二人の女が眺めていた。由比鶴乃、そして七海やちよ。彼女たちは建設途中のジェットコースターのレールに立っていた。

「見て見てやちよ、わたしの考えたお鍋すっごい好評だよ! 50点より高い点数もらってる」

「ええ、そうね」

 鶴乃が興奮した様子で話すのを、やちよは微笑ましそうに聞いている。自分が管理する遊園地がここまで大盛況なのだ、嬉しくないわけがない。よかったわね、と心の中で呟きながら、やちよは口を開く。

「この様子なら、そうかからずに満員になるわね」

「……うん!」

 鶴乃は笑顔で頷いた。だが、その笑顔には僅かに寂しさが滲んでいた。

 やちよの言う通り、キレーションランドはあと一時間も経てば確実に満員になるだろう。そうなれば、先に来た順に退場してもらう。すなわち、一番最初に退場するのは、一番最初に来園したやちよだ。

 だが実際のところ、誰を退場させるのかというのは厳密には決まっていない。出たくない人はこの世から退場させられるとあるが、こんなにも安心できる空間から積極的に出たがる者などそうはいないため、ほとんどが対象だ。結局、管理人の裁量に任せられる部分が大きい。

 ゆえに、管理人としての権限を使えば、このままやちよと共に居続けることも不可能ではない。しかし、鶴乃はそうしない。やちよがそれを望んでいないからだ。やちよは死ぬことを望んでいる。メルと、かなえの元に向かうことを望んでいる。ならば、鶴乃はそれを叶える。キレーションランドのウワサとして、由比鶴乃として。

「あと少し、何して過ごそっか?」

 鶴乃はやちよの顔を覗き込んだ。「そうね……」とやちよは考えるように顎に手を当て、やがて言った。

「のんびりしたいわね」

「……うん。わかった」

 鶴乃はやちよを抱えてレールから飛び降りた。手を繋いで管理人室へ。鶴乃は扉を閉じ、カーテンを閉めて窓から見えないようにする。二人はベッドに座り、肩を寄せ合った。何をするでもなく、彼女たちはそのままのんびりと過ごした。


◆◆◆◆◆


「……う……」

 柔らかなベッドの中、みふゆは目を覚ました。頭がぼうっとしていて、思考に靄がかかっている。ベッドの周囲は清潔感のある白いカーテンで囲まれている。みふゆは身体を起こし、すぐ傍に置いてあった靴を履いてカーテンを引き開ける。

 まず目に入ったのは、神秘的に光るステンドグラスだった。続いて、一枚の布をじっと見つめている八雲みたまの姿。布は魔力を含んで超自然の煌めきを発している。

「調整屋さん……」

 みふゆは呟いた。みたまが起き上がった彼女に気付き、ぱたぱたと駆け寄る。

「みふゆさん! 起きたのね。心配したんだから!」

「申し訳ありません……。月夜さんたちは?」

「一昨日あなたをここに運び込んできたきり見てないわねぇ。十七夜たちと一緒にいるんじゃないかしら。あぁ、みふゆさんの怪我は昨日いろはちゃんが治してくれたのよ。会ったらお礼言わないとね」

「いろはさんが……そうですね。お礼、を……」

 みふゆは頭を押さえながら、段々と思考が明瞭になってきたのを感じた。そして、今のみたまの言葉に聞き逃がせない単語があったことに気付いた。

「……おととい?」

「ええ。みふゆさんずっと起きなかったのよ。もうほんっと、みんな心配してたんだから! 昨夜くらいから安定したけれど、ソウルジェムもおかしかったし……」

「ワタシが寝ている間に、キレーションランドのウワサはどうなりましたか?」

 みふゆは淡々と尋ねた。みたまは表情を曇らせる。

「まだ何もできていないみたい。やちよさんと鶴乃ちゃんがいなくなっちゃったでしょ? その分十七夜と月咲ちゃんたちも入ったけど、みんなの士気はあんまり良くなくて、羽根の散発的な攻撃に……」

「そうですか。ありがとうございます」

 みふゆは立ち上がり、調整屋の出口へと向かって歩き始めた。その肩をみたまが慌てて掴む。

「ちょっと、どうするつもり!?」

「やっちゃんを助けに行きます。もはや一刻の猶予もありません」

「ええ、そうね。だからいろはちゃんたちと協力して助けに行こうとしてる、そういうことでいいのよね?」

「いえ。いろはさんたちにはこれから来るワルプルギスの夜とイブを抑えてもらわないといけません。こちらに戦力を割く余裕はないはずです」

「ワルプルギスの夜……!? これから来るってどういうこと!?」

「すみません、説明している暇はないんです」

 みふゆはみたまの手を強引に振り払い、魔法少女の速度で調整屋を出た。後に残されたみたまは呆然と見送るしかできなかった。


◆◆◆◆◆


 みふゆはキレーションランド結界前に到着した。周囲には幽霊じみて結界に吸い込まれていく一般人たちの姿。これからウワサの餌になる人々だ。みふゆは後ろを振り返る。

 道中、正気を失った羽根による襲撃に遭った。マギウスの最後の作戦が始まったのだろう。恐らくいろはたちが対処するはずだ。……神浜市の今後を決める分水嶺、本来であればみふゆもここにいるべきではない。今更キレーションランドから二人を救い出したとして、敵と戦えるまで回復するには時間がかかる。月夜たちと共に、内部の人間しか知らない情報を提供していろはたちを手助けするのが、今できる最善の行動だ。

 それでも、みふゆはキレーションランドに来ることを選んだ。そこに合理的な理由はない。しかし、確固たる信念に基づいた理由もまた、なかった。

 ここに来るまでの間ずっと、みふゆはやちよに手を振り払われた瞬間について考えていた。やちよは本当に死にたがっていたのだろうか。自分がマギウスの翼についたことは、今後何をしようとも償うことのできない最悪の失敗だったのではないか。思考を深めれば深めるほど、闇の中へと落ちていくようだった。

 みふゆは結界の入り口を見上げ、思考を打ち切った。やちよを助け出す。考えなければいけないのは、それだけだ。


◆◆◆◆◆


 眠るように目を閉じていた鶴乃が、ふと目を開いた。同じようにしていたやちよが鶴乃の様子に気付き、こちらも目を開ける。鶴乃はやちよを見ず、手を握った。

「キレートマスコットの子たちからテレパシー。みふゆがまた来たって」

「そう」

「それと、もうひとつ。……満員になったって」

「……そう」

 やちよは淡々と事実を受け入れるように返事をし、手を握り返した。二人は数秒そのままだった。やがて、どちらからともなく立ち上がった。二人は手を握ったまま管理人室を出て、どこへともなく歩いた。やちよは穏やかな表情をしていた。鶴乃は無表情だった。

 やがて開けた場所に出た。この辺りのアトラクションは全てが破壊されたか建設途中で、来園者も来ていない。二人は足を止めた。

「ねえ、やちよ」

 鶴乃が口を開いた。やちよは鶴乃を見た。鶴乃はやちよを見なかった。

「ここにいる間、やちよは、楽しかった?」

「ええ、おかげさまでね。ずっとのんびりして過ごしたけれど、退屈もしなかったわ」

「そっか、よかった。……もうひとつだけ、聞かせて」

「ええ」

 やちよの手を握る鶴乃の手に、力がこもった。

「やちよは、わたしのこと、好き?」

 やちよは瞬きし、微笑みながら頷いた。

「ええ。好きよ」

「そっか。……そっか。うん。ありがとう。わたしもやちよのこと、好きだよ」

 鶴乃はもう一度やちよの手を強く握り、離した。鶴乃はやちよの前に立った。やちよはソウルジェムの指輪を外し、卵型にして差し出した。鶴乃は受け取った。

「じゃあね。……おやすみ、やちよししょー」

「ええ、おやすみ。あなたは本当に自慢の弟子よ。今まで本当にありがとう、鶴乃」

 やちよは目を閉じた。彼女の瞼の裏には、かなえとメルの姿が映っていた。


◆◆◆◆◆


「やっちゃん……待っていてください……!」

 みふゆは園内を走る。目指すは鶴乃の魔力反応である。あれほど戦えば、魂が否が応でも覚えていた。

 向かってくるキレートマスコットたちへの対処、一般人に被害を出さないような立ち回り、これらが予想以上に彼女の時間を奪った。特にキレートマスコットはしぶとく、胴体を切り離されても上半身だけで向かってこようとする個体もあった。その姿に憐れみを浮かべる心優しき魔法少女もいただろうが、みふゆにとっては単純に邪魔なだけだった。

 目の前に1体のキレートマスコットが飛び出してくる。マスコットはみふゆを蹴り飛ばそうとする。

「邪魔です!」

 みふゆは巨大チャクラムの一振りでキレートマスコットの首を刎ね、消滅させた。鶴乃の魔力反応が近い。みふゆは走り、曲がり角で停止した。そして、二人を発見した。

 鶴乃は屈み込み、やちよを抱きしめていた。やちよは糸が切れた人形のように動かず、また、心から安心して眠るような表情をしていた。そのすぐ傍には、青いソウルジェムが落ちていた。ソウルジェムは砕けていた。

「……あ……」

 みふゆは膝をついた。どうすれば良かったのだろうか。もう少し急げば良かったのだろうか。それとも、あの時鶴乃に飛び蹴りを叩き込んだ後、すぐに殺してしまうべきだったのか。否、そもそもマギウスの翼に入ったこと自体が間違いだったのか。どこから間違えていたのだろう。どの選択を間違えなければ、やちよは死なずに済んだのだろう。

「結局、やちよを幸せにできたのはみふゆじゃなかったね。わたしだった」

 鶴乃はやちよを抱えて立ち上がり、近くのベンチにそっと寝かせ、振り返った。

「さっきまでみふゆのこと許せなかったけど、今はどうでもよくなっちゃった。ね、のんびりしていく? いいよ! キレーションランドの管理人として、わたしはみんなをのんびり幸せにしちゃうから!」

 鶴乃は屈託のない笑顔を浮かべていた。笑顔を浮かべながら、涙を流していた。涙の色は人間と同じ透明だった。

 みふゆは呆然としてやちよを見つめている。彼女の瞳に涙はなかった。ただ譫言のように「なぜ」「どうして」と繰り返していた。

 キレートマスコットがみふゆを取り囲んだ。鶴乃はただ黙ってみふゆを見ている。みふゆは俯いた。やがて、強くチャクラムを握り、再び顔を上げ、鶴乃を見た。みふゆの瞳は、憎悪、後悔、絶望……その他様々な感情が綯い交ぜになった紫色に染まっていた。

 キレーションランドの外では、停電して闇に包まれた神浜の街で、魔法少女たちが己に降りかかる理不尽と必死に戦っていた。一人の魔法少女が死んだことを彼女たちは知らない。何もかもが終わった後、ようやく知ることになるだろう。その喪失を。

 月明かりは重苦しい雲に遮られ、雲からは土砂降りの雨が降り始めた。雷が閃き、神浜の何処かへと落ちる。そして今、遠くから笑い声が聞こえ始めた。











 …………。

 ……………………。

 ……………「……が……!」……。

 …………………………「……もたな……」………。

 …………………「……って…………ちよを救…………」…………。

 …………………………………「……タシたちは……」………………………………。

 …………………………「……これは……」……………………………。

 …………………………………………………………。

 ……………「……やちよ……」………。

 ……………………。

 …………。


◆◆◆◆◆


 バチバチと結界が揺らめき、キレーションランドの結界が消失した。中にいた大量の一般人は気絶し、雨でずぶ濡れの地面に折り重なっている。雨はますます勢いを増し、遠くには逆さになった魔女の姿と、鳥じみた魔女……否……半魔女の姿もあった。

 折り重なる一般人の山から遠く離れた場所、そこに満身創痍のみふゆは立っていた。みふゆのすぐ近くには鶴乃が倒れていた。鶴乃のソウルジェムはヒビひとつなく、内なる魔力に輝いている。

 数メートル離れた場所に、やちよは倒れていた。砕けたソウルジェムと共に。みふゆは手を伸ばした。

「……やっちゃん……」

 その身体はぐらりと傾き、ばしゃりと音を立てて地面にうつ伏せに倒れた。彼女のソウルジェムもまた、鶴乃と同じく無事だった。二人の魔法少女と一つの死体に、雨が平等に、そして無慈悲に打ち付けていた。


見えない、見ていない 終わり

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