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鏡餅月

IDOL STAR FESTIV@L 02にて頒布されたかなしほあん合同「tricolore esprit résolutions」に寄稿した、冬のプライベートがテーマの小説です。

 こたつに寝転がりながら、薄暗い部屋で少女は独りコントローラーを操作していた。ヘッドホンを着けているため兎の耳がついたフードは外され、空間に響く音はコンピュータが鳴らすファンと、機械じみた正確さと素早さで操作されたコントローラーの立てるカチャカチャという音だけである。少女、望月杏奈の瞳は冷凍マグロのように光差さぬ闇である。

 すぐ横のモニタ、ディスプレイの端にバルーンがポップした。杏奈は片手でコントローラーを操作したままキーボードに手を伸ばし、隣のモニタに映るIRCウィンドウを操作する。熟練の業!

# lily_rabbit: lilyknight: 何このイベント

# lily_rabbit: vivid_rabbit: この世の地獄

# lily_rabbit: lilyknight: ワオ

# lily_rabbit: vivid_rabbit: 今lilyknightミスしたnoob

# lily_rabbit: lilyknight: :(

 IRCが途絶える。彼女は作業に再び集中した。ディスプレイに映っているのは彼女のアバターがバットを構える姿。アバターとはゲーム内に存在する自らの分身である。

 人間の子供のNPCが彼女のアバターの遥か前方に立っている。子供はボールを振りかぶり、やや特殊なフォームで投げた。ボールはゆっくりとアバターのすぐ近く目掛けて飛んでいる。容易に打ち返せそうな速さである。

 だが、その時である。ボールが突如として急加速し、ストライクゾーンに向けて撃ち込まれる弾丸と化したのだ! いかなる回転をかけたのか? 子供NPCはただ嘲るような笑みを浮かべるばかり。

 SMASH! おお、読者の皆さんはしっかりと目に焼き付けただろうか!? 杏奈のアバターが弾丸じみたボールを打ち返し、ホームランを奪い取った光景を!

「ふー……」

 杏奈は息を吐いた。ゲームウィンドウの角、126のカウントが足され、127となった。この数字は彼女が1ゲーム中に勝ち取ったホームラン数を表している。そう、1ゲームである。もし一度でも空振りやヒットを打てばゲームは終わり、ホームラン数はリセットされる。

「あと、1点……」

 杏奈は呟いた。あと1点取れば、彼女が1回表で取った点数は128となる。これが何を表すか?

 彼女がその数字を叩き出したとき、点数計算システムが極度負荷を受け、運営会社のサーバーは爆発する。復旧には時間がかかるだろう。だが彼女はそのような事情を気には留めるが、躊躇いはしない。「大人気キャラクターたちとコラボして楽しいイベント」と謳っておきながら、ストレスを貯めるのみのクソイベントを開催した運営への復讐である。イベントを無視してエンチャント集めをする選択肢もあったが、せっかくなので彼女は復讐を選んだ。

# lily_rabbit: lilyknight: vivid_rabbitならきっとできる

# lily_rabbit: vivid_rabbit: yep

 lilyknightから応援IRCが届く。杏奈は意識を集中する。NPCが投げた。彼女は親指に力を漲らせ……。

「杏奈ちゃーん!」

 大きな音を立てて部屋の扉が開いた。杏奈は予定よりも早くボタンを押し込んだ。バットが何もない空間を薙いだ。ジグザグな軌道を描いたボールはアバターの横を嘲笑うように素通りしていった。

# lily_rabbit: lilyknight: noob:)

 lilyknightからの煽りIRCが届く。杏奈はそれに返信ができなかった。彼女はただ絶望したように手をモニタに伸ばし、口を唖然としたように開けている。

「杏奈ちゃん……?」

 扉を開けた橙髪の少女、矢吹可奈が心配そうに呟いた。杏奈の身体がぐらりと傾き、コントローラーを避けて倒れた。

「あっ、杏奈ちゃああん!?」

 可奈は慌てた様子で身体を揺さぶるも、杏奈は何も反応を返さない。まるで意識が1レイヤー上へシフトしてしまったかのように。なんたる悲劇か、矢吹可奈はその気は無くとも少女の心を完膚なきまでに折ってしまったのだ。

「……何してるの」

 可奈の後から入室してくるのはウェーブがかった茶髪の少女、北沢志保。上着を脱いだ彼女のバストは豊満である。

「志保ちゃっ、杏奈ちゃんが、なんでかわからないんだけど、来た途端にいきなり倒れて!」

「あ、そう」

 志保はディスプレイを覗き、そこに映る地獄的光景を見て合点がいったように頷いた。そしてキーボードの上に指を置き、心配そうにいくつもIRCを寄越してくるlilyknightに対して何らかのメッセージを……送ろうとしたが、彼女の指は動かなかった。

「ねぇ可奈。あなた、キーボード打てる?」

「えぇーっ! 志保ちゃん、キーボードも打てないの!?」

「フリック入力なら出来るわよ」

「もー、仕方ないなー志保ちゃんはー!」

 可奈は意気揚々と杏奈の手を取り、キーボードの上に乗せた。そのまま十秒が経過した。

「……何してるの」

「こうしたら杏奈ちゃんの手が自動で打つと思って!」

「あなたにしては随分頭使ったのね」

 志保はスマートフォンの上に指を滑らせながら言った。その画面上に映っているのは、「キーボード 入力方法」と書かれた検索画面である。

 杏奈の指がぴくりと動き、可奈は「あ」と声を上げた。次の瞬間、残像の見えかねぬスピードでキーボードがタイプされる! その速さ、もはや計測不能の領域!

「わーすごーい!」

 可奈は無邪気にぱちぱちと拍手をした。だが、杏奈の指は一秒と経たない内に動きを止め、またぱたりと床に投げ出されてしまった。

「パワー切れ?」

「違うわ。画面を見なさい」

 志保はIRCの表示されたモニタを指差した。可奈はそちらを見、目を見開いた。

# lily_rabbit: vivid_rabbit: 可奈に妨害された。許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない

「相当恨みを買ったみたいね。ご愁傷様」

「ひいっ!? 杏奈ちゃんごめんなさい! ごめんなさい!? ごめんね本当に! ね!?」

 可奈は必死に謝った。それが杏奈の身体をガクガクと揺らしながらでなければ、もう少し誠意も伝わっただろう。

「……か、かな……」

 杏奈から今にも消え入りそうな囁き声。可奈はぱあっと表情を輝かせる。しっかりと身体を揺さぶり続けながら。

「……ほ、ほんとうに……きぜつ、しそう……だから……」

「志保ちゃん、杏奈ちゃんなんて言ってるの!」

「今すぐ手を離さないと納豆の刑だって」

 可奈はすぐさま手を離した。杏奈はぐったりとしながらlilyknightにゲーム中止を伝える。志保は部屋の主の許可を取ってトレンチコートをハンガーにかけ、こたつにあたる。

 杏奈はゲームウィンドウを閉じ、のっそりと身体を起こした。可奈はビクビクとして様子を伺っている。

「……別に、怒ってない……よ。……それはそれとして、可奈には何か……してもらうけど……」

「まあ、可奈だって悪気があったわけじゃないのよ。モノマネさせましょう」

「志保ちゃんは私の味方じゃないの?」

「……じゃあ……なにか、自信のある……モノマネ……」

 可奈は未だ納得できないような表情をしていたが、ぐっと口を閉じた。杏奈と志保は期待の籠もっていない目を向けている。

「……な、奈緒さんのモノマネ! このたこ焼きおいしいわ~ってお好み焼きやないかーい!」

 可奈は虚空に向けてチョップじみた動きをした。それはモノマネというには、あまりにも似ておらず、双海亜美に弟子入りを辞退される程のものであった。

 沈黙。彼女は恐る恐る二人のほうを見た。二人はシリアスなアトモスフィアを漂わせている。志保は手を挙げかけ、下ろし、杏奈に意見を求める。

「評価は杏奈に任せるけど、どう思った?」

「……むずかしい……。クオリティはまるでひのきのぼうみたいだった、けど……自信のあるモノマネで、これを選んだ理由が気になる……」

「そうね……確かにクオリティとしては、奈緒さんに見せたいくらいのものだった」

 それきり、二人は押し黙ってしまった。立ちっぱなしは疲れるので、可奈は黄色のPコートをハンガーにかけてそっとこたつに入ろうとする。

「……可奈……」

「はいっ!」

 不意に名を呼ばれ、可奈はピンと背中を伸ばした。声の主である杏奈は、今まさに判決を下さんと彼女にしては鋭い目つきで可奈を見上げていた。

「……クオリティで考えると……今のを、モノマネって認めるのは……普通に奈緒さんに失礼……」

 杏奈は志保をちらりと見た。志保は肩を竦めた。

「……でも……今のをモノマネって考えると、哲学的な気がする……から、特例……」

「……とくれい?」

 可奈は首を傾げたが、杏奈はそれ以上何も言わずにこたつに顎を乗せてしまった。困惑した視線を志保に向けると、彼女はこたつをとんとんと叩いた。

「入っていいって。良かったわね」

「……? ……! わーい!」

 罪を償い、可奈は赦された。彼女は満面の笑みでこたつに入った。こたつは温かく迎え入れた。これにて可奈の苦難は終焉を迎え、暖かな時代が到来する。

 ……かに思えたが。

「それで。宿題は持ってきたの?」

 志保のその一言は、可奈のみならず杏奈の身体までをも暖房の効いた部屋内で凍らせた。彼女たちはマイティセーラー最終決戦仕様スタチューめいて動かない。マイティセーラーは可動アクションフィギュアも発売されており、その高い可動性から、同じく765プロ発売のダークセーラーフィギュアと合わせてBUNDODO人気が現在でも高い。

「別にやらなくてもいいのよ。一人で解けるなら」

「ごめんなさいぃ……やるから志保ちゃん助けてぇぇ……」

「ひゃっ!?」

 志保は突然高い声を上げた。可奈がこたつの中の足をくすぐったのである。志保は叩くように手を振り上げ、頬に当たる直前で勢いを殺して可奈の頬をつねる。

「あなたは……!」

「いひゃい……いひゃいよ~……」

「杏奈もやるわよね。そのために私たちを呼んだんだから」

「……ん……」

 杏奈は渋々といった様子で、部屋の隅から紙束を引っ張り出して、こたつの上を片付けながら置いた。

 何の予定もないオフの日、彼女たちが杏奈の部屋に一堂に会した理由がこれだ。彼女たちは普通の中学生と異なり、冬休みにもレッスンや仕事がある。しかし当然、多くの宿題もある。可奈と杏奈はアイドル活動の忙しさに感けて宿題を怠った。結果、冬休みの時間を残り数日というところまで消費してしまった。ナムアミダブツ。

 独力でこの量の宿題は不可能と判断した二人は「宿題同盟」を組んだ、そして同じユニット仲間であり既に宿題を終わらせていた北沢志保に泣きつき、哀れみの視線とともに見事に協力の約束を取り付けたのだ。

 同時に、ここからが志保の正念場である。ここで二人をサボらせれば、彼女は単に雪の中遊びに来ただけになってしまう。このような敗北ほど悔しいものはない。

「私は歴史〜……授業寝てて知識からっきし〜……」

「歴史の宿題? あるのね、そんなのも」

「う〜……」

 可奈が取り出したのは薄い歴史ドリルだ。表紙に描かれた螺旋模様がこれまでに宇宙が歩んできた永い歴史を伝える。

 宿題の時間が始まった。彼女たちは誰に何を尋ねることもなく沈黙したか? ……否。一人で解けるのならば、そもそもわざわざ集まって宿題をしたりなどしない。

「……志保……1フィートって何メートルだっけ……」

「……30センチくらい?」

「志保ちゃ〜……数百年続いた聖母と悪魔の争いってどうして終わったの〜……」

「一匹の猫が聖母側についたことで、パワーバランスが一気に傾いたから。歴史って神話までやるのね」

「……華氏での融点って……?」

「あなた何の宿題してるの? 化学?」

「志保ちゃーん……杏奈ちゃんの頭に顎乗せて~……」

「はいはい……は?」

 志保は思わず聞き返した。可奈は真面目な顔をしている。

「お願い、一回だけでいいから! ほんっとうにすごいこと思いついちゃったから、一回だけ!」

「どのくらい凄いかによるけど」

「杏奈ちゃんのほっぺたくらい!」

 志保は杏奈のほうを向き、頬を弱めにつついた。そしてしばらくの沈思黙考に入る。ついでに可奈も頬をつつこうとしたが、杏奈がまるで指を噛み千切らんとするかのように口を開けているのを見て、敢え無く諦めることとなった。

「一回だけね」

 志保は小さく頷いた。それは妥協のようでもあったが、断った場合の士気低下などを考えた末の合理的判断であった。

「やったー! じゃあ志保ちゃん、乗せて乗せて!」

「はいはい……それより、杏奈の許可は」

 志保が振り向くと、杏奈は既にこたつの上に顎を乗せていた。本当はこっちも宿題から逃れる理由を得られて喜んでいるのでは? 彼女の中に疑念が湧いたが、問い質すまでもなくそうであろうという確信があったため、ため息を吐くのみに抑えて頭の上に顎を乗せた。

「それでー、私がその上に乗ってー……」

 可奈が志保の頭の上に顎を乗せ、どこからか取り出した自撮り棒(765プロが開発した最新型である)で写真を撮った。眠そうな目をした杏奈、怪訝そうに眉根を寄せる志保、一人だけ自信満々な表情の可奈が写っている。

「それで、これがどうしたっていうの?」

「ふっふーん、それはねーまず私がオレンジ色でしょ?」

 可奈は自分の髪の毛を指差して言った。志保は「はあ」と気のない返事をする。

「それで、志保ちゃんのイメージカラーが白。杏奈ちゃんが『もち』づきあんな。……わかった?」

「…………」

 志保は無言で杏奈と目を見交わした。おおよその……至極くだらない……見当がついたためである。

「上から橙、白、そしてもち。そう、これが私たち三人で作った鏡餅!」

 説明しよう。気の乗らぬ勉強中、可奈はあることを思いついた。「餅つき杏奈」と。だが杏奈で餅つきするわけにはいかない。それでも諦めなかった。彼女はイメージカラーに目をつけた。志保は餅のような白、可奈はそのまま橙。彼女の頭の中で全てが繋がり、脳内スパークが起こった。

 最下段と中段に餅、最上段に橙。なんたることか、シンプルを極めた鏡餅が完成したのである。

「……おもち食べたいの?」

「違うよ!? でも食べたい!」

 志保の訝しむような視線に、可奈は力強く返した。杏奈がスマートフォンで時間を見る。

「……勉強したから、そろそろ休憩……」

「だめよ。休憩って言ったって勉強始めてからまだ五分と経ってないんだから」

「えー! でも一時間は勉強してたような気がするくらい頭使ったよ!」

「……杏奈も……」

「へー、そう。ふーん」

 志保の目つきが鋭くなる。可奈と杏奈は揃って震え上がった。それはあまりにも見慣れた、あと少しで怒髪天を衝くときの目。抵抗すれば、死。可奈は数度死んだ経験がある。

「あー、ああー! やっぱり勉強したくなってきたなー!」

「あ……杏奈も……」

 二人は机に向かい、自分から宿題を始めた。その判断は正解だ。もしそのまま続けていれば、鬼と化した志保からのパワーボムは避けられなかっただろう。

「そう。じゃあ頑張って」

 志保は冷めた口調で言い、スマートフォンをいじり始めた。

 五分が経つ。志保はスマートフォンから視線を外して二人の様子を観察する。杏奈は無言でシャープペンシルを動かしている。得意科目なのだろう、順調のようだ。反対に可奈は手を止めて、代わりに首をうつらうつらと揺らしている。こたつに入りながらの暖かい環境、かつ、苦手科目であろう歴史の宿題という二重の条件。無理もない。数分なら見逃してあげようか。志保はそんなことを思った。

「……志保……スパークドリンク……買ってきて?」

「ダメよ。あれはエナジードリンク、飲まないに越したことはないんだから。よくそんな堂々とパシらせようと思ったわね」

「……でも、プロデューサーさん……飲んでる時は一日に百本以上飲んでる……よ……?」

「あれで死んでないのがおかしいのよ」

「……だね。……そういえば、可奈……は?」

「可奈? さあ、寝てるんじゃない、の……?」

 志保は可奈のほう……可奈がいたほうを向き、眉根を寄せた。そこにあったのは三割も終わっていない宿題だけで、本人が忽然と消え失せていたのだ。

「……トイレ……かな」

 杏奈は特に疑った風もなく推測を述べたが、志保にはどうしてもそう楽観できなかった。部屋を見回して一点に目を留める。灰色のトレンチコートがかけられたハンガー。その隣、何もかかっていないハンガー。黄色のPコートがあるはずの。

「ゆきゆきゆ~き~!」

 窓の外からはしゃぐ声。志保は大股でそちらに向かい、カーテンを引き開けた。彼女の眼下、一面の雪の中で橙髪の少女が犬めいて駆け回っていた。

「あ、の、子、は……!」

 志保は額に青筋を立て、拳を握りしめた。多少の真面目さに免じて数分の睡眠を見逃してあげようかと思った直後、この仕打ち。いっそあの子を雪だるまに埋めてしまおうか。

「雪……降ってたんだ……」

 杏奈が嘆息して言った。志保は返事をせずにトレンチコートをハンガーから取り、耐寒装備を整える。

「……どうする……の?」

「力づくで連れて帰る。杏奈は宿題を続けてて」

「……rgr……」

 最後にマフラーを巻き、志保は決断的な歩調で部屋を出た。杏奈はそれを見送り、宿題を眺めて、こたつの上に顔を伏せた。可奈の足は速い、本気で逃げればそうそう捕まらない。帰ってくるには時間がかかるだろう。それを見越し、仮眠を取るつもりなのだ。

 一分後。杏奈は頭の向きを変えて、寝るのに良い姿勢を探す。うぅんと唸りながら部屋の扉のほうを向くと、可奈を後ろに従えた志保と目があった。ぱちぱちと瞬きをする。

「ただいま」

「……早くない……?」

「ええ。可奈がいい子だったから」

 志保は可奈の分も一緒にコートを元あった場所にかけ、何故か再び扉の外に出て行った。可奈は震えたままゆっくりとこたつに入った。その震えは寒さのためではないのだろう、杏奈は同情し、ついでに可奈の頬をつついた。

「……可奈……何が、あったの……?」

「……私、雪だるまだった……」

 虚ろな目の可奈はそう述べた。錯乱しているのだろう。これ以上突っ込むのはいたずらに彼女の傷を抉るだけと判断し、杏奈はただ机に伏せ、仮眠を取り始めた。

 十分ほどが経った。杏奈は顔を上げる。志保は帰ってきていない。可奈を連れてくる時間の十倍かかっている。疑問に思い、シャープペンシルで机をトントンと叩く。フリーズしていた可奈の瞳に光が戻る。

「……あ、ごめん! どうかした?」

「……志保が、十分も戻ってこない……。おかしい……。なんで、だと思う……?」

「トイレとか?」

 可奈は即答した。恐らく脳を経由せずに脊髄で思考したのだろう。とは言え、脳みそが働かなくなってきているのは杏奈も同じだった。眠気の上に、宿題をするための糖分が不足してきている。やはりおやつは効率の良い宿題進行のために必要である。志保も流石に許してくれるだろう。そう言い訳のように結論付け、杏奈は立ち上がろうとした。

 がちゃりと扉が開いた。あんこのような甘い匂いが鼻孔をくすぐり、杏奈は引っ張られるようにそちらを見た。一足先に反応していたらしき可奈が、お盆を持った志保の周りを子犬めいてグルグルと廻っている。

「志保ちゃん志保ちゃん! この三つのお餅は! もしかして! ねえ!」

「そのもしかしてだから、こたつの上を片付けて」

 窘めるような声に、可奈はすぐさまこたつの上を片付ける。余計に飼い主とその犬のような雰囲気を出していたが、杏奈の主な関心事はそちらではない。

 こたつにお盆が置かれた。お盆の上には器がみっつ。器の中身は焦茶色の少しこってりとした液体と、小さくて丸くて白い固体。お汁粉だ。

「やったー! でもなんで?」

「杏奈のお母様が用意してたのよ。私も少し協力したけど」

「……お母さん、が? ……いつもより優しい……いいところ、見せようとしてる……」

「随分穿った見方するわね……勉強しっぱなしで疲れてるでしょうからって。お礼は言っておいたけど、可奈もちゃんと言いなさいよ?」

「うん! ちょっと待ってて!」

 今行きなさいとは言ってないでしょう、志保がそう言う隙もなく可奈は部屋を出て階段を駆け下りた。下から「おやつありがとうございます! お礼に歌のぷれぜんと~!」と十秒間ほど工事現場に匹敵する大音量が響いた後、音の源は再びどたどたと階段を駆け上がってきた。

「言ってきた!」

「でしょうね」

 可奈は素早くこたつに足を滑り込ませた。杏奈は既に器の一つを手元に引き寄せ、餅を十センチほど伸ばしている。

「……いつもより、いいお餅使ってる……気がする……」

「もうちょっと純粋に味わいなさいよ……」

「んぐっ!? んぐ、ん、んんー!」

「……可奈が、お餅を……詰まらせた……」

「あぁ、大丈夫よ。ふんっ」

「ごはぁっ!」

 彼女たちはお汁粉を食べ終わった後、食休みのために杏奈が持っているゲームをした。その対戦型ゲームにおける杏奈の強さはまさしく熟練されたもので、可奈と志保の二人がかりでも勝てなかった。

 最終的には、杏奈を羽交い締めにすることで勝利を手にすることは出来たが、当然機嫌をこれ以上なく損ねた。二人は機嫌を取り戻してもらうために他のゲームをした。杏奈の家はゲームの宝庫であり、あらゆるジャンルのものが揃っていた。彼女たちは大いに楽しんだ。

 結果、宿題はついぞ終わることはなかった。

     ◆

「現在、電車十分遅れとなっており……」

 降雪の影響を受けて遅延する電車状況を知らせるアナウンス。月明かりと頼りない光を発する蛍光灯の下、電車を待つ人々は手元の端末から発せられる光を空虚な瞳に映す。人々の中に、灰色のトレンチコートを着た少女の姿もあった。

 志保はイヤホンを装着し、ポケットに手を突っ込んで、雪の後とは思えないほどに澄んだ空を見上げていた。砂粒のような星の中心に浮かぶ小さな満月。またの名を望月。クレーターが餅をつく月の兎の影を浮かび上がらせる。

(……餅をつく兎……餅つき……もちづき……)

 ぼんやりとした頭でそこまで考え、脳みそが可奈レベルまで低下していることに気付き、志保は小さく頭を振って思考を振り捨てる。少し二人の陽気に当てられすぎた、そう自分を戒める。可奈は普段通りだが、杏奈はゲーム中に何故かONモードになっていた。ONとOFFの境目が薄まりつつあるのは感じていたが、「かかったね志保! 杏奈の罠はそこなんだよ!」といきなり覚醒するとは思っていなかったのだ。可奈は背中をこたつにぶつける程に驚いていた。

 PiPi。イヤホンから音楽とは違う音が鳴る。志保はスマートフォンを取り出す。メッセージアプリに可奈から画像が送られている。志保は眉根を寄せた。

(これ、私たちのグループじゃないんだけど)

 心の中で呟く。可奈が送った画像は大体予想がついているが、もしそれが正しいのなら、あまり大勢に公開しないでほしい写真だ。果たして志保の予想は的中した。

『鏡餅杏奈ちゃん撮った!』

 765プロライブ劇場に所属するアイドルと事務員たちが入っているグループに、志保たちが頭を三段に重ねて撮った写真が投稿されていた。このグループに入っている全員、つまり五十人以上がこれを目にするのに、そう時間はかからないだろう。明日劇場に着いた際に受けそうな言葉を想像して頭を痛めながら、志保はしばらくその写真を眺めた。

 構内に放送が流れ、少しして電車が到着する。志保は画像の保存ボタンをタップしてからディスプレイを消灯すると、ポケットにスマートフォンをしまって電車に乗った。

 志保はドアの端に立ち、月を見上げた。ちょうどその時、雪道に足を取られて尻餅をついていた可奈と、窓を開けて風に当たっていた杏奈も、月を見上げていた。

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