劣等感について

これはすごく大きな問題だ。すごくすごく肥大化してる。劣等感は、アイデンティティになってしまっていると思う。悲しいけれど。自分を他者と比べないと自己認識はできないと思う。鏡で客観的に自分を見つめるように、誰かが自分を見つめていることを知らないと存在は曖昧なままだ。これやっても曖昧だとは思うけどね。だから「誰かと自分は比べないようにね」ってのは程度の話というか、多分全く別の問題だ。

自らを優れたものだと思わないで生きている人間はいない。

これは断言出来る。絶対にみんなどこか心の奥で自分を愛している。これは絶対。絶対にそう。私は違うって思う人は気付いてない。そこに気付かなくても生きられる。まだいいとこにいるってことだ。それは絶対なんだ。


攻撃的な文章になる。これが最後の足場のように思っているからだ。幼い頃から劣等感があった。周りに馴染めないような、何か明確な線を引かれているような、壁があるような、自分は別の世界に生まれたんじゃないかと、そう思うことが多い。だから特別だって思い込んで生きてきた。感性が鈍い人間ばかりで、平気な顔して生きてる奴らばかりだと思った。遠慮も知らない。誰もがそう。馬鹿に囲まれてると思ってた。

ただそういう奴らは器用だった。俺が生きていることなんか帳消しにするように生きていた。器用に作って積み重ねてた。嫌なことがあれば上手く避けたり、抜いたり、そうやってた。そういう奴らも嘆いた。俺みたいに。人前で苦しいこと辛いことを嘆いた。別の生き物のくせに俺と同じことをするなと思った。ただそれに関しては負ける気がしなかった。嘆くことは負ける気がしなかった。こいつらがどんなに嘆いても俺の苦しみが1番強いと思ってた。そこがいつしか自分の姿になってた。1番の構成要素。水のような、自分を構成する1番の。

好き勝手言われ放題は嫌だった。言った奴は忘れて美化してそのことに気づきもしない。

嫌だった。嫌だけど、言えなかった。全部受け入れて笑った。場を丸く収めた。心のうちは煮えたぎっているくせに、笑って友達のフリをした。怒ることはたまにしか出来なかった。すれば手足が震えた。そういう時は気持ちが身体の大きさを超えていると思った。取り返しがつかなくなるのは嫌だった。本音を言うとみんなが嫌いだった。世界が憎かった。誰とも上手くやりたくなかった。

劣等感は自意識を肥大化させた。

肥大化していることに気付けなかった。まだ大丈夫と言い聞かせた。まだ大丈夫。でもそれは嘘じゃない。まだ大丈夫。生きているから大丈夫。身体が止まらない限りは、どんなに無理だと思っても大丈夫なんだと。本当は誰にも触って欲しくないほど、自分の心が大切で、綺麗なものだと思ってる。