起業家に会いに、上海に行く

連載『ドタバタ中国ビジネス修行記』 第2話
中国語力皆無にもかかわらず中国に移住し、販売子会社設立に参画。有象無象の中国ビジネスの現場で、無理難題に体当たりしていく様を伝える中国ビジネスドタバタ修行日記 第1話はこちら

こちらは2015年に書いた記事の再掲です。

原田 甲子郎:国内大手金融機関の投資銀行本部にて資金調達業務に従事するも4年で退職し、中国に移住。日系家電メーカーの中国販売会社設立に参画し、現地トップとして経営を統括。子供が生まれたことをきっかけに日本に帰国し、日本とマレーシアを拠点にマーケティング、グローバル人材の人材採用・教育の起業を経て、現在ピースマインド株式会社取締役。香川県生まれ、湘南育ち。大学で知り合った中国人の妻と2人の子供の4人家族。

「上海で会いましょう」

2回のメールのやりとりで、上海に会いに行くことに決めた。
言葉には出来ないが、なにか起こるんじゃないかと思っていた。

飛行機は、1時間ほど遅れて上海虹橋空港に着陸した(中国国内便のフライトスケジュールはあくまでも「目安」であることは、その後の出張を通して思い知らされることになる)。

社長との面会予定時刻はとうに過ぎている。広州の空港から遅れますという連絡はしていた。中国国内で使える携帯電話などは持っていない。唯一の連絡手段は、一緒に旅行している妻の白黒画面の携帯電話1台。

空港からタクシーで待ち合わせ場所に向かう。社長から電話で教えてもらった道の名前を伝える(上海でタクシー運転手に目的地を伝えるときは、交差する道の名前を伝える。地図を見せても、地図が読めない運転手が多い)。タクシーの運転手は中国語(正確には普通語。英語ではマンダリン、日本語では北京語と呼ばれる言語)しかわからない。妻が道の名前を伝えるものの、タクシーの運転手は理解しない。妻は広州出身の中国人だが、上海は初訪問である。どうしようもないので、携帯電話で社長に電話する。

これは日本ではありえないシチュエーションではないだろうか。待ち合わせ場所がわからないので、相手(しかも社長)に電話して場所を聞く。当時勤務していた投資銀行でそんなことをしたら、上司にボロクソに怒られたことは間違いない。「客は、観光案内所じゃねーんだ!」とでも言われるのだろうか。

社長と妻、妻と運転手の伝言ゲームが始まるが、伝わっていない。業を煮やしたのか、電話をタクシー運転手に渡し、社長が直接話す。社長は中国語がペラペラのようだった。

タクシーが止まった。目的に着いたらしい。暗い。時間は夜8時を過ぎている。上海は街灯が少なく、全体に薄暗い。雨がパラパラ降っている。タクシーから降りると、そこは深い水たまりだった。靴がずぶ濡れである。タクシーのトランクから、スーツケースを取り出す。

「原田さんですか?」

声がする方向を見ると、「週刊東洋経済」の記事で見た顔の男性が立っている。アポを取った社長だった。1時間半以上の遅刻、タクシー運転手とのやりとり、びしょぬれの靴などでぼくは完全に狼狽していた。ハンドバックを地面に落としてしまった。

「大丈夫ですか?」

社長が、声をかける。全然大丈夫ではなかった。
舗装されているのかよくわからないボコボコの道を、スーツケースをゴロゴロしながら、社長の後ろを追いかける。

地下のバーだった。席につくと、もう一人いた。カタログ通販の社長だという。

聞きたいことはいろいろあったが、うまく話せなかった。仕事上、社外の人と話すという行為をしてこなかったためか、このような状況で話すことが苦手だった。

当時働いていた投資銀行では、資料を作り、営業にいく。しかし客先で話すのは上司である。社内の会議にも出席するが、話を聞き、メモを取るだけで、発言することはない。ビジネスの場で、自分がリードして話すという機会はほぼなかった(営業が出来ない創業社長なんぞ聞いたことがない。この人と話せないという欠点をなんとかしたいという思いは、その後の中国でのキャリアを考える上でのポイントになった)。

彼は切り出した。
「100億円規模のビジネスを仕掛けています。上海にも、日本から起業家が大勢来ているけど、多くは一桁億円のビジネスで、デカイことをしている人は少ない。ぼくらは、起業するときから、外部から資本を集めて、大きくビジネスすることが前提でスタートしました」

ワクワクする話だった。思い起こしてみれば、起業家が書いた本や記事を読むことはあっても、面と向かって直接話を聞くのは初めてだった。前職での業務内容、起業に至った背景や、中国でのビジネスモデルなどいろいろ話を聞いた。テンションは上がりっぱなしだった。

「いま、北京大学のExecutive MBA(仕事経験が豊かな忙しいエグゼクティブが現職を離れることなくMBAを受講できるプログラム)に通っています。定期的に上海から北京に飛び、授業を受けています。クラスメイトに大物が多くて、そこで得られるネットワークは強力です」

似たような話を大学3年生の時にインターンしていた外資系銀行でシンガポール人に言われたことを思い出す。「将来MBAを考えているのか? 受験候補には、アメリカのMBAに加えて、シンガポールや中国、香港のMBAも候補に入れておくといい。これからはアジアの時代だ。隣の机で勉強しているクラスメイトがアジアを代表する会社の社長である可能性も多いにある」

ビジネスは人が全て。だが、中国ではビジネスだけでなく、生活もひっくるめて、すべてが人次第。だれを知っているか、がその人の価値に繋がることを肌感覚で覚えるのは、もっと先の話。

「中国で起業することに興味があるのであれば、オススメの本があります。『西木 正明著の、其の逝く処を知らず』です。アヘン売買によって旧日本軍の財政を支えた男の人生を描いた一冊です。主人公は本の中でこう言います。

”支那(中国)の大地は男一匹の人生をかけるに足る所だ”

中国はデカイです。中国はこれからです。急成長しているこの国には、チャンスがたくさん転がっています。ぼくはこの国で人生をかけて闘っていこうと思っています」

テンションはマックスだった。自分が目指すロールモデルが目の前に座っている。ワクワクしないわけがなかった。こういうワクワクする人と一緒に仕事がしたいと思った。

「上海、来ればいいじゃないですか。おもしろいですよ」

決め手だった。そうだ、上海に行けばいいじゃないか。この一言がぼくの人生の大きな転機となった。社長の会社で、採用募集しているかどうか聞いてみた。しかし、中国が話せず、業界経験もない人間の採用は無理だという。予想していたことだったので、そんなことはどうでもよかった。アツい人が集まる街に住みたかった。楽しくて、ワクワク、興奮するような日々を過ごしたかった。

2時間ほど話したあと、社長と握手をして、バーを後にした。がっちりとした強い握手だった。

日本に帰国した2週間後、辞表を提出した。
辞めた何をするかも、まったく考えていなかった。決まっていたことはただひとつ。

「とにかく上海に行く」

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