なぜ大手金融機関を辞め、中国に移住したのか

連載『ドタバタ中国ビジネス修行記』 第1話
中国語力皆無にもかかわらず中国に移住し、販売子会社設立に参画。有象無象の中国ビジネスの現場で、無理難題に体当たりしていく様を伝える中国ビジネスドタバタ修行日記 第2話はこちら

こちらは2015年に書いた記事の再掲です。

原田 甲子郎:国内大手金融機関の投資銀行本部にて資金調達業務に従事するも4年で退職し、中国に移住。日系家電メーカーの中国販売会社設立に参画し、現地トップとして経営を統括。子供が生まれたことをきっかけに日本に帰国し、日本とマレーシアを拠点にマーケティング、グローバル人材の人材採用・教育の起業を経て、現在ピースマインド株式会社取締役。香川県生まれ、湘南育ち。大学で知り合った中国人の妻と2人の子供の4人家族。

起業したいと思っていたのに、毎日やっていることは、起業とは程遠かった

大学卒業後に入社した投資銀行では、「これでいいのだろうか。こんなもんなのか。なんか違う」という思いを抱きながら仕事してきた。起業したいという思いは高校時代からあったものの、日々の業務の延長線に起業は見えてきそうにはなかった。職場には起業しようとする人はもちろんのこと、転職しようとする人もいなかった。

不動産投資銀行本部とデットファイナンス部という2つの部署で働いた。「人生のドライブの仕方」や「はたらきかた」について多くの気付きがあった。

自分の人生が自分でコントロールできないことを知る〜不動産投資銀行本部時代

入社してすぐに不動産投資銀行本部に配属になった。担当していたのは、プライベートリアルエステートファンドのアレンジメント。日本語では不動産私募ファンドの組成アレンジである。名前だけは立派だが、内容は野菜のセット販売商品をつくるのと大きな違いはない。

トマトが一般消費者の食卓に届くまでに、農家、JA、運送業者、スーパーなど、たくさんの人が関係しているのと同様に、不動産のセット商品をつくるときもたくさんの人が’関係してくる。投資銀行の仕事は関係者との間に入り、合意形成を図りながら商品を作っていくお手伝いだ。

入社した翌年、リーマン・ショックが起こった。お金を貸してくれる銀行が市場からいなくなった。その後、不動産を持っている会社が倒産した。仕事はなくなった。部長に呼ばれた。

「原田、異動な」

おお、これが噂に聞いていた、人事異動というものなのか!っとドキドキした。
異動する先は、デットファイナンス部だという。何をしている部署なのか全くわからない。

部署名も、Deadではなく、Debtであることが分かるのにある程度の時間を要したのは、いまだから言える話である。

自分の人生が、自分でコントロール出来ないものだと思ったのは、これが初めてではない。入社時にも似たような経験をした。
僕はM&Aアドバイザリー部志望だった。入社時に人事部の人に「原田、配属先は不動産投資銀行本部だ」と言われたときも、なんのことかわからなかった。
人事部や上司などに、言われるがままになるのが、サラリーマン人生というものなのだろうか。自分の人生は、自分でデザインしたい。現在の会社の創業につながる考えは、今思うとこのころ芽生えたのかもしれない。

デットファイナンス部

異動先のデットファイナンス部の仕事は、会社が市場からお金を借りるのをお手伝いすることである。ぼくがお手伝いしたお客さんは、国際機関や独立行政法人などの政府系金融機関。いわゆるお役人さんである。

「直近の財投機関債や電力債の起債状況を鑑みると、ご発行体様におかれましては、次回債スプレッドのレンジは◯☓△」

隣に座る上司の電話を聞いて、とんでもない部署に来てしまったものだ、と思った。話している内容が1ミリも理解できない。

デットファイナンス部は、引受額(お客さんが市場から借りたお金の金額)で毎年日本トップを争う部署であり、担当の財投機関債部門はしばらく日本でトップを走っていた。「日本一」という響きはいいが、それはプレッシャーでもあった。

組織の末端であった僕には上司がいた。その上司の上には、上司がいる。そのまた上司の上には、上司がいる、とこれが続く。いずれの上司も上にはいい顔をしたい。いい顔をするためには、仕事で結果を出す必要がある。結果を出すためには、働く必要がある。「日本で一番」の結果を残し続けた人は、当然だが働く。自らも働くが、部下を働かせることにも精を出す。

働いた。とにかく働いた。労働時間が長かった。寝不足、運動不足、栄養不足と不足三銃士で、つらいことばかりだった(だったように、うっすらと覚えている。つらいことや嫌なことははさっぱり忘れてしまう単細胞な性格がポジティブな影響を与えていることは間違いない)。

ときは、リーマン・ショック後。ニュースではリストラや部署閉鎖など暗いニュースばかりだった。当然そんな時には、採用活動も冷え込む。結果として僕の部署に新人が来ることはなかった。ずっと、末端だった。

資料を作るときに、ご発行体様と書くところを、何度か「ご発光体様」と書いてしまった。「ご発行体様」とは、発行体の丁寧語。発行体とは、お金を借りたい人のことを指す。

「客はホタルじゃねーんだよ!」

と上司に怒られたのかどうかについてはもう覚えていない。このホタル発言の上司がユーモアのセンスがあったのかどうかはわからないが、確実にワーカホリックの特質を持っていた。「24時間働けますか?」というCMの問いに、「私は72時間働けます」と笑顔で答えそうな人だった。

上司は「平日に予定は入れるな」という指示を飛ばす。30代後半、独身(彼女がいたのかは知らない。そういう話を一切したことがなかった)の彼自身も、平日に予定は入れていなかった。朝から晩まで肩を並べて仕事をした。彼が取る電話は全部聞き(受話器を取れば、他の電話ラインも聞ける設定になっている)、作成した資料には赤ペンチェックが入った。内容はもちろんのこと、句読点、フォント、サイズ、グラフ、罫線など、少しでも完璧でないと、全部差し返された。

「こんな小さいことどうでもいいじゃないか」と思ったことは数えきれない。当時はネガティブな感情しかなかったが、会社を辞めて、2社目の会社で部下を持って初めて分かった。

すべてこのときの上司と同じことを部下に指示している自分がいた。成果物に目を通すことも、文章を修正することも手間がかかり、さらには部下を叱るということは手間もかかれば、精神的にも疲れるコトであるということがわかるようになるまでさほど時間はかからなかった。

今のぼくがあるのは、当時朝から夜中まで毎日マンツーマンで”ご指導”をいただいたこの「モーレツ上司」のおかげである。成長出来るブラック企業は、最強のホワイト企業であると思うのは、この時の体験がベースにあるからだ。

同世代ですでに世界で活躍している山口絵理子氏の本を読んで火がついた

社会人生活4年目の初夏のある日、昼食のお弁当を食べながら、ビジネス雑誌でバングラディッシュでバッグ製造販売会社を起ち上げたマザーハウスの山口絵理子さんのインタビュー記事を読んだ。

「80年生まれの同世代の日本人がバングラディッシュで起業している。なのに、おれはここで何をやっているんだろう」

そう思うと、なぜか涙が出てきた。その日は快晴で、皇居を見下ろす高層階の丸の内のオフィスから新宿の高層ビルがきれいに見えた。この瞬間、何かのスイッチが入った。でも、すぐに何か行動を起こしたわけではない。

窓際で1人ビジネス雑誌を読みながら、妻が作ってくれたお弁当を食べ終わりデスクに戻ると、「客はホタルじゃねーんだよ!」「あの資料は出来たのか!?」と、いつもと同じ日が流れていった。

なんとかしなくてはいけない。このままじゃいけない。でも、何もアクションが起こせない。やるせない思いを抱えながらも、何も考えなくても毎日が過ぎていき、毎月決まった日に給料が入ってくる。生きているというより、生かされているという感覚が強かった。焦っていた。

東洋経済に掲載されていた、中国でテレビ通販会社を起業した日本人起業家のインタビュー記事を読んで、アクションを起こす

カチッとスイッチが入った(ような)あの日から3ヶ月、いつもの昼と同じように、窓際で妻がつくってくれた弁当を食べながらビジネス雑誌「週刊東洋経済」を読んでいた。雑誌のタイトルは「あなたは世界で戦えますか?」。

中国で通販会社を起ち上げた日本人経営者のインタビュー記事を読んだ。
「すごい! こんな人もいるのか! ぜひ会ってみたい」
会社名と経営者の名前を携帯電話にメモをする。会社のパソコンで調べようと一瞬思ったが、社員のインターネット閲覧状況はIT部門が随時確認しているし、隣に座る上司にパソコンのディスプレイを見られたら何を言われるかわからない。家に帰ってみることにした。

日付が変わり、上司が机を立ったのを横目で確認したあと、オフィスを出る。帰宅後、通販会社のウェブサイトを開いてみた。当然だが、そこに経営者の連絡先などが掲載されているはずがない。しょうがないので、お客様お問い合わせフォームから社長にコンタクトすることにした。

東京で働いている26才の社会人であるという自己紹介に加え、東洋経済のインタビュー記事を読んで感銘を受けたこと、採用の有無、今度会って話したいという旨を書いた。

慢性的寝不足と疲労で意識朦朧とするなか、エイヤっと送ったようなメールだった。時間は午前3時だった。

数百人体制の会社にお客様問い合わせフォームからメールを送ったところで、社長に届くはずがない。返信は期待していなかった。

翌朝9時。社長からメールが来た。

「上海で会いましょう」

2週間後、ぼくは経営者の方に会うために上海に向かった。初めての上海だった。

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