救いようのないバカな男

世間は彼のような人間を「救いようのないバカ」と呼ぶ。

皆さんの周りにもいるのではないかと思います。たぶん・・・・・・。
自信ないけど。



仕事が終わった。
帰りの電車のなか、彼は最近買ったばかりのBOSEのノイズキャンセリングヘッドフォンでクラシック音楽を聞きながら、Kindleで金融小説を読んでいた。

45分ぐらい電車に揺られた後、駅についた。
雨が降っている。
しかも、かなりの大雨である。

会社を出たときは降っていなかった。
傘は持っていない。

朝は、駅まで自転車で来た。
土砂降りのなか、自転車で帰るのもアリだが、彼の気分はまだ小説の世界にトリップしている。
そんなテンションでもない。

しょうがない。タクシーで帰ろう。
幸いタクシー乗り場は混んでいない。

そのとき、彼に天からの声が聞こえた。

「いつもとは違う、ちょっと”異常”な行動が明日を創る」

数年前から彼がフォローしているシンガポール在住の投資家の言葉である。

そうだ。違うことをしてみよう。
普段乗らないバスの時刻表を調べてみた。次のバスは25分後。

ふむ。
土砂降りの中、25分間バス停で待つのも、またつらい。

どうしようかと考えてあぐねているなか、そこだけスポットライトをあびたように、キラキラとした看板が目に飛び込んできた。

「大衆酒場」

駅前に最近オープンした小さなお店だ。
彼はその看板をいつも見ているものの、一度もその店に入ったことがなかった。

そうだ。そうなのだ。
いつもとは違う行動が明日のオレを創るんだ。
彼は投資家の言葉をつぶやいた。

そして、ラリー・ペイジやマーク・ザッカーバーグもびっくりするアルゴリズムをはじき出した。

「タクシーで帰った場合は1000円。バスの場合は210円。差額は790円だ。25分間待って、バスで帰れば、790円も安くなるのか。ってことは、バスなら790円使ってもタクシーに乗るのと同じことなんだな!」

大衆酒場でさくっと一杯飲んで、25分後のバスに乗って帰る。なんていいアイディアだ。それに大衆酒場とは、大衆中の大衆であるオレのためにあるのだ。

今日のオレは冴えている。
彼は思った。

彼は、意気揚々と大衆酒場ののれんをくぐった。
席に座り、テンション高く注文する。

「おねえさん、日本酒ください!」

40年前には、おねえさんと呼ばれていたであろう、おばさんがコップになみなみと、というか実際に溢れるほど日本酒を注いでくれる。

その日本酒650円。

日本酒が運ばれてまもなく、別のおばさんが来た。

「お通しでーす」

むむん?
彼は焦った。

そもそも、タクシーとバスの差額は790円。日本酒を頼んだ時点で、140円しかバッファはない。

メニューを見ると「席料として300円頂戴します」と書いてある。
彼の中で何かが吹っ切れた。

「おねぇさんすいませーん。モツ煮くださ〜い」

おっとと。
彼は、ひとりで笑みを浮かべながら、表面張力で浮いた日本酒をズズーッとすすりながら、モツ煮を味わう。

そうだ、思い出せ。
いつもとは違う、ちょっと”異常”な行動が明日を創るんだ。いつもは注文しないものを頼んでみようじゃないか。

「おねぇさんすいませーん。枝豆くださーい」

枝豆なんぞ、冷凍枝豆を解凍すれば、すぐ食べられる。なんでこんなものをわざわざお店で頼む人がいるのだろうか、といつも彼は思っていた。

おお、これがお店で食べる枝豆か。
なんだか美味しいぞ。

追加注文した二杯目の日本酒も楽しんだあと、お会計をする。

伝票を見なくても、足し算ができる人なら誰でもわかる。タクシー代よりも明らかに高いことが。

彼は店を出た。
雨はさっきより強くなっている。

25分間はとうに過ぎている。
さて、次のバスは。

もうなかった。
彼が住む田舎のバスは最終バスが早かった。

仲が良さそうなビジネスマングループが、お疲れ様と互いに声を掛け合いながら、タクシーに乗り込んでいく。
彼らに続き、次のタクシーに乗る。

なみなみと注がれた二杯の日本酒で気分の良くなった彼は、いつもよりもボリュームのある声で運転手さんに行き先を告げる。

タクシーを降りるときにお金を払いながら彼は思った。

「あれ? なんかおかしくね?」


家に着いた彼は気を取り直して、冷蔵庫から缶ビールを取り、冷凍庫に入っている枝豆を解凍する。

家で食べる枝豆は、大衆酒場のそれとなんら違いはない味だった。


「いつもとは違う、ちょっと”異常”な行動が明日を創る」

あれは、一体どういう意味なのでしょうか?

シンガポールに住む投資家に聞いてみたい。
その際は、「救いようのないバカ」でも理解できるように解説をお願いしたい。

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