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  幸せな「凱旋」 癌で逝った弟

 此処は埋め立て地なのだろうか。
 港湾をつなぐ水路に囲まれたベイエリアの一角に病院はあった。

 病棟の二重扉を入ると、まっすぐ伸びた通路の両脇に病室が並び、その突き当たりはニ方向ガラス張りの休息室になっていた。
 入り口脇にある来訪者の受付カウンターで手続きを済ませると、一区切りつけたくて明るい窓側の席に腰を下ろした。

 糸のように撚れた穏やかな運河のような海面を、時折小さな船舶が行き来している。
 波頭を切り裂くこともなく、航跡を泡立てることもなく、まるでこの一角を気遣うように、出船が静かに外洋へと向かってゆく。

 自販機で買った烏龍茶をひと口飲み、浅くなった胸の呼気を整える為に大きく息を吸って吐いた。
 直ぐそこに、認めたくない、どうしようも無い現実が迫っている。哀しみや苦しみより、もっともっと切実なもの——。

 休息室に来るまで通って来た通路の右側に、教えられた部屋番号を確認した。
 そのドアの横に掛けられていたのは紛れも無い弟の名札だった。

 弟が、終末期医療で入院しているという連絡が入ったのは今から十八年前の五月の中頃だった。入院して既に七ヶ月が経過していると言う。
 治癒する筈だった前立腺がんが骨転移を起こし、もはや手遅れとなって身体機能を奪われてしまったのだった。
そもそも、前立腺がんを患っていた事さえ知らなかったのだから、緩和病棟に入院してる事など寝耳に水の話だった。
 何故、もっと早く知らせてくれなかったのか、姉として無念に思った。しかし混乱の最中、人を責めて何になるだろう。
 生来がストイックだった弟の意志でもあったのだろうと思う外なかった。

 当時、弟はデザイナーとして個人事務所を立ち上げていた。
 個人経営のデザイン事務所が次々倒産していく中、丁寧な仕事とセンスが買われ、事務所の経営は順調に伸びていたはずだった。
 動けない体をベットに横たえ、何を思い、宣告された命の限りを生きているのだろう。

 私は何かに憑かれたように椅子から立ち上がり、休息室を出て今来た通路を引き返した。
 弟の名札が掛けられた病室のドアを思い切って開けて中に入ると、上背のある大柄な看護師が体位交換の最中だった。
  
 家族とは言えぶしつけに見続けるのを躊躇った私は、挨拶もそこそこに部屋の隅へ移動して、作業を見守った。

 看護師が患者の上体を半回転させ向きを変える。取り残されそうになる2本の下肢を折りたたむ様に移動させる途中、肌けた浴衣の中で、リハビリ用の紙パンツから伸びる骨張った下肢が目に飛び込んだ。太ももという言葉さえ躊躇うほど痩せ細った、こころもとない足…1ミリとて自力で動かすことが出来ない無情な足……。

  

 作業を終えた看護師は「寝心地はどうですか?」と確認後、両方の足先にマッサージを施して退室して行った。
「もう少し、時間掛けてくれたら有難いのにな」
 弟がポツリと呟いた。

 看護の現場では「触れるケア」が積極的に取り上げられていた。とりわけ癌患者にとっては疼痛を取り除き、不安の軽減をもたらす効果があるらしい。
 実際、マッサージ中の弟の表情は穏やかに安らって見えた。

「マッサージ、しようか?」
 と声をかけると
「うん」と明るい響きの即答が返ってきた。

 ぎこちない挨拶で始まった会話をどう繰り出してよいのか迷っていた。
 話の内容を選び、言葉を選びながら会話が続くうちは良いけれど、いったん話が途切れたら、無音の広がりと共にきっと罪障感が押し寄せてくるに違いない。
——良かった——
 俯いて足をマッサージしながら、ぽつりぽつり、会話が出来る……。

 もはや履き物を必要としない足——青い静脈が薄らとも浮き出ない柔らかい足先を私は一生懸命さすり続けた。

 夕刻——一面ガラス張りのベランダに引かれた淡黄色のカーテンが淡い朱鷺(とき)色に染まり始めた。
 弟は今、何回かの体位交換でベランダ側に向いて横臥している。
「カーテン開けてみる?」
 一日中閉め切ったままのカーテンが気になって声をかけてみたが「開けないで」と言う答えが返ってきた。
 開ける開けないの問題ではなく、必要が無いという強い意思表示の様だった。

 彼の中で、外界への感受性はもうとっくに失われているのだろう。
   ——外の景色でも眺めたらいいのに——と気を利かせたつもりが、病者の心の内に寄り添えない言葉かけをしてしまったのだ。

「明日また来るね」
 ベット周りを整理した後別れを告げ、嫁と入れ替わるようにして妹のマンションへ引き上げた。

 翌日、再訪した病棟の入り口で姪っ子とその子供に出会った。弟の娘と孫である。

「来たばかりなんだけど…外で遊ばせてくれって言うから」
 姪っ子は仕方がないと言う表情で走り出しそうな子供を引き寄せた。
「あのね、じいじうるさいって」小さな口元を尖らせて三歳になる女の子は不満げに告げる。
「いつもなの?」と聞くと、姪っ子は答えにくそうに
「うーん、そうだね。綺羅ちゃんはあまり歓迎されてないみたい。じっとして居ないし声はうるさいし…」
 5月だと言うのに汗ばむくらいの陽気の中を、二人は芝生の広場の方へ歩いて行った。

 ごめんね…今日は特に体調が悪いのかもしれない。病気じゃなければ優しいじいじなのだから……許してあげてね。
 心の中で謝って足早に病室へ向かった。

「おはよー」
 できるだけ明るい声でドアを開けた。しかしこちらに背中を向けたまま返事がない。
 慌ててベットサイドに駆け寄って覗き込むと、弟は一点を見つめたまま上体を硬直させていた。はげしい疼痛が襲っているに違いなかった。固く握った拳が小刻みにぶるぶる震えている。
 ——何でこの子がこんな目に——
 がんの宣告を呪いながら、なす術もなく自らも身を硬くして、壮絶な痛みに耐える姿を見続け無ければならなかった。

「胸のパッチ(貼り薬)は効かないみたい。でも、モルヒネを飲むの拒否してる」
 昨夜、夕食を共にしながら妹が言った言葉を思い出した。
 弟は適切な治療を拒んでいるのだった。もう末期だと言うのに。強烈な痛みが襲っているはず………。

 どの位の時間が経過しただろうか——激痛に縛られていたあらゆる表情がほっと緩み、穏やかな様子を取り戻していった。
 医療者はこの様子を目にしない筈はない。患者が拒否しようと誤った認識を正すために根気よく説得を続け、適切な治療に導くのが「緩和ケア」の本命ではないのか。
 入院費が湯水の様に出ていく——嫁からも、本人からも聞いた。
 その状態がもう七ヶ月も続いている中、本人の意志であろうとこの治療の実態は何なのか。

 ——私が弟を説得しよう!——
 決して僭越とは思わない。肉親にしかできないアプローチもある筈……。

 折りたたみ椅子をベットサイドに据えて腰を下ろした。
 何?という目が私を見上げた。抗がん剤で一度抜け落ちた髪の毛が刈り込んだ様に生え揃っている。
 弟が中学生になった時、校則で丸坊主に刈り込まなければならなかった。よほど嫌だったのだろう。しばらくの間、家の中でも制帽を被って過ごし食卓でも取らなかった。  
 みんなでからかって笑ったその時の事がふつと蘇って、屈託なく幸せに過ごした子供の頃の思い出が、後から後から押し寄せてきた。

「あのね…」と声をかける。
 避けて通ってきた「切実なこと」について、何としても対話をしなければと思った。

 弟は激しい痛みに耐えながら、死を考え、与えられた命数を数えつつ一人孤独を囲ってきたのだろう。彼にとって激しい苦痛より孤独こそが耐え難いものであったに違いない。
 家族とのコミニケーションを切望し、その為に正常な精神を保っていたいという思いこそがモルヒネの投与を拒んでいる理由に違いない。
 そうであるなら、激しい疼痛の為に家族を遠ざけるのは矛盾してはいないだろうか。
 残された時を惜しむのであれば、家族と共に穏やかな日々を過ごせるように、適切な治療を受けるべきではないか。

 心に思った事を丁寧にひとつひとつ問いかけた。

 長い沈黙の末、弟は節目がちに聞いていた瞼を上げ
「カーテンを開けてくれる?」と言った。
 混沌とした意識から目覚めた様な一瞬だった。

 急いで立ち上がり半分ほどカーテンを開けた。
 運河の様な水路の対岸に低層の建物や倉庫が立ち並び、その背景に新緑に包まれた小高い丘が連なっているのが見える。
 丘の向こうは、弟の家がある方角だった。
 持続する痛みの中で多くを語らなかったが、その方角に思いを馳せながら自宅で療養していた頃の様子を話してくれた。その間私はずっと聞き役でいた。

 弟を見舞って四か月程後のある週末に訃報が届いた。
 妹も含め弟の家族全員が病床を取り囲み、賑やかに会話がはずんでいる最中、まさに孫の可愛いおしゃべりが笑いを誘ってどっと笑いさざめくなか、ふっとこときれたのだという。
 私だけが臨終の場に居合わせなかった。しかし「幸せな凱旋」への導き手となれたことを心から嬉しく思った。
 カーテンを開いたあの日を境に積極的な緩和ケアが行われたのだった。

 葬儀場のロビーにパネルに加工した弟の作品がイーゼルにかざして並べられた。 
 芸術家としての弟を心から応援し支えて来た嫁の計らいであった。
 嫁は展示会場の様にごった返す弔問者の間を縫いながら
「お気に入りのパネルがあったら差し上げます」と声をかけていた。
 私は慌てて嫁に駆け寄り、形見の代わりにこれを頂きたいと誰より先に二枚のパネルを指定した。
 あるメーカーから注文を受け、クラフトで制作したカレンダーの元版をパネルにした作品で、五月と十二月の季節感溢れるデザインだった。 
 とりわけ五月のデザインは、花車と百花繚乱の色彩鮮やかな生命感あふれる作品で、その絵の中に弟の命が宿っている様な気がしてならないのだ。
 

 ☆                 ☆                ☆

 世界保健機関(WHO)は「緩和ケア」とは生命を脅かす疾患による問題に直面している患者とその家族に対して、痛みやその身体的問題、スピリチュアルな問題を早期に発見し、的確なと対処(治療・処置)を行う事によって苦しみを予防し和らげることで、クオリティ・オブライフを改善するアプローチであると提言しています。




  




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