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物語り 愛と涙と星のきらめき 7

 梨花が滝沢医師から託された手紙を母は長い間手の中に握りしめていた。
 看護学校に在学中、実習に入った施設の様子を思い出したのか不安を滲ませ、暫く不動のまま…。

 ——この母と離れて暮らした年月がどんなに重く子供たちの上にのしかかっていた事か、やりきれない思いで過ぎた日々を振り返る。

 重厚な無垢材のダイニングテーブルや縦横1・8メートルほどもある大きなカップボードや食器の類い。
 この家にあるどれもこれもがかつての思い出に繋がるかけがえの無いものばかりだ。
 これらを失わずに済んだ兄夫婦の有り余る行為を一生忘れない。二人の愛娘を預かってくれた事も。

 ところが、疎遠になった空白を時が埋めてくれるだろうと思っていた矢先、怪訝に感じていた可奈の変化が病気の兆候だと言う。

 梨花は戸惑いを見せる母の表情に違和感を感じ取った。
 たぶん娘の病を恐れるより世間の風評を恐れている。

 「先生が必要とおっしゃるなら、仕方ない事なのでしょうね」

 ようやく承知した消極的な同意こそが何より母の心中を物語っていた。

 加奈は梨花が付き添ってクリニックに通い、何度かのカウセリングを受けたのち入院にこぎつけたが、そこから先は思いがけない展開が待っていた。

 何より「白百合」という施設の名称が気に入ったこと、かつて虐めと疎隔の対象となって苦しんだ転入生の時「学校」という教育現場は手を差し伸べてくれなかった。
「白百合」というオープンスクールのような雰囲気の中で、少女たちはそれぞれ問題を抱えながらも心を開き、自ら好きな目標を掲げ、自由に、活き活きと動き回っていられる。
 そんな環境下に呼応するように、マスクの下に沈み込んでいた佳奈の愛らしい躍動が少しづつ見え始めているのではないだろうか。

 帰宅に際して施設から報告を兼ねた手紙が届いた。
 簡単な日常の様子と帰宅を何より楽しみにしている事が綴られていてる。
 さらに開業医のメイ先生のことにふれ「メイ先生、大好きよ」を盛んに連発していると微笑ましい追記があった。
「大好きよ」は可奈の信頼の証なのだ。

 報告はメイ先生の元にも届いているはず。一体どんな顔して読んでらっしゃるのだろう……

 そのころ、滝沢医師は日誌に施設からの報告を書き写していた。
 佳奈のカウンセリングにあたって患者の行動や思考に結びつく図解やテストの類は一切用いなかった。
 言葉による問いかけで導き出す感情の表出から、患者の苦悩を明らかにする手法こそが彼女のアプローチの仕方だった。
 精神分析医などと格好をつけても患者自身が「病を乗り越えようとする力」に手を貸すだけなのだ。

 あの娘はきっと良くなる。滝沢医師の確信だった。




「ねえ、お母さん。加奈、随分良くなったと思わない?」

「そうねえ」否定も肯定もせず母は満足げな笑顔を絶やさなかった。

「だって美波とあんなに楽しそうにお喋りしてたもの。考えてもみて、初対面の人間よ」

 滝沢医師は加奈が家族以外の人間と交流が可能になれば、必ず治癒に向かうだろうと言った。
 白百合では二、三人の仲良しも出来たようだし、思い切って美波を家に招待したことも幸いだった。
 可奈の周辺が少しずつにぎわいを取り戻しながら長かった飢えが満たされて行く——
それは同時に梨花の心の再生でもあった。


 母は看護学校の卒業にあたって行われた戴帽式の写真を見せてくれた。
 若いナイチンゲールに混ざって数人の年長らしき顔が、手にしたキャンドルの焔に照らし出されていた。
 何らかの事情で再出発を誓う面々…過去の翳りは微塵もない。
 父の死後,紆余曲折の数年間を乗り切った母の顔も違わず希望に満ち溢れている。

 氷霧に煙る眼路の向こうで、ぼんやりと灰色の影を落としていた父の姿が、母のかざす燭台の炎に微かな色調を帯びて見え始めた、と同時に梨花の目からたくさんの理由(わけ)を含んだ涙が、重みに耐えかねてあとからあとから溢れ落ちる。

 潤む眼差しで戴帽式の写真を見つめているうち、ふわっと将来の確かな兆しが梨花の胸をよぎっていった。

 そう——それは、たぶん、これからの私の人生にとっての大切なエレメント…



「時間が立てばすぐ戻っちゃうのにな~」
  洗面所の鏡を覗きこみ、寝癖のついた縮毛を、ドライヤーでこれでもかと引き伸ばす。

「美波ちゃん,書類だしてきた?」
 廊下を隔てたキッチンから母の声が飛ぶ。

 ドライヤーの騒音で聞こえずらいが、たぶん昨日提出にいこうと思っていた書類のことを言っているのだろう。
 急用ができて未提出だと伝えると「真剣に考えなさいよ」と一言苦言が返った。

 去年の春、中3の私は転入生だった。
 転勤するたび昇格を繰り返す父のサラリーマン人生は洋々としていたが、子供達にとってはいつだって迷惑この上ない番狂わせだった。

 四歳から習い始めたピアノは自ずと専門を目指すようなったが転勤のたび師事する先生が入れ替わる。微妙に異なる方針になんど面食らったことだろう。

 新しいこの土地は帰国子女が多く、ほとんどの生徒が交通機関を利用して大手の学習塾に通っていると言う教育熱心な環境だった。

 私は音大を目指していたから放課後の余暇はもっぱらピアノのレッスンに充てていた。
 今まで学習塾には一度も通ったことがないと打ち明けると
「えーっ,信じられなーい!」の一言で私の存在は一度によそ者になってしまった。
 おまけに修学旅行は二年の三学期のうちに終わっているというのだ。受験に備えるために…。
 それこそ信じられなーい!

 とんでもない激戦区に編入してしまった私は、それまでの方針を変えざるを得なかった。
 レッスン時間を半分に減らし、受験の過去問を片っ端から集めては対策を講じた。
 ピアノを理由に安易なレベルに甘んじたくない…の一心で。

 めでたし、めでたしの結果、男女共学の髙木学園に籍を置く事になった。

 新しく師事したピアノの先生が私の苦労を知って、ある大学の附属機関を紹介してくれた。
 音楽塾のようなもので履修すれば受験の際ソルフェージュが免除され、あとは実技のみの選考となる。
 九月から始まる下半期の講習に早めの申し込みを促されて書類提出を予定していたのだった。

 このごろの朝、通学ラッシュの喧騒を避けて一時間前に家を出る様になった
 目的は国道を横切って続く一本道ををそぞろ歩き、道の両側にゆったりと構える家々やその植栽を楽しむ為だった。
 いつも目を奪われる野趣豊かな植栽に囲まれたバンガロー風の住宅。
 今日はその玄関横に緑葉の大きな幹にからまる凌霄花(のうぜんかずら)をみつけた。

 祖父母の家の庭に花のつかなくなった古木があった。
 凌霄花はその威容を借りて蔓を這わせ、チャカリと咲いていたのを思い出した。   

 祖母がいつも言っていた。大陸(中国)の花は華やかで逞しい。

 あと一、二週間もたてば人目を奪うほどに輝くばかりの緋色の花をつけるだろう。
 きっと梨花みたいに艶やかな……梨花?…そうだ!花が咲いたら誘って見たらどうかしら。
 昨日心が騒いだ一連の出来事を思い出しながら自分にできる小さなことから、ひとつひとつ手を添えてゆこう——気の利いた友人のふりはしたくないから。

           ーつづくー

☆おことわり
 文中、施設名「白百合」と施設の形態はあくまでフィクションです。
 参考文献については終章にてお知らせします。 

 💐いつもお読み下さり有難うございます。これからもどうぞ宜しく。
  見出し画像は hananosuさんの作品をお借りしました。有難うございます。


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