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   しろ長くつ下のピッピ (4) 天使の輪

 ふわり……ふわり……
  
 焼却棟の横に突き出たブリキの煙突から、白い煙の輪が立ち昇った。
 母さんが車の助手席にいる僕を手招いた。
 急いで駆け寄り一緒に空を見上げる。

 リーナの栗色の毛に一番似合うからと、泣きながらいちかが選んで着せたオレンジ色の服が、鉄の扉の向こうに閉ざされた時——胸がいっぱいになった僕は、一人車に戻っていたのだった。

「今、リーナちゃんは天使になってあの煙突から天に昇って行くところです。一つ目の大きな輪がリーナちゃん。その後に続いて出てくる煙の輪は、リーナちゃんを天まで導く天使たちの輪です」

 男の人は咳払いの後、合掌しながら言葉を続けた。

「合掌しましょう。リーナちゃんと過ごした楽しい日々を思い出しながら、どうぞお見送りください」

 母さんは空を見上げたまま両手を合わせる。
 その横で僕も同じ様に手を合わせ空を見上げた。

 白い煙の輪はひとつ、またひとつと浮かび上がり、揺らぎながら、真っ青な空の深みの中に吸い込まれて行く。


               
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 覚束ない足取りで歩く年老いたリーナの前後を、ピッピは戯れるようにくるりと回転しながら飛び跳ねる。
 リーナのドームハウスに潜り込んで一緒に寝たり。冷え込む朝は、二匹揃ってファンヒーターの前に陣取って温風に吹かれたり。
 ピッピが我が家に来てから二か月。最初は迷惑そうな様子をしていたリーナも、若い頃に見せた目の輝きを取り戻していった。


 春の終わり——庭先にマーガレットの白い花が咲き始めた頃。リーナの体力は目に見えて衰え、ドームハウスの中でうずくまっている時間が多くなった。 

「日光浴しないとダメだよ」

 心配した母さんが、明るいサンルームにドームハウスを移動させてから三日めの朝。
 リーナはハウスから体を半分乗り出し、差し込む朝の光の中で前のめりに倒れ込んでいた。

 その傍らで、ピッピは行儀良く揃えた前脚に顎をのせ、静かに伏せていた。


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 あの丸い煙の輪は間違いなくリーナを葬る煙。

 母さんと二人、丸い輪の下にリーナと天使達の姿を想像しながら、空の深みに立ち昇ってゆく煙を見送った。
 そして僕は、またひとり車に戻った。リーナのお骨を拾うことが出来なかった。
 学校が半日で終わるから一緒に行きたいと、ついて来たものの「葬る」と言う現実を直視出来なかったのだ。


「可愛いらしいセレモニーだったね、天使の輪。こんな山奥だから出来るのかも」
 母さんは車のエンジンをかけながら周囲を見渡した。
 県境に広がる深い針葉樹の森。その道路沿いにある古びたペット霊園で、こんな可愛い見送りが出来るなんて思ってもみなかったと母さんは言う。

「家までしっかり持っててね」
 母さんから手渡されたのは小さな骨壷と一つのペンダントだった。

 僕は、恐る恐る、恭しく骨壷を膝の上に抱きかかえながら
「お骨、うめなかったの?」と聞いた。

「うん、半分は観音さまの下の共同墓地に埋葬したの。大勢の仲間と一緒ならリーナも寂しくないでしょ」

「そうかあ。でもこの半分のお骨はどうするの?」

 母さんは質問に答えず、黙って車を発進させた。
 僕は骨壷を落とさないように固く膝の上に抱きかかえた。


 帰宅してドアを開けると玄関マットの上で、ピッピが神妙な顔をして座っていた。

 出かける時——
 ピッピは、マーガレットやカモミールの花をいっぱい敷き詰めた箱の中に眠るリーナの匂いをひとしきり嗅いでいた。それからそろりとした動作で行儀良く座り、僕たちの顔をじっと見上げていた。
 そのまま此処でじっと、ずっと、座っていたのだろうか。ぼくは骨壷とペンダントを母さんに手渡し、思わずピッピを抱き上げた。


「いちか。これは貴方によ」
 学校から帰宅したいちかに、母さんはペンダントを手渡した。 
「十三年間、いちかもリーナも姉妹の様に育って来たものね」

 いちかは受け取ったペンダントを握りしめ、涙をいっぱい溜めながら
「りょう太は涙出ないの?泣かないの?」と責めるような口調で言った

 実際、僕は涙が出なかった。悲しいのに不思議だった。その代わり奥歯をギュと噛みしめていた。
 胸の中は冷たくシーンと静まり返って深い呼吸が出来なかった。

「いちか。どんなに悲しくても涙が出ないこともあるのよ。りょう太の顔色見てごらんなさい。少しましになったけど、まだ青い顔をしてるでしょ」

 いちかは母さんの言葉に、はっと僕を振り返り、洋服の袖で涙を拭きながら
「ごめん」と謝った。

「中間テストが無かったら、わたしも行きたかった」
 中学生になったいちかにとって、初めての定期テストが明日から始まるらしい。

「どんなふうだった?」と聞かれても、僕は「天使の輪」の話しか出来なかった。

「その煙の輪はリーナを葬る煙でしょ?だからリーナの魂は、本当に天に昇っていったという事になるよね。そうだよね?」
 いちかは、また涙ぐんた。

 リーナの骨壷はリビングの飾り棚に置かれた。
 母さんはどうして骨壷を持ち帰ったのか——
 聞きたかった言葉は心の奥で、涙に濡れた紙粘土のように溶けてしまった。


 リーナが死んで一週間——。
 ダンが庭からいなくなった。
 鎖の先端に繋がれた黒い革の首輪を、芝生の上にストンと残したまま——

 ダンの逃走は今回が初めてでは無かった。
 逃走歴は過去三回。ほぼ一日自由を満喫したあと、山茶花の生垣の下をくぐり抜け、毎回何食わぬ顔で庭に戻って来た。
 そもそもの原因は母さんが締め付けるのを嫌がって、首輪を緩めにしていた事にある。知ってか知らずかダンは首輪をすり抜けるタイミングを心得ていたようだった。

「いつもみたいに戻って来るよ」
 いちかは心配ないと言った。
 けれど、一日経っても、二日経っても三日経っても、ダンは帰って来なかった。


 僕はピッピを連れて、いつもの散歩コースだけでなく、あちらこちら日替わりで歩き回った。
 けれど、ダンの姿を見つける事は出来なかった。

 散歩の帰り道、いつも運動公園の砂地に立ち寄った。
 其処でピッピは顎を地面につけ、両手脚を投げ出して腹這いになる。
 気持ちよさそうに、まるで天日干しの魚のようになって、「行こう」と促すまで、一時間でも二時間でもそうやって過ごすのだった。

「仔犬のくせに年寄りくさいよ、ピッピ」
 文句を言いながら、僕は傍らのベンチに腰を下ろす。そして空を見上げてはいつも同じ思いに捉われた。

 年老いたリーナに僕は何をしてあげただろう。
 大きな体のダンは母さんに任せっきりだった。

 二匹は幸せだったのだろうか。


 母さんはよく、「家族は運命共同体」と言う言葉を口にする。

 一人の幸せは、家族皆んなの幸せ。
 一人の不幸は、家族皆んなの不幸せ。

 一緒に暮らすペットも同じよ。
 とりわけ犬や猫は遠い昔から、「伴侶動物」と言って人間の傍で生活を共にして生きて来たの。

 人間の子供は成長していつか自立して行くけれど、ペットは幼い子どものままで、いつまでも人の庇護を受けなければ生きていけない。
 だからペットも「運命共同体」の家族なの。言葉は通じなくても通い合う心を持って接しなさいね。 

 母さんの言葉に想いを巡らした時、僕の頬に初めて涙が伝った。


 出張で家を留守にしていた父さんが、1か月ぶりで帰宅した。
 新しい部署を立ち上げるらしく、今回はいつもより長い出張になったのだ。

 部屋着に着替えた父さんは、腰を重たそうにして居間のソファに深々と体を埋めた。

「ちょっと見ない間に大きくなったな」
 そう言ってちょろちょろ動きまわるピッピを引き寄せ「俺の犬」の頭を撫で回した。

 死んだリーナの話を切り出すと
「母さんから電話で聞いた。もうちょっと長生きすると思ったけどなあ」
 悪がまいしかしなかった父さんも、さすがにしんみりとした口調で言った。

 僕はお土産のカステラを頬張りながら、父さんに「天使の輪」の話をした。

「天使の?煙の輪?」
 僕の説明に反応した父さんは「これか?」と言ってタバコをふかした。
 煙を吐かず口の中いっぱいに含んだまま、膨らんだ頬を指でたたきながら「ぽっ、ぽっ」と口を開く。すると煙の輪が、「天使の輪」が次々とび出して来た。

「あっ、それそれ!」僕は目を丸くして眺める。
 もちろん、あの演出には仕掛けがあると思っていた。これなんだ——

「知ってたよ、わたし。りょう太は覚えてないかな。小さい頃そうやってよく見せてくれたでしょ。でもさあ——せっかくの夢ぶち壊し! それに、タバコ吸うと母さんにしかられるよ」
 いちかは口を尖らせた。

 父さんは肩をすくめてタバコの火を消しながら
「ダンもいなくなったか。あいつ風来坊だからなぁ」と腕組みをして、ソファーにもたれた。

「うちに来たのも、風来坊の寄り道だったのかな」
 いちかが父さんの考えを認めるように言う。

 二人の会話を聞きながら、僕の思いは違っていた。

 庭に面した僕の部屋から、何度同じ光景を見ただろう。
 暗がりの中、ダンはいつも犬小屋の前にすわって、身じろぎもせずに居間の方をじっと見つめていた。雨戸の隙間から細くもれる灯りが消えるまで——

 自分もあの団欒んに加わりたい——
 ダンは間違いなく触れ合いを求めていたのだ。
 満たされないものを求めて、やすらぎをもとめて、この家を出て行ったのかな。
 ダンが本当に風来坊なら……………そうなのかも…………知れない。











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