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星野リゾート異端の経営戦略 「監獄ホテル」

 剣道の錬成大会の時だったろうか。まだ小学生だった息子に付き添って奈良にある鴻池武道場(今はロートに名称変更されている)を訪れた。
 敷地内に娑羅の木があるらしいと友人に誘われ、周辺の植栽を眺めながら道場の裏手へと歩いて行った時、その建物は不意に目の前に現れた。

 中央に尖塔が聳える屋根を連ねた赤煉瓦の瀟洒な西洋館が、分厚い幅で密生する植え込みと丈高いアイアンの柵の向こうにしんと静まり返って建っている。
 奈良の市街地からわずかな距離にこんな建物があったなんて……と感激している私の傍らで
「あれは少年刑務所よ。ここは建物の裏手になるみたい」と、地元で生まれ育った友人の言。暫く茫然と見入ってしまった。刑務所と瀟洒な美観の建物がどうしても結びつかない。
 正面の表門はさらに、刑務所とは思えない重量感のある城門のような作りになっているらしい。その表門を見る機会は逸してしまったが、後に写真で見た門構えはロマネスク様式のとてつもなく重厚な、まさに城門と見紛う造りだった。

 奈良少年刑務所の歴史の流れを追うと、明治末期開所した「奈良監獄」が「奈良刑務所」となり更に「奈良少年刑務所」と改称の変遷をたどり当時に至っていた。
 所内では社会復帰に向けて様々な職業訓練が実施され,夜間教育や通信制課程も置かれたらしい。また罪の償いと再起する為の「心の涵養」として [ 詩 ]の時間が設けられたと言う。作詩の作業もあったと思うが、朗読の教材になったのは一体誰の[ 詩 ]なんだろう?…谷川俊太郎の詩だろうか、それとも……と私の悪い癖で、ついあれこれと思いを巡らせてしまう。

 ふと『健全な社会を作る為には社会を構成する【人】そのものを良くしなければならない』と言う、ヴィクトル・ユーゴーの言葉を思い出した。
 ユーゴーのあまりにも有名な著書「レ・ミゼラブル」は、囚人だった主人公ジャンバルジャンがミリエル司教の導きによって見事に更生し、献身と人間愛に一生を捧げる物語だが作品が問いかける【良心】こそがユーゴーの思想そのものなのだ。
 その思想を反映した長詩【良心】は、創世記アダムとイブの息子カインが弟アベルを殺して地上を追われた時、彷徨するカインを追って地の果て地の底はおろか、老いて自ら入室した墓所にまで【神の単眼】が追いかけて行くという,一生逃れられない罪と贖いの詩が綴られている。
 ユーゴーの思想は死刑撤廃の為に筆をとり若き情熱を注いだ作品【死刑囚最後の日】にも描かれている。
 受刑者の心の涵養に充てられた教材はユーゴーの作品に違いない——等と勝手に妄想を膨らませ、すっかり話を誘導してしまったが………

 2016年、刑務所は老朽化の為廃庁となる。その後国の重要文化財指定を受けて活用が模索され、2017年ホテルやレストランへの転用が決定した。2019年,星野リゾートがその運営権を獲得したという経緯に至る。外観は写真の如く尖塔の聳える美しい煉瓦造りで刑務所の印象とは程遠く,むしろほかに類を見ない高級ホテルの趣きである。

 奈良は地面を掘り起こせば必ず史跡が出てくる。それ故開発が制限されるという宿命が観光地としての発展を妨げてきた。今回、既存のしかも重要文化財のもと監獄のホテルとあっては内外からの注目を浴びる事は必至となるだろう。
 哀しいかな、今まで観光に訪れる人の多くが奈良はサッと見で通り過ぎ,大阪や京都に宿をとるのが常だった。夜は早仕舞いの店が多く、投宿するにはつまらない街だったに違いない。今後星野リゾートの進出によって、奈良観光がガラリと趣きを変える事になるだろう。

 圧巻の東大寺ニ月堂炎の祭事「お水取り」、興福寺前の幽玄な野外薪能、ここは我寝所とばかり広い公園内で悠々と過ごす鹿の群れ、巨大な大仏などなど——京都とは一味違った古都奈良の趣きがある。これを機会に魅力ある街づくりに力を注いで欲しいと思う。

 それにしても、そのまま【監獄ホテル】とするのだろうか。インパクトを狙っているのかも知れないが、私としては少々剥き出しの感が否めない思いがする。PRISONの単語を使って……もうちょと…垢抜けた名称にして欲しい。奈良を愛する人間の願いです。

 ☆掲載の写真は引用させて頂きました。

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