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   「 技 即 心 」  技は即ち心なり

 この書は、義父が他界する半年前に額装を施し、子供の頭数ぶんを作成した遺作である。

「心・技・体」はよく聞く言葉であるが、「技・即・心」は義父の創作によるものだと聞いている。
 柔道七段、剣道五段の段位を持つ武道家の義父にとって、「技」は対する相手に勝つため仕掛ける「型」を意味するが、同時に「技術・技能」と言う意味合いをとれば、書に込めた別の思いがみえてくる。子供たちに伝えたい何かが——
 実子達がどう受け止めたかは分からないが、私は——自身の「生活法」を持って、心寛やかに人生を歩みなさい——と言うメッセージのように思われた。

 義父はずり落ちた眼鏡を鼻に引っ掛け、一見好々爺のように見えても、眼鏡の奥に鋭い眼力を感ずることがあった。
 武道家で、明治生まれの気骨者とくれば当然の事かもしれないが、その風貌も一役買っていたように思う。
 上背があって、がっしりとした「がたい」は、それだけでも威厳を与え、白髪混じりの長く伸びた鬢の毛だけを残して禿げあがった風貌は、一族を束ねる首領そのもののようだった。

 家業を継がず、大学進学と共に実家を離れた夫は就職して結婚し、転勤族となっていた。
 盆暮れの帰省時、義父と接する機会の少ない外嫁にの私は、会うたび眼鏡の奥から心の中を見透かされるような緊張感を持たずにはいられなかった。

 ある時、武道家のまさにその「炯眼」を垣間見る出来事があった。

 弟家族と同居が決まって、旧宅を建て替えることになった折の事。夫が勤め先の関連企業に紹介してカーテンや壁紙をオーダーすることになった。
 実家に郵送した資料と同じカタログを見せ、「親父が、家のカーテンも一緒にオーダーして良いと言ったから好きなのを選べ」と夫が言う。
 当時、社宅住まいだったサラリーマン世帯にとって、オーダーのカーテンは高価で手が届くものでは無かった。
 厚かましく全部の窓にともいかず、リビングの掃き出しに掛ける丈長のカーテンのみをカタログの中から選ばせてもらった。
 すみれ色と淡いグレージュの横縞模様のカーテンは、好きで好きでたまらないほどのお気に入りになって、窓の外を眺めるよりはカーテンの色合いや風合いを眺めてはひとり楽しんでいた。

 その年のお盆に帰省した時——
 昼の食卓を囲んでいた家族が席を立った後、まだ食事を終えてない幼稚園児の娘のそばで、私はお茶を頂いていた。
 斜向かいに座していた父は、センブリと言う、とてつもなく苦い胃の生薬を煎じて、ちびちびと飲んでいた。


「そう言えば、カーテン作らせ頂いてありがとうございます」と遅ればせなお礼を言うと、一秒の間をおかず、メガネの奥の大きな目を「カッ」と見開いた義父は、和室の方に視線を流した。
 畳の間では、こちらに背を向けた夫が、座りこんで川釣りに使う仕掛け作りの真っ最中だった。
 義父はすくっと立ち上がって畳の間に踏み込むと、一間ほどの距離を保って仁王立ちになり、
「おい○○。策を弄する者、策に倒れる」と息子の背中に言い放った。

 義父は私のお礼の一言から一瞬にして全てを見抜いたのである。我家のカーテンは息子が父親に内密で便乗したと言う事実。義父の様子から私もすぐ理解に達したが、武道家の感はまさに一瞬であった。
 夫は私と父親、二人の間に入って、両者ともに欺いたのだ。

 それにしても義父は、なんという人物なのだろう。
 何をどうこうしたという責め苦は一切言わず、格言を以って息子を諭したのだ。
 父親のこの訓戒を息子はどう受け止めたのか見届けたかったが、当人は聞こえなかったかのように、振り向きもせず、しかけ作りを続行していたのである。
 わたしは不思議な光景を見る思いがした。

 その後、狭心症で入院をした時のエピソードは、この一件に類するものだった。

 見舞いの際、義母から頼まれた洗濯物を持って病院を訪れた時のこと。洗濯物をしまおうとしてロッカーを開けた途端、目の前に
 「盗人(ぬすっと)は誰だ!」と書かれた大きな紙切れがぶら下がっていた。
 ここ数日、金品の紛失が続いているらしかったが、義父は病院に一切告げず、紙とサインペンを借りて対策を講じたのだった。
 引き出しを開けると、そこにも「盗人は誰だ!」の文字。おもわず笑ってしまったが盗人はさぞびっくりすることだろう。
 まして柔道七段、剣道五段、警察官を指導していた、と知ったら、済みませんでしたと平伏すに違いない。
 当の義父は、何やら面白いぞという悪戯っ子の顔でニヤッと笑っていた。

 その後の顛末は聞いていないが、何事もなく収束したようで、どうやら義父の一本勝ちの様だった。
 こうした傑物としての話ばかりではなく、優しくひょうきんな一面をうかがわせるエピソードもある。

 私たち家族の帰省は、子連れのドライブ旅行の様なものであったから、私はいつもジーンズにTシャツという簡素な出立ちだった。
 ある時、私の装いをジロジロ眺めていた義父が突然私をデパートに連行し、好きな服を三着えらびなさいと言う。
 おそらく、内嫁の贅沢ぶりに比べて質素な装いの私を不憫に思ったのではないか。
 恐縮しながら選ばせてもらった服は、長い間、よそ行きとして着用した。

 かなり古い話になるが——結婚したての頃、旧宅を建てる際に温泉の恵みがある土地柄なのだから内風呂など要らないと言って風呂を作らず、スクーターで近くの温泉に通っていた。
 ( この事は女である義母の、一番の悩みと苦労であったらしい。時々近くの実家で貰い湯をしてしたという)
 当然、スクーターの後ろに妻を連れての事だが、ある時、温泉についてみると後ろに乗っているはずの妻が居ない。積み残しでスタートしたのである。
 着くまで気がつかないなんて、漫画のサザエさんみたいで、笑ってしまうほか無いではないか。

 山歩きの好きだった義父は、よく孫達を連れて出かける事があった。私は子供達の見張り役で同行し、一緒に楽しませてもらった。
 山菜採りをしながらの途中、野生のくるみの木を見つけると、枝を豪快にユサユサと揺らして実を落とし「ほれ、拾え拾え」と皆んなに号令をかける。
 子供達はこぞって拾い集め、脱いだ帽子の中に山盛り詰め込んで持ち帰った記憶がある。


「強きを挫き、弱きを助ける」を地で行く様な人であったから、義父を慕って訪れる人は毎日の様だったと言う。
 来訪者は差別なく食卓を用意して歓待したと言うから、ここでも義母の苦労がうかがえる。

 武道家の義父は、自分の名前は優しすぎて嫌いだと常々言っていた。
 女の子ばかりの孫だったので、我が家に男の子が誕生した時は殊の外喜び、自分の名前の下一字を「太」に変えて命名した。
 ずっと昔から密かに決めていたのだろうか、しごく満足そうだった義父だがこの孫の成長を見る事なく他界してしまった。


 もうじき義父の命日がやって来る。
 亡くなってからの幾星霜——

「 技 即 心 」は

 私の、座右の銘 となっている。


   ☆  義父の命日が近づいて、終わらせなきゃいけない作品があるのに、急いでこちらを先に書き上げました。
 筆に任せ、親しかった懐かしい人たちを思い出しながら書いてみたいと思っています。



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