しろ長くつ下のピッピ  (2)

 未だ眠い目をこすりながら、居ないのを承知で母さんの部屋を覗いて見た。この時間帯、とっくにキッチンに降りているはずだ。キャリーバッグも見当たらなかった。
 仔犬の姿を確かめようと、僕は慌ただしく階段を駆け降りてキッチンに飛び込んだ。

 キャリーバッグはキッチンの窓下に置かれてあった。けれど仔犬の姿が見当たらない。
「あれっ、犬は? まさか朝一で貰い手見つかったなんて事ないよね」
 シンクの前で洗い物をしている母さんを振り向くと、背中に黒い皮のリックを背負っている。
「どうしたの?リックなんか背負って」
「ま、中を見てちょうだい」
 母さんはふふっと笑いながら背中のリックを振り向いた。
「何だこの膨らみは?」
 まさか仔犬がこの中に——。半信半疑でリックを触った手にじんわりと温もりが伝わった。
 中を覗くとリックの底で仔犬が丸まっていた。しかも気持ち良さそうにすやすや寝入っている。
「わおー」 僕は思わず奇声を発してしまった。
 その時、いちかが、モサモサの髪を束ねながら階下へ降りてきた。
「何だ、朝っぱらから」
「これこれ、覗いてみて」 僕は笑いながら、リックの膨らみをぺたぺた叩いて見せた。 不審そうに中を覗きこんだ途端、いちかは
「うそー!」と、僕より二倍も三倍も大きな声をあげて笑い転げた。

「足下に来てうずくまっちゃうから、危なくて。」
 母さんは、いいアイディアでしょ、と自画自賛しながら背中の重みをまんざらでも無さそうに立ち働いている。
 朝食を用意し終えるとリックを背負ったままゴミ出しに行ってしまった。

 その朝、父さんはコーヒーを一杯口にしただけで、目も合わせず、一言も発せず、にがり切った表情のままひと足先に家を出た。
 僕が、昨日の夜も今朝も食事をしていない父さんを心配すると
「大丈夫よ。多分昨日は駅そば立ち寄ってるだろうし、今朝はどこかでモーニングよ。」
 母さんはけろりと答える。

「あのままの顔で寝ていたのかなあ。かなり余韻引きずってるね」
 玄関でいちかが靴紐を結びながら言った。

 大通りに出るまでは皆んな同じ道を行く。そこから父さんはバス停へ、いちかは自転車で、この春入学したばかりの坂下にある中学校へ、そして五年生になった僕は坂上の小学校へ登校する。
 いちかは、買ったばかりの自転車にまたがると
「今日、部活どうしよう。辞めておくかなあ」と言いながら出かけて行った。
 たぶん、いちかは仔犬のことが気になっている。この僕も同じだから。

「そうそう、りょう太。学校から帰ったら一緒に近所まわってね。」
 玄関を出ようとした僕に母さんが言った。
「もう里親探し?早すぎない?」
「うん、先送りすると情が移ってしまうからね。仔犬のためにも、私たちのためにも早い方がいいと思う」
 母さんは子供たちの気持ちをとっくに見抜いていた。
 僕は「はーい」と気落ちした様な返事をしただけで、行ってきますとも言わずに家を出た。

 学校からの帰り道、僕は一目散に家へという心境にはなれなかった。
 ふわふわの綿毛になった、道端のタンポポ見つけては吹いて飛ばしてみたり、ペンペン草を耳元で振って、カタカタ鳴る音を聞いてみたり、いつもの様に道草をしながらとろとろと歩いた。でも、頭の中は仔犬のことで一杯だった。授業中からずぅーと、ずっと。
——もし、貰い手が見つからなかったらどうするのだろう——

 帰宅早々、ぼくは赤と緑のチェックの膝掛けに包まった仔犬を抱いて、母さんと一緒に近所を廻った。
「わあ、可愛い!」
 皆んな口々にそう言ってくれる。けれどすでに犬を飼っていたり、猫を飼っていたり、なかには欲しそうに「うーん」と考え込む人もいた。
 結局それぞれの事情があって、貰い手は見つからなかった。
 春めいたとは言っても、四月の風はまだ冷たい。仔犬は膝掛けの中に頭を潜らせて小刻みに震えていた。
「今日はこれで辞めておこうか。また明日ね」
「明日も見つからなかったらどうするの?次の日も、その次の日も見つからなかったら?」
 僕が問い詰めると、母さんは黙ったままじっと僕の目を見つめた。
「その時はまた考えようね。」
——また、って。どう考えるの?——
 心の中で反発しながら玄関に入りかけると、お隣の藤井さんが愛猫のキラちゃんを抱いて走り寄った。
「貰い手みつかった?」
「ううん、駄目だった」
 藤井さんは僕が、がっかりしたと思ったのか、キラちゃんがいなければ貰っても良かったんだけど、と言ってくれた。
 藤井さんは穏やかで優しい人だ。
——藤井さんみたいな人だったらいいな。すぐ隣だし——
 僕はちょと寂しいけれど「ゆずる」という事への抵抗が少し薄らいだ気がした。

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