08「MとRの物語」第一章 7節 接触
「MとRの物語」第一章 7節 接触
Mさん? Mさん? 聞こえる?
少女が俺を呼んでいる。だが俺はその声を無視した。当然だ、少女が俺を目視できたように、この電車の中に、俺を目視できる、いわゆる霊能力者とか、超能力者とか呼ばれる者達が、いないとも限らない。いや、ほとんどの場合は、そういう者達はイカサマ、インチキであるということを、今の俺は知っている。しかしごくまれに、我々「意識」の存在に気づく者がいて、ぎょっとさせられる。海外でいうとシャーマン、日本では巫女とか預言者などと呼ばれる者達だ。そのような者達が、俺のような、「あの世の知識を持つ意識」に触れることは、確率的にはほとんどないはずなのだが、なぜかそのような出会いというものは、偶然とは思えないほどに起こるものなのだ。とはいえ、この少女との出会いの場合はそれとは別だ。恐らく他者の意識と触れ合うことの出来る特異な能力を持つ者達の一人であるこの少女が、あの瞬間、たまたま発した波動が俺の興味を引き、そして俺は、吸い寄せられるように、この少女の身体に入り込んでしまった。そうなのだ、今も俺はこの少女の体内にいる。内面から、この少女、Rを眺めている。真っ暗な空間から、二つの穴を通し煌々と明かりがさしこむ。その明かりの中に、少女の小さな手の平があった。両の手を、ぎゅっと握り、少女は祈っていた。痛いほどに。
こうやって見ると、少女の身体というのは、なんとも壊れやすそうなものだな。だが、俺はそれをからかうことは出来ない。Mであった頃の俺の身体は、この少女と同じくらい、華奢だったのだ。頭でっかちの、可憐な少女のようであったのだ。それは俺の誇りでもあり、屈辱でもあった。だが晩年の俺は、そのコンプレックスを克服した。肉体を、鋼のように鍛え上げ、俺は男としての自信を、ようやくにして掴み取ったのであった。そして、その直後の死。まるで悪夢を見ているような人生だったが、あれほど濃密な一生はそうとない。神が俺に興味をそそられるはずだ。
少女の身体が重力の変化によって揺れた。駅が近い。少女が立ちあがった。まるでカメラの映像のように、俺は少女の眼を通して、列車の中を見ている。平日、とはいえ人が多い。そう、俺はこの平成における東京の電車の中の様子も、よく知っていた。毎日、何百何千という人間が、生まれては死に、生まれては死にしている。その人間には全部、俺が入っているのだ。つまり死んだ人間の記憶はすべて俺に伝わる、はずなのだ。例外も少しあるようだが、それがなぜだか、俺にはまだわからない。
少女と母親は、ホームに降り、エスカレーターへと向かう。母親が少女に話しかけた。水中に響く音のように、俺には少しこもって聴こえるが、その声はなんとか聞き取ることが可能だ。母親はこう言っている。
「そうそう、コンビニのバイト、2、3日お休みをもらうって電話しておいたから。倒れたことは言ってないから、必要だったら店長さんに伝えてね」
「うん」少女が返事をした。
母親の言葉が、波紋のように少女の意識をゆらす。それは俺には、まるで水に浮いた油が、水面を七色にゆらすように見てとれる。少女の思考が、割れてとがったガラスのように、俺にチクチクと突き刺さる。本当にこの少女の思考は、痛々しい。だがしょうがない。実際この少女のこれまでの人生は、ひどく痛々しかった。この身体にぶつかる瞬間、俺は少女に刻まれた記憶を、無意識のうちに読み取ってしまったのだが、そのことを俺は後悔した。まあしかし、本来の俺はただの「意識」であって、感情というものは、ほとんど持ち合わせてはおらず、そんな痛みを感じるのは、恐らくこの入れ物、この少女の身体に居座っている間だけのことだろう。その程度の短い間ならば、耐えればいい。
二人は古びたマンションについた。と言っても、割とこぎれいで手入れもよく、時を感じさせるいい具合の古めかしさ、懐かしさだ。今東京で、このような古風なマンションを、あえて探そうとすると見つかるものなのだろうか。昭和の記憶がメインの俺としては、うれしい限りである。
「ただいまぁ」、母が言った。娘がくすくすと笑った。二人しか住んでいないこのマンション。返事をする者がいないのは、わかっている。でもそれでも、ただいまを言ってしまうこの母親の心理を、娘は理解できているだろうか。少し興味を持ち、俺は少女の意識にそっと触れてみた。やっぱりだ、この娘は母親の気持ちを、理解してはいなかった。たぶん理解できるようになるのは、10ほど歳を取った頃になるだろう。
テーブルの上に、かつて俺が書いた小説が置かれていた。懐かしさに俺は手を伸ばしそうになった。
「あ!」
少女が驚いて声をあげ、両手を胸の前で組み合わせた。しまった。思っていた以上に俺は、この少女の身体と同化してしまっているようだ。せっかくここまで、知らんぷりを通してきたのに、今のでたぶん、少女にバレれしまっただろう。
Mさん?
やっぱりだ……。俺は観念した。
ああ……、Mだ。お前が呼んでいるのに応えなくてすまなかった。
俺は少女が悲鳴をあげ、また気を失うかと思ったが、そうはならなかった。少女の気持ちは、恐怖よりも喜びに震えていた。おいおい、待て、勘弁してくれ……。俺はふたたび、少女の意識に触れてみた。接触した部分から、強烈な白い光が、周囲に広がった。
これは!!
それは少女の、父親への愛情のようだった。物ごころつく前に、死んでしまった父親を、少女は空想の中で、愛していたのだ。そしてその愛が今、俺に向けられていた。
いや、違う……、俺はお前の父親じゃない。
いや……、厳密に言えば、同じかもしれない、だが違うんだ!
わかってる、わかってるよMさん!
少女の心が、キラキラとしていた。あまりにまぶしくて、俺が気を失いそうだった。
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