映画「空白」を観て ~その空白を埋めていたものに想いを馳せる
各所からの圧力を感じ、そろそろ書かないとダメかなという感じです。
盆を過ぎるとすぐに年末と昔から言われているように、すぐに年末が来るだろうと考えていましたが、なんだかんだ後3か月はあるという事実に気づいてしまいました。
さすがに年末にワダデミー賞発表だけしてしまうのもなんかなという気がしたので、もう少し書いていきましょう。
というわけで今回も映画です。
「空白」
粗筋に触れると皆さん「あれか」という反応をされるので、認知度は高いのかもしれません。
スーパーの店長さん役の松坂桃李くんは、ある日万引きする女子高生を発見する。
突如逃げ出した女子高生を追っていく桃李くん。女子高生が突然横に曲がり道路に飛び出すと車に轢かれ死んでしまう。
この事件に関わる全ての人の人生が一変し、崩壊していく。
この崩壊の救いのなさが凄まじい映画でした。
少しずつ少しずつ崩れ落ちていき、誰もそれを食い止めることができない。
少しずれた歯車が他の歯車を道連れに壊していく。
きっかけとなったのは女子高生の子が作った空白。
最もその空白を感じるようになったのは古田新太演じる父親です。
もともと昔ながらの職人気質で、人となれあわず、誰にでも口調が荒い漁師。
自分勝手で人の話を聞かないため、娘が何を好きだったのか、どんな人間だったかも知らない父親。娘という存在を失ったことで、今まで自分が に無下にしてきた存在の大切さを知り新しい人生に向かう。
ストーリーのタイプとしては「晴れの日は会えない、雨の日は君を想う」や「永い言い訳」に近いと思います。
現在上映中の「ドライブ・マイ・カー」も近いものを感じました。
「ドライブ・マイ・カー」はヨルゴス・ランティモスの映画のように登場人物が抑揚をつけずに喋っていて、原作が本なので、あえて演者には感情を入れさせないようにしてるのかと思いましたが、劇中でその部分を説明していました。これが、原作の中に書かれていたものなのか、それとも映画だからそうしたのかが少し気になっています。パンフレットを見ると、もともとの監督の撮り方を反映させているようにも思えます。
村上春樹は中学に何冊か読んで以来読んでないかもしれませんので、久しぶりに読むか迷っております。映画はドライバー役の三浦透子さんが素晴らしいので、皆さんにも観ていただければと思います。
(閑話休題)
感情を失いつつあった中年男性が妻や娘など愛しい存在を失ったことで、その大切さにようやく気付き、少しずつ前を向いていく・・・
と、書くと聞こえが良いですが、「空白」という映画はそれだけにとどまりません。
身勝手な父親は自分をコントロールできずに、事故に関わった人々を怒りのままに当たり散らしていきます。
スーパーの店長、学校の先生、漁師仲間、娘を轢いた女性、マスコミ。
正直ここまで当たり散らされると、観ている側としてはあまり同情することができません。
そしてその同情のできなさを煽るマスコミ。
なにも受け容れずに怒りをまき散らす父親。
父親に怒られるのが怖く、常に伏し目がちでクラスでも目立たない、自分の意見を言えない娘。
父親のわがままに耐えられず鬱になり家を出て再婚した母親。
車で轢いてしまった罪悪感に囚われ前に進めない女性。
そして、前の世代からあらゆるものを背負わされる桃李くん。
親が突然死し突然継ぐことになったスーパー、善意を押しつけるおばさん、怒れるおじさん、マスコミの印象操作、世間の目。
誰1人絶対的に悪いとは言えずとも少しずつのひずみがお互いに作用して、より大きなひずみを作っていく。
空白となった娘の存在。自分の意見を誰にも聞いてもらうことができずに、親や先生から心無い言葉を浴びせられ、常に伏し目がち。学校でも目立つことなく、唯一耳を傾けてくれていた母親も家からいなくなる。聞いてもらえる相手がいなければ紡ぐことができなかった言葉たちとともに押し殺された存在。
そんな脆弱な存在が保ってきた現実。そんな脆弱な現実にもたれかかっていた父親。
どれだけ身勝手で、自分の未熟が故のわがままで周りに被害をもたらすのか。
人が死ななければ成長ができないのか。周りを破壊しつくさなければならないのか。
最後に自分だけ上手いこと折り合いをつけたように見せて、希望への道を歩むのが許されるのか。
観終わった後に非常にもやもやが残りました。
そんな中、少しでも僕自身が前に進むためのヒントになるかもしれない話が頭をよぎります。
たびたび教えてもらうたとえ話。
あなたが夜電車で帰る際にスーツを濡らした人が前に並んでいる。
電車に乗り込む際に肩が触れ、あなたは大したことないと思いつつ頭を軽く下げる。
次の瞬間、「ふざけるな」と罵声を浴びせられ、掴みかかられる。
あなたはとっさのことに怒りにかられ、暴力をふるいそうになる。
しかし、そのスーツの人はこの日。
朝、ささいなことで恋人と喧嘩になる。会社に遅刻しそうで、和解できないまま家を飛び出す。通勤途中に電車が事故で遅延、怒った周りの乗客にぶつかられ罵声を浴びせられる。やっとこさ出勤するも重要な会議に出られなかったため商談を逃し、上司からは𠮟責を浴びる。長々と怒られたためにたっぷりの残業。帰る途中にはトラックが水溜りから水を跳ね上げてずぶ濡れに。唯一の楽しみの夕食も時短営業で間に合わず、仕方なくずぶ濡れのまま電車に乗る。乗り込んだ電車の中で、後ろから誰かに肩をぶつけられる。
今までの我慢と緊張が限界を迎え、水があふれるように怒りが体からこぼれだす。
スーツの人は、その日がたまたまそうだっただけで、本来は温和な人だったかもしれません。
そういった誰にでも起こりうる一日のことで、その人を裁く権利があなたにはあるのか。
(これは概念の話なので、聞いたのはそのままこの通りのストーリーではありません)
劇中で桃李くんも限界を迎え、ささいな事件に声を荒げ、人を傷つけてしまいます。しかし、その後に謝罪の電話を入れており、この場面はとてもいたたまれない気持ちになりました。でも桃李は映画のはじめでは謝れなかったのだよなとも思い、これは成長だったのか、未来への希望だったのか。それともあの父親のようにはならないという一心からなのか。
今、僕は、森田真生さんの“僕たちはどう生きるか”を読んでいます。
その中で、森田さんはリチャード・バワーズの小説「The Overstory」を話題にあげ、その中で「Hold Still」という表現が何度も使用されていることをあげます。
少し引用します。
この本を開くと、「HOLD STILL」という表現が何度も出てくることに気づく。「HOLD STILL」とは立ち止まること、凍りつくこと、動けなくなることを意味する。だが、この物語ではこの言葉が、人間が、自分でないものに耳を澄まし始めた時の合図のように使われているのだ。
病気によって、事故によって、思わぬひらめきによって、それまで順調に作動していたはずの生の流れがにわかにストップする瞬間がある。その刹那、人は思わずその場で立ち止まってしまう。
だが、立ち止まることは、単に「停止」することではない。いままで深く顧みることのなかった人生の前提条件が揺さぶられるとき、人は立ち止まり、自分でないものに耳を傾け始める。(中略)
すべてがただ順調に作動しているとき、そこにはしばしば、他者への想像力が欠落している。そもそも、順調な作動は案外脆い。「順調な作動」という観念自体が、作動の順調さを測るための一つの尺度に依存しているからである。
危機において人は始めて、自分が寄りかかってきた「一つの尺度」の脆さに気づくことができる。そして、いままでとは別の尺度を探し始める。こうして、それまで自分を虜にしていた世界の「外」へと感覚を開き始めるのだ。(引用終わり)
あまりにもタイムリーな内容で、身体に深く染み入りました。
たとえ話は、システマの落ち着いた状態を保つことの難しさの例、“僕たちはどう生きるか”はコロナによって一変した世の中から改めて人々がどう生きればいいのかを考えていく、ドキュメント・エッセイです。
どちらも見えている瞬間的な状況での正しさを追うのではなく、同じことが別のスケールではどんな意味を持つかを常に想像する姿勢、「エコロジカルな自覚」をもつことの重要性を説いているのだと思います。
私自身かなり多くの声を無視して生きているように思いますが、
少しでも多くのものに耳を傾けられるようにありたいと思う次第です。
わからないものも、わからないなりに、わからないまま置いておける寛容さが自分の身体にも、世界にも浸透するといいなと思います。
参考文献
僕たちはどう生きるか 森田真生著
映画 ドライブ・マイ・カー パンフレット