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映画⑤「怪物」だーれだ。

是枝裕和監督の新作。

見てきちゃいました。
是枝さんの作品はいくつか見てきたけれど、
いつも答えのない問いを投げかけられて、
途方のない場所に放たれた気持ちになる。

恐らく今回も同じことになりそうなので、
金曜日の夜に堪能させていただく。

そしてやはり思い知る。
生半可な気持ちで観に行ってはいけないと。

※以下ネタバレしま〜す!!!!

ところで観に行ったみなさん。
「怪物」を物語の中に見つけられましたか?

「怪物だ〜れだ。」という文言が
嫌というほどPRで打ち出されていて、
私はまんまと
「よっしゃ〜怪物探すで〜!!!!」(謎の関西弁)
という気持ちで向かいに行った。

きっとストーリー的に
「あなたにとっての怪物はだれ?」みたいな、
ミステリー的リードもありつつ、
こちらに考えさせた上で正解を与えない展開を
させてくるだろうと思ったからだった。

そして私が見つけた答えはこれだ。

「怪物、いないが。」

そう、怪物はいなかった。
この映画に出てくるのはみんな人間で、
怪物などいない。

ただただ、
みんな自分や自分の大切なものを守るために、
必死に生きている、そんな映画だったのだ。

うん。
すごいな、製作陣。
完璧なリード。
私たちは怪物を探しに行ってる。
こんなに探させられるとは思ってなかった。

人によって、真実は異なる

このパターン。
〇〇の視点。
今回「怪物」はこれありきで進む。

母の視点、
先生の視点、
息子の視点。
まあでも、よくありがちだ。

ライトなものだと、
「アイ・トーニャ」言ってることが
みんな違うので混乱する語り口パターン。

重いものだと、
「告白」。
人によっては大したことないものが、
他の人の大切なものを破壊していく。
(最近みた「母性」もかな。)

だから何度も学んできた。
「真実は人によって異なる」

「真実はただ一つ!!」とも言われるけど、
本当は「事実」が一つなのであり、
そこに解釈が含まれた「真実」は、
一つの事実に対して、人の数だけあるということ。

だから正直言って、
この切り口に今更驚かなかった。
「はいはい、これね〜。」と思った。

なぜなら、
母の視点、安藤サクラが演じる母と
先生の視点、永山瑛太が演じる先生視点は、
説明ができるからだ。

母は命より大事な子どもから
「先生にいじめられた」と言われ、
しかも
"お前の脳は豚の脳だ"と罵倒されたと
明らかにおかしい息子から言われる。

それに涙を流す母。
その思いをぶつけるも、
学校はなんとも人間味のない謝罪だけしてくる。

そして先生の視点。
一生懸命、いい先生であろうとした。
間違ってることは正すし、
ちょっと困ってる様子を見せる生徒には声をかける。
なのに、思ってもみないところから、
嘘の情報が流され、組織には捨てられた。

学校は辞めされられ、生活は一変。
遂に死まで覚悟する。

母視点→先生と学校は怪物
先生視点→親と生徒とメディアと学校は怪物

ここまでで、
どうやら「息子・湊」が鍵を握ってるっぽい。
ということがわかる。

正直言って、ここまではよくあるストーリーだ。
親と先生はよくすれ違うし、
学校と先生も大体意見が異なる。
この後、
ソロモンの偽証的なスクールミステリーな
展開をしてくるのかと思った。

でも違った。
映画の本番はここからだった。

湊の視点

息子、湊の視点に切り替わる。

湊はいい息子だ。
母に優しい。亡くなった父に、
敬意を払いつつ、頑張って父みたいになりたい、
と母のために尽くしている。

でもなぜか、
学校で気になる存在に振り回される。
星川くん。

またこの星川くん役の柊木陽太くんが
すーーーーーーんごい可愛い。
可愛い、というか、
儚さと無邪気さと、それでいて
ちょっと賢くて現実的なクールさ。
星川くんの役ができるのは、
きっと彼だけなんだと思う。

そして、湊の目に映る星川くんは、
より魅力的だ。
もっともっと、彼を知りたくなる。
眩しくて、汚くて、優しくて、危うい。

うん、そう。
そうなの。そうなのよ。
もう湊の視点になった瞬間、
そこにはもう「星川くん」しかいない。

母も、先生も、
あれだけ悩んで、苦しんで、戦った。
だけどそんな戦う大人なんて、
彼にとって眼中にないのだ。

「お前の脳は豚の脳だ」
これは星川くんが父親から虐待を受ける中で
言われた言葉なのに、
まるで自分が言われたように母に言ってしまう。
大人からすると「なんで!」だけど、
子どもの心を一生懸命思い出すと何となく見える。
相手を思うあまり、
その言葉を当人と同じように受け止めると、
そんなふうになってしまうことも、
あったようななかったような。

自分の周りにいる大人なんて所詮、
どうでもいい存在。
(先生を辞職まで追い込んでいるのに、全く我関せずなのには驚くし、息子として母のことを思いやってるかと思いきや、「お父さん、浮気して死んだんだ」で全ての幻想が破壊されてアラサーお姉さんはもうメンタルが壊れました。)

そのくらい、
湊にとって、星川くんのこと、
そして星川くんと向き合うことで見えてきた、
自分自身のことで頭はいっぱいなのだ。

そう、ここでここまでのストーリーの
積み重ねは全てなかったことになる。
別の映画だ。
「湊の真実」は別の映画くらい、
今までの母や先生の視点とは交わらない。

真実は人によって異なる。
子どもは、たぶんもっと異なる。

そういえば、
小学生の時。決して親や学校の先生には言えない
言葉にすらできない、
絶妙な気持ちをたくさんしてきた気がする。

今になれば、
それが正しいとか正しくないとか、
ああすればよかった、こうすればよかった。
色々わかるものだけど、
あの時はもうどうしようもなかったんだ。

そんな、どこにも行けない気持ちが、
あの時だから感じた気持ちが
この映画には詰まっていた。
(この描写のリアル感、すごかったな)

それを見て思ったことはただ一つ。
目の前で起こる事実を
私たちとは異なる視点で感じることができるのは
子どもだ。

私たちもかつて子どもだったけど、
そんなことはいつか忘れて
私たちが思う、私たちの方法で、
目の前のことを解決しようとしてしまう。

でも子どもが抱える真実は、
私たちが見えないところで
違う角度から見られているし、
語られている。

私たちが彼らにしてあげられることってなんだろう。
何もできないと思ってしまうけど、
相手が子どもでも大人でも、
抱える事情は相手にしか解らず、
事情がわかってもその解釈は
他人の自分が勝手にしてはいけない。
これを忘れないことかな、と。

結局、怪物ってなんなんだ

事情を知ったふりして、
勝手に自分のフィルターをかけて、
私たちはすぐに
そこにはいないのに「怪物」を作り出す。

SNSや芸能人の炎上なんかもそうだと思う。
会ったこともない人を勝手に解釈して
怪物に仕立てるのは簡単。

「なんでもわかったように語るなよ」と、
この映画からは言われた気がする。

この映画では、
全員を敢えて怪物視させないための
描写が私は好きだった。

校長先生は明らかに怪物だ。
と、物語の2/3は思う。
でも、湊の心に唯一、
言葉ではない方法で寄り添い、
彼の心に触れた。
(言葉にできない気持ちを楽器に吹き込む、あのシーンはググッと思いが込み上げた。でもその思いの正体はわからない)

そして星川家の父。
中村獅童さん演じる父を、
恐らくこの人を「唯一怪物だ」と
解釈する人もいるかもしれない。
でも「わかったふりしない」を徹底すると
自身が大事にしてきた価値観では
大切にすることが難しい息子を
「病気」と言ってしまっても、
他人が責め立てることはできない。

決して、息子に手を出すことは許せないけど。

(巧妙に感じたのは、最後部分で雨に打たれながら地面に転がって立ち上がれない彼を見て、そんなシーンで「彼も人間だな」と思ってしまう仕掛け。
あのシーン、なくてもいいのに入れる製作陣にこだわりを感じる。)

さて。
ここまで登場人物を、
「あなたは怪物じゃないね。」と、
散々言ってきた挙句、ふと我に帰る。

待て待て。
この「怪物だーれだ」という、
言葉に惑わされ、
まんまと映画に怪物を探しに行った私こそ、
怪物なんじゃないの?と思う。

誰も、怪物を探せ!なんて言ってない。
でも私は目の前で起こるストーリーのあれこれに、
「怪物」を探そうとして、
そして「いないじゃん...」となった。
たぶんこれ普段からヤッチャッテルんだな。

私は、私たちは、
なぜ「怪物」を探したがるんだろう。
そして相手を怪物として見ることで、
自分自身の何を守ろうとしてるのか。

怪物自身よりも、
相手を「怪物」として認定し、
勝手に恐れる人間こそ
誰よりも怪物なのだし、
今、誰でも簡単に怪物を作り出せる、
そんな社会に不安を落とした映画だったと
私はみた。

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