イエナプラン

現代涵養すべき”力”~「変異する力」と、それを支える「探究力」~

「同質性教育」の限界性


苫野一徳氏の「『学校』をつくり直す」を読んでいる。
数年前、一度お世話になっていた方の紹介で講演会を聞いたことがある。
研究者であり実践家でもあり、とバランスが取れた方だった。
本編1ページ目から、思わず膝を打つ感覚。
前稿でも触れたが、太字にした部分こそ事の本質だと思う。


「結論から言ってしまいたいと思います。
 公教育が始まって、約150年。学校教育はこれまで、ずっと変わらず、基本的に次のようなシステムによって運営されてきました。すなわち、「みんなで同じことを、同じペースで、同質性の高い学級の中で、教科ごとの出来合いの答えを、子どもたちに一斉に勉強させる」というシステムです。
 ところがこのシステムが、今いたるところで限界を迎えているのです。」
                  苫野一徳「『学校』をつくり直す」

「みんなで同じことを、同じペースで…」というシステムで育つのは、まさにロボットのような人材である。
工業生産社会では、その教育は明らかに時代が要請するものであり、日本全体の工業生産力を高めることに大きく貢献している。
ただ、産業構造が転換し、どころか目まぐるしく時代が変わっていく社会ではこの教育は時代とマッチしない。
そもそも、「誰もが出来ることを、同じように」は、産業用ロボットが既に代替している。そして知的労働と呼ばれる領域すら、AIやRPAによって代替されている。
同じことをずっと書いているようだが、あまりにも重要なので強調しておきたい。

どんな力を涵養するのか?

じゃあ、どういう教育こそが求められるのか?
その前に、「どんな力を涵養するのか?」のコンセンサスがなければ方法論の議論とはならない。
日本の近代教育システムが設計された時代は、とにかく「帝国主義に飲み込まれるな=富国強兵」がスローガンだった。だからこそ、工業生産力を高め、国民皆兵を可能にするためのシステムが「同質性教育」だった。

翻って現代。変異スピードが途方もなく上がっている時代である。常に「正解」は変わり得るし、そもそも「正解」を何通り生み出せるかが勝負である。
そうなれば、涵養すべき力は「変異する力」であり、なぜ変異できるかというと「自分で答えを、その前に問いを立てられる力」ではないだろうか。
…実は友人が同じ問いに昨日「変化」というキーワードを出し、大いに共感した中で苫野氏は「探究する力」と定義して(るのを今日読んで)いたことが、私の中で結びついたのだった。

涵養すべき力はある程度イメージ出来たように思うので、そこから方法論へと向かいたい。

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