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「日本式産業革命モデル」を支えた、日本の「人間関係社会」と「同質性教育」

本稿の前提
前稿「『日本式産業革命モデル』を超えた、『コーポレーション・ボーダレス』社会へ」は、この1年ほど自身が感じてきたことがいくつか結合し、頭をもたげてきたものを初めて煮詰めてみたものだった。
かなり粗削りの段階でのアウトプットだったため、各論かなり詰める必要があると思っている。

疑問~果たして日本人は「集団性が高い」のか?~
私が進めたいと思っている議論内容に於いて大きな出発点となっているのは、「日本人はなぜブレークスルー出来ない/しないのか?」という点である。その中で突き詰めていくと、企業という「垣根」が高く聳え立っていること、企業が社会の風通しを悪くしていることが鍵なのではないか、と行き着いたところだ。
でも、その発想の前提に、「日本人が集団性が高い」という最早言わずもがな的な大前提が本当なのかという検証は必要欠くべからざるものだ、という気がしてきた。

「集団性が高い」は誤りの可能性→「人間関係社会」
調べるとすぐに「『日本人は集団主義的』という通説は誤り」という記事を見つけた。詳細はリンク先に譲るが、心理学的・言語学的・経済学的にも日本人が集団主義的だということへの反証は多いとのこと。
何より、「じゃあなんでそう言われるようになったの?」が最も知りたかったのだが、オリエンタリズム的言説から生まれたものらしい。そして、決定打はルース・ベネディクト「菊と刀」だったとのこと。また、第二次大戦時のファシズムは「外敵の脅威に直面したときに人間集団がとる普遍的な行動であるにもかかわらず、『集団主義的な文化』の証左であると解釈された」と記述されている。合点がいった。
平時である今の日本人に集団主義的要素は感じない。そもそも「お上」放置だし、以前から「人それぞれだよね」もよく言われるところ。
もう少し調べてみると、グレゴリー・クラークは著書『ユニークな日本人』で日本を「人間関係社会」と把握し、その特徴を派閥主義・個別主義・感性主義・直感的・「場」的と定義したとのこと。こちらは非常に腹落ちした。
本稿では、こちらを採用したい。

日本の近代教育システムこそが最大の要因
「集団主義的だから、個がブレークスルーしない」を退け、「人間関係社会だから、場の空気に流されやすく、個がブレークスルーしない」ことを以て日本人を特徴付けてみる。
すると、「なぜ空気に流されやすいのか?」や、「どうすれば空気そのものを変えられるのか?」「空気に流されずに済むには?」といった方向性が考えられる。
前稿の冒頭で、「焦っている」と書いた。少なくとも「なぜ流されやすいのか?」にエネルギーを割く以上に、どう変えるかに言及すべきだと思っている。
そこで、教育がヒントになるのではないだろうか?
教育学者苫野一徳氏の「『学校』をつくり直す」に、端的に表現されている。「…公教育が始まって、約150年。学校教育はこれまで、ずっと変わらず、基本的に次のようなシステムによって運営されてきました。すなわち、『みんなで同じことを、同じペースで、同質性の高い学級の中で、教科ごとの出来合いの答えを、子どもたちに一斉に勉強させる』というシステムです」。本稿では、その最大の特徴を「同質性教育」と呼称する。
人間関係社会だからこそ成立し、かつ150年間保存されることが可能だったこのシステムが、個をブレークスルーさせ続けなかった元凶なのではないか
※その功罪については、前稿にてある程度述べたと思っている

今後検討すべき点の中間整理
従って、これから考えたい内容は大きく2つだと思っている。
<上流>
・「日本式産業革命モデル企業」を、いかに解体していくのか?
・社会の風通しを良くする企業をどう増やすか?
・個人事業主間の緩やかなネットワークと、企業間の緩やかなネットワークが統合した社会をどう創り上げていくのか?

<下流>
・「同質性教育」から、いかに脱却するか?
・学校をどうつくり直すのか?
・「学校」というもう一つの聖域をいかに解体し、風通しを良くしていくのか?
「上流」と「下流」という言葉は、私が1年以上前に転職を決意した際に浮かんで来た概念。当時下流でだけゴミ拾いをしているような徒労感を感じており、両方の澱みを綺麗にしないと社会はフローしない、という感覚に到ったのだ。
ざっくりと書いてみたが、再度粗を見直すことで、今後考えるべき方向性もさらに洗練されていくものと思っている。

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