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「生/死」、「光/影」を追って~今の表現衝動の核となるもの~

生/死を感じさせるもの
実質1回目のポストでどうかとも思うのだが、今湧いてきているものはこれ。
直近で「聖歌隊CANTUS」の太田美帆さんとお話する機会があった。
そこで「生と死を感じさせる表現を信頼している」という趣旨(だったと思う。勝手に歪曲していないか心配)を聞いて、深々と腹落ちし、共感した。

死を感じさせるもの
振り返ると、物心ついて以降、惹かれる表現の多くは「死」や「終焉」を感じさせるものだった。
中1~2時期にドハマりした、孔子ととその高弟顔回がテーマの「陋巷に在り」という小説。そもそも2人は葬儀を取り仕切る「儒(≒呪術者)」一族の出。
中3~高2辺りは、好きになったバンドが気持ち悪いほど悉く解散していった。死に至る「腐臭」を感じ取っていたのかもしれない。
浪人・大学時期に出遭い、それこそドハマリしたジャズサキソフォニスト菊地成孔の「ルペ・ベレスの葬儀」は、自身の葬儀で掛けようと決めた。
他にも美術館で出遭い、そこから動けなくなった画家松井冬子氏の絵画も、直截的に死を想起させる。

生を感じさせるもの
同時に、生を希求する表現にも強烈に惹かれていた。
今振り返ると当然なのだが、死を感じさせるものは、同時に生を希求していた。もしくは、死を描くことで生を浮かび上がらせていたように思う。

その両極、ないし表裏が明確になるものにひどく惹かれ続けている。

死と生/影と光
私の中では、この対概念はほぼ同義。
上述の太田美帆さんとお話できたイベントにて、会場「卉奏」篠原智之さんと話していて、「そうですよね、影があるから光が見えるんですよね」と口をついた。上記の写真は、そのイベント時のもの。まさに、影がないと光は存立し得ない。
「夜の『光』織りて」と題されたイベントで、そのタイトルも行きたくなった理由。阪神大震災から25年後の1/17で、熊本へ聖歌を届けた太田さんの声に触れたかった。

光を感じさせるもの
振り返ると、『光』を感じるものへもひどく執着していた。
UAの「閃光」(太田さんはUAのコーラスもしていた)は、どうしようもなく好きだ。
また、大学時代からパッヘルベルのカノンは聴いていると光が差すように感じる。調べるとやはりキリスト教音楽で、賛美歌やゴスペル含め、私には「生」や「光」を求める音楽だと思っている。同様に「ハレルヤ」も、私は光や生へ向かう言葉・概念のように曲解している。「ハレルヤ」と名のつく曲も、かなりヒットしてしまう。
10代半ばでで聞いた"supernova"(超新星)。恒星がその一生を終え爆発する際に最も光度が高いと聞いて無性に惹かれた。
高校卒業の2日前にリリースされたくるり"ワールズエンド・スーパーノヴァ"は、卒業後の受験旅行で狂ったように聴いていた。ホテルで聴くために安いスピーカーを買ったほど。ユニットバスの扉を開け、その隙間にスピーカーを挟んでシャワーを浴びながら踊っていた。
あーもう、書けばキリがない。

「リアルである」ということ
「死/生」と「影/死」に共通して私を惹きつけて止まないのは、それがあまりにもリアルであるということだと思っている。
・11歳で迎えた阪神大震災・オウム
・17歳で迎えた「同時多発テロ」
・27歳で迎えた東日本大震災・父の死
どれも私の一生を変えた、あまりにもリアルな出来事で、そうした出来事がより「リアルなもの」へと加速度的に私を惹き付け続けている。

そして、今年37歳を迎える。その年に、太田さんから言われた「生と死を感じる表現」という言葉が、私にとって今のところ天啓のように離れない。と同時に眠らせていた表現衝動を加速させ、気付くと10日足らずでnoteを始めさせたのだと思う。
…ということを、書き終えた今実感した。だから長々と書いたのか。

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