思い出のマーニーから感じた「内」と「外」のイメージの違い
読みたい本をなんとなくマイペースに探して1年。本を読むのはまだ苦手だけど、すこしおもしろい発見をしたからみなさんにお伝えします。
僕はジブリが好きでしばしば借りてみています。最近見たジブリ作品なかで「思い出のマーニー」という有名なものがあります。原作は Joan G. Robinson の"When Marnie Was There" です。このタイトルで既に日本語と英語の作品の雰囲気が違うような気がします。直訳は「マーニーがいた頃」。このイメージだと「もうマーニーはいないんだ」というのを強く感じます。「思い出のマーニー」は「マーニーは過去の人だけれど、それを心の中で感じて生きていく」って感じがします。こういうことを考えるのはちょっと楽しくて好きです。
そしてジブリ「思い出のマーニー」で私が気になったフレーズがあります。
「この世には目に見えない魔法の輪がある。輪には内側と外側があって、私は外側の人間。でもそんなのはどうでもいいの。私は、私が嫌い」。
ジブリの「思い出のマーニー」ではおそらく最初のほうで登場するフレーズだと思います。このシーンで主人公の杏奈は一人絵を描いており、教師と思われる人に見せるように話しかけられますが、子供の泣き声につられて離れて行ってしまいます。杏奈は絵を見てほしかったのに彼が本心で絵を見たいと思っていたわけではないことを悟り、ショックを受けます。
高見浩さん訳の原作「思い出のマーニー」から引用すると
「そういう連中はみんな”内側”の人間、何か目に見えない魔法の輪の内側にいる人間なのだから。その点、アンナ自身は”外側”にいる人間だから、そういうことはすべて自分とは無関係なのだった」。
僕はこのフレーズに少し違和感を感じました。日本語では人と接するのを好まない人を「内向的」とか「内気」と言います。しかし、作中のフレーズはどれも内向的なアンナを外側と表現しており、逆なのです。
気になった私は原作の英語で書かれた"When Marnie Was There"でその部分を読んでみました。そこにはこう書かれていました。
"everyone else was 'inside' ー inside some sort of invisible magic circle. But Anna herself was outside. And so these was nothing to do with her."
原作では "inside" と "outside" と書かれています。つまり原作の時点で内と外が僕のイメージと逆なのです。
しかし、よくよく考えてみると日本語でも「話の輪に入れない」というように内側が社交的な人々であることもあります。また、英語で「内向的な」はintrovertと内側であるinが入ってます。これを踏まえると単に僕がに人の輪に入るか入らないかというイメージよりも内向的か外向的かのイメージが先に出てきただけのような感じがします。でも、人間関係において内と外の考え方には2パターンあることがわかってなんだかすこし賢くなったような気がしました。
はじめは、日本語と英語で「内」と「外」のイメージが違うんじゃないかと思い、「思い出のマーニーから学ぶ西洋と日本の内と外の違い」なんて洒落たタイトルにしたかったのですが、今回の僕の考察では内と外には2つのイメージがあって、思い出のマーニーでは人の輪のイメージが使われたという結論になりました。もしかしたら、内と外と聞いてどっちを思い浮かべるかと問われたら日本人と外国人で異なる割合になるのかもしれません。
昔から作文がとても苦手なので構成や文章におかしな点が多々あると思いますが、最後まで読んでいただいてありがとうございます。これからもマイペースに読みたい本を見つけていきたいと思います。それではまた。
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