第一章 幻灯による映像文化の開幕

幻灯に関する秋田県(明治年間)の資料です。

第一節 幻灯の出現

1 写し絵興行

㈠写し絵の考案

 明治初期、文明開化の風潮が進展する中で、米国からマジックランターン、すなわち幻灯が輸入された。ほどなくして国産化されるようになり、全国に普及した。秋田県においても、明治中期から後期にかけての明治年間、県内各地では連日のように幻灯会が開催された。まさに映像文化の華が開いたのである。

 しかし、日本には明治以前から、幻灯と同じレンズ映像である「写し絵」が存在していた。この写し絵については、これまでに出版されている日本映画史関係の図書には大抵記されているので、その映写装置の構造や映写方法の特色などの記述は省略したい。なお、小林源次郎著「写し絵」(中央大学出版部刊)が専門的で詳しく参考になる。

 西洋の幻灯は、江戸時代後期にエキマン鏡の名で日本に渡来したが、写し絵はこれに工夫を加えて考案されたものである。
 写し絵のレンズを用いた映写方式は、まさに幻灯にほかならないが、板ガラスの種板(スライド)を操作して映像を動かし、常磐津などの音曲入りで物語を演ずる、独特な寄席芸なのである。したがって、写し絵を演ずる芸人は複雑な操作技術と優れた演出技巧が必要なので、演者となる芸人は限られた小数であった。

 しかし、アニメーションのように動く彩色映像は大衆芸能として喝采を浴び、幕末が近い享和三(一八〇三)年の初公開以来、江戸時代を通じて廃れることなく明治まで受け継がれ、明治十(一八七七)年以後は特に東京近郊で盛んに興行されて、同二十七、二十八年の日清戦争を描いた写し絵は最高の盛況となった。
 映像文化の先駆的役割を果たした写し絵も、やがて映画の出現とともに次第に衰退し、一部の芸人によって細々と昭和初期まで興行が続けられた後は、文化財としての研究実演が行われるのみとなった。

㈡秋田での興行

 秋田における写し絵興行の全容は明らかでないが、明治期において新聞が報じた写し絵の興行は極めて数少なく、明治十八(一八八五)年十二月二十三日付秋田日日新聞の「昨夜より末広座にて亀家都楽が一連の写し絵を始めたりと云う」との記事が最初になる。

 享和三(一八〇三)年、江戸において初めて写し絵の興行を行なったのが亀家都楽であり、本名は高松熊吉といった。写し絵の創始者であるこの人物を初代として、代々その芸を継ぐ者が都楽を号してきている。二代目は初代の養子であるが、明治二(一八六九)年に池田友吉が都楽の芸名を譲り受け、池田都楽として三代目を名乗ったという(注1)。従って秋田の末広座で興行したのは池田都楽でなかろうか。(二代目都楽とすれば引退後の巡業となる。)

 都楽一座は田中町末広座の興行が終わった後も秋田に滞在し、年が明けた明治十九(一八八六)年の正月十三日からは亀ノ丁西土手町の亀鶴亭に乗り込んだ。さらに同月二十四日から場所を上亀ノ丁万来亭に移したが、此処では義太夫の松鶴一座との合同興行で、写し絵のほか義太夫、常磐津、浮れ節などの公演を行なった。

 万来亭の写し絵興行から三ヵ月後の明治十九年四月末に俵屋火事が起きて、末広座を始め亀鶴亭、万来亭等すべての興行場が焼失し、その後、写し絵興行を報じる新聞記事は暫く途絶えることになる。二十一(一八八八)年一月に末広座の跡地に栄太楼座が新築された際、開場幕開きに、浄瑠璃、講談に加えて大写し絵を予定していたが、器械が整わず中止されたという。

 明治三十五(一九〇二)年十月になって、「秋田座において花川藤正一座により写し絵芝居が興行された」と、久々の写し絵を秋田日日新聞が報じている。写し絵芝居という呼び方は気になるが、写し絵を影絵芝居と呼ぶ地方もあったという。
 初日の出し物は、式三番叟引抜早替り、鍋島猫騒動、浮世百物語、東京両国川開き煙火打揚等であった。大阪では写し絵を錦影絵と言うが、昭和六(一九三一)年に上方郷土研究会が主催した錦影絵の出し物に、式三番叟、牡丹灯籠、中ノ島大花火などが演じられており(注2)、凡そは秋田座の出し物と似ているから花川一座は上方系と思われる。新聞で見る限り秋田での写し絵興行は、この秋田座公演が最後である。

㈢影絵

 写し絵と類似の見世物に、影絵や影芝居があり、江戸末期から明治期にかけて流行した。秋田では切り抜きの影絵が盛んで、これを写し絵と呼び、子どもたちに人気があったようである。

 大正三(一九一四)年九月六日付秋田魁新報の特集記事「秋田市の昔話」には、県庁舎が新築された明治十三(一八八〇)年頃の写し絵について
 「町の子供は半紙を裏打ちして人や獣を描き、之を彫りて墨を黒々と塗り、薄紙で障子を張り之を写したものだ。石塔が割れて亡魂が出て坊さんは吃驚した絵、按摩さんが犢鼻褌の端を犬に噛じられた所、桃太郎一代記などで、この時分は、今の幻灯や活動写真のような花やかなものは無ったため、大当たりであった。場所は家の垣根に櫓を拵え、その上で写すと、時節は夏時なるため多数の男女子供は見物に来る、大喝采を博したものだ」
と記している。

 右の記事とほぼ同様な影絵の紹介が西宮正男著「秋田市手形郷土史」(注3)にも載っており、「写し絵は、半紙を裏打ちせし厚紙に、種々なる人物や動物を描きて、これを切り抜き、墨を黒々と塗り、蝋燭火によりて、これを木枠縦一尺横二尺位に造り、最も薄き紙を張りし窓に、写絵するものにして云々」とある。

 さらに、明治三十五(一九〇二)年八月二十日付秋田魁新報に、「市の秋」と題し秋田市の風物を描いた記事の中に「白木を以て櫓を仕つらい、太鼓を打ちて児女を呼び寄せ、工夫の写し絵を顕して慰むさま、幻灯のある比し古風にし」とある。切り抜き影絵は明治年間を通じて行なわれたのであろう。

2 幻灯の初公開

㈠幻灯の発明・輸入

 一六四六年(正保三年)に、ドイツのアタナシウス・キルヘルがローマで世界最初の幻灯ラテルナ・マギカ(魔法灯)を公開した。平凡社刊「世界大百科事典」によれば、それはレンズの外に種板を置いて正立像を写し出すものであったが、その後改良されて現在のようになったという。ヨーロッパでは十七世紀の中頃からキリスト教伝道師が布教の道具として使った。

 一八三九年(天保十年)に写真術が発明され、ガラス板の湿板写真になって、これを幻灯に利用し人物、風景など実写映像が写された。十九世紀後半、ヨーロッパは幻灯の黄金時代で、パリのサロン、キャバレーなどでは盛んに幻灯会が行なわれ、特に奇術師たちは幻灯を巧みに応用し、千変万化する不思議な映像に観客は驚喜喝采したといわれる。

 幕末の嘉永六(一八五三)年七月、幕府の役人が、来航中のロシア艦船内で初めて幻灯(影戯と呼んだ)を見せられたが、その内容については嘉永明治年間録に「其仕掛は我国の如く障子の影に非ず、竪一間計横三間余にカナキンの木綿を張り、象、草木、禽獣、海防砲台等を映出して見せしむ」と記されているという(注4)。

 西洋で流行の幻灯が日本に初めて入ったのは明治七(一八七四)年(注5)である。この年十二月、文部省の手島精一技官がアメリカの留学から帰朝した際、幻灯器と幻灯画(スライド)を持ち帰った。幻灯画は、ガラス板で、天文十七枚、自然現象十二枚、人身解剖二十枚、動物二十一枚の計七十枚であったという。
 マジック・ランタンを「幻灯」と和訳したのは手島精一といわれるが、帰朝後は、東京博物館長などの要職を歴任してから東京高等工業学校長を務めた。明治三十四(一九〇一)年六月、秋田県教育会の招きにより来秋、県会議事堂において五百余名の聴衆に対し、実業教育の問題点等について講演を行っている。

 幻灯という言葉が定着するまでは、写し絵、西洋影絵、影画灯或は幻灯写し絵などと呼ばれることもあったが、文部省の幻灯器械普及の方針もあって間もなく自然に幻灯と統一された。幻灯画については、一般に種板、映画、幻灯板、幻灯画などゝ呼ばれていたが、公式の呼称は、はじめ「映画」(活動写真フィルムは活動画と呼称)で、後に「幻灯映画」と名づけられた。(大正二年五月、秋田魁新報に掲載された日本活動写真株式会社(日活)の広告には、「活動写真機械及びフイルム」「幻灯機械及び映画」とある)

 活動写真が映画といわれるようになった大正期においても、公式には幻灯映画であり、明治四十四(一九一一)年に文部省の定めた「幻灯映画及活動写真フイルム審査規程」は、大正二年に「認定規程」と改めた後、大正十二(一九二三)年になって、これを全文改正したときも、規程の題名は「活動写真フイルム、幻灯映画及蓄音機レコード認定規程」であった。

 記録にある最初の幻灯の公開映写は明治八(一八七五)年七月で、東京の朝野新聞は、麹町三番町に寄留する二人の西洋人が、毎夜住民に幻灯を見せ評判になっていることを報じている(注6)。国産の幻灯が普及するまでには、外国人による幻灯会が多かったものと思われる。

外国人が幻灯を見せる――朝野新聞 明治八年七月七日
三番町八番地に寄留する西洋人が両名にて、去る二日より毎夜十時頃まで写し絵の見世物を出しければ、見物人
が珍しがりて我も我もと見にゆきけるに、その玄関の正面には写真道具のような箱を据えおき、その中へ火を灯して写すと、画は向こうの壁に映るとの事なり。英国の龍動府(ロンドン)の景色をはじめ有名の戦場や古跡名所等を並べたて、日本語にてそれに講釈をなし、終わりに今晩はこれきり、また明晩お出なさいと至って親切にて、講釈もよく分かるとの事。
(鈴木孝一編「ニュースで追う明治日本発掘・第四巻」)

 明治十一(一八七八)年には遂に日本製の幻灯が出現し、輸入品に頼らずに国産品を全国に普及することが可能になった。製作者は東京浅草吾妻橋畔の写真師中島待乳である。
 中島はレンズについて研究し写真機を自作していたが、当時洋画の研究をしていた妻園子から彩色の助力を得て、待乳園式幻灯を完成した。この幻灯の声価は海外に知られたという(注7)。
 石井研堂著「明治事物起源」には、文部省は当時の写真業者鶴淵初蔵と中島待乳の両名に外国品を模造させたとの記載がある。

㈡秋田での初公開

 秋田で幻灯が公開されたのは、明治十六(一八八三)年、秋田楢山表町の教会で、フランス人のベルリオーズ司教によりロウソクの光で写されたのが初めてとされる(注8)。さらに、この年六月には、土崎港町及び秋田寺町三津座において帰天斎正一が手品の興行を行っており、その際に幻灯が使用されたことは前章で述べた通りである。

 明治十七(一八八四)年に宣教師ガルスト師夫妻、スミス師夫妻が秋田に来て、幻灯を布教に利用したことが「秋田県興行史―映画街・演劇街」(前出)に載っている。また、同十八(一八八五)年六月には、奇術師歌川トシマロが秋田の万来亭、勇明亭及び新城町寄席において幻灯を応用した奇術を演じ、観客がその不思議さに驚嘆したこともすでに前章に述べたところである。幻灯が考案されて最初にそれを利用したのはキリスト教伝道師であり、次が西洋手品師であったというヨーロッパの歩みが、時代を超えて秋田でそのまま再現されていたのは興味深いことである。

 なお、明治時代、写し絵の光源には種油か胡麻油を用い、明治三十(一八九七)年頃から石油ランプになったというが、幻灯には明るさの強力なものを使用する必要があり、パラフィン灯(ロウソク)ばかりでなく、最も多用されたのは石油ランプであった。その後、さらに光力を増強するため、電気を使用するまでの間は、酸素ガス(後、アセチレンガス)を石灰に吹送して点火する石灰光が用いられた(注9)。


★第二節 幻灯の教育利用

1 教育幻灯会

㈠教育会による幻灯会

 明治十二(一八七九)年頃になって、東京では幻灯の教育的な利用が漸く注目されるようになってきた。朝野新聞は、同年一月、メンデンホールという外人が磁石指北針の講義に幻灯を用いて「高尚の理を平坦に説き、婦人童児にも分り安きようになせるを以って聴く者皆感じあえり」と報じた。
 同年十二月には、郵便報知新聞(東京)が夜学生徒の授業に幻灯を利用している状況を報じて「教員(幻灯の)傍らに起ち、詳らかに説示するを以て丁稚小僧輩にもよく解りしならん」と賞賛している。

 明治十三(一八八〇)年、文部省は幻灯の教育的活用を推進するため、これを全国各府県の師範学校へ奨励品として頒与することにした。鶴淵初蔵と中島待乳の製作した国産品を買い上げ、三年間にわって順次配付している。だが、十六(一八八三)年になって予算の欠乏により中止されたため、全部には行き渡らなかったと思われる。
 しかしながら、幻灯の普及とともに、これまで経験したことのない写真による具体的事象の拡大映像の魅力は人々の心をとらえた。ここから幻灯の教育的効果に期待する一般の考え方が急速に浸透していく。

 明治十八(一八八五)年二月には、東京に会員組織による日本教育幻灯会(会長鶴淵初蔵)が発足するなど、各地で教育を冠した幻灯会が開かれるようになった。二十二(一八八九)年頃から地方の小学校等にも普及しはじめ、全国的に幻灯会は大流行となった。

教育幻灯会始まる――東京日日新聞 明治十八年二月二日
本日は点灯時刻より午後十一時まで浅草井生村楼にて、日本教育幻灯会の第一回を開かれ、辻文部大書記官、三宅大学医学部長、順天堂佐藤進君、英人デニング氏等も出席せらるる由なり。学童の智識を発育し才能を増進するに、幻灯画をもって諸般の現象を目前に映写してこれを説明するは、もっともその効用あるべしと思わるるなり。
(鈴木孝一編「ニュースで追う明治日本発掘・第四巻」)

 十八年十一月七日、秋田教育義会は、秋田師範学校体操場において講演と幻灯の会を開催した。昼間は二名の教諭による講演と、付属小学校生徒のオルガン伴奏による唱歌を行った。夜に入り、幻灯を用いて生理、天文、地理等の講義を行なった。聴衆は会員及び会員の紹介した者、合わせて約百六十名を数えた。
 これが好評であったことから、十二月に再び師範学校を会場に第二回目の教育談話と幻灯の会を開催している。

秋田教育義会
兼て広告ありし如く同会は去る七日秋田師範学校体操場を借受開会したり。教育談者には(囲繞空気の為に使配せらるる勿れ)二等助教諭岡本時亮氏、(秋田県の教育を論じて有志者に望む)一等教諭久保田貞則氏の談題を演説せらる。終りてオールガンを奏して附属小学校生徒の唱歌あり。夜に入りて幻灯器械を用て生理、天文、地理等の講談あり。又、軽気球を放つ等種々学問上の講究あり。聴衆は会員並に会員の紹介を得て参会したる者、曽我部少書記官を始め無慮百五六十名ありしと云う。且、次会に於ては更に理化学の実験、講義及び幻灯には種々の写真を用いる由なれば講学上の利益鮮少にならざるべし。
(秋田魁新報 明治十八年十一月十日)

 翌十九(一八八六)年は、秋田町に大火があったほか、コレラ、天然痘の流行で集会が禁止されるなど悪条件が重なり、幻灯会などの目立った動きはなかった。  

 二十(一八八七)年十一月、山本郡教育会の第一回常集会が、能代の渟城高等小学校において開催された。昼間に議事を終了した後、夜七時から教育幻灯会が開かれた。新聞には「参観人三百有余名最も盛会なりし」とある。
 同会は二十二年四月の常会においても夜に教育幻灯会を開催し、日食月食、台風、竜巻、ワシントン、楠公決別の図等を映写した。さらに、二十六(一八九三)年度の常集会においては、代価五十円の幻灯器械を寄付金により購入することを決めている。

 二十(一八八七)年十二月には、平鹿教育会の常集会が横手高等小学校において開催され、郡内の教員から応分の拠出金を集めて幻灯器を購入し同会に備え付けることを決議した。同会が二十二(一八八九)年十一月増田村の小学校で開催した幻灯会には、同村蚕種検査所寄贈の蚕桑病理の幻灯画も映写され好評であった。
 二十一(一八八八)年には、北秋田郡教育会が米内沢小学校及び大館高等小学校において、また、仙北教育会が大曲高等小学校において、それぞれ集会後に教育幻灯会を開いた。また、由利郡教育会では同年十二月に幻灯器械を購入し、その後郡内各地で教育幻灯会を開催した。二十三(一八九〇)年には、南秋田郡教育会が発会を記念し土崎港町の芝居小屋で教育幻灯会を開いている。
 二十五(一八九二)年十二月、河辺郡教育会が新屋小学校で開催した教育幻灯会には、凡そ九百名が集まり校内階下は立錐の余地もなかったという。なお、「北秋田郡教育会五十年史」(昭和十二年刊)には「明治二十五年頃より幻灯機械を各学校に貸付し児童父兄に観覧せしめ、智徳の開発と向学心の涵養に努めたが、中々申込み多く回覧順番は抽選で日割を定むる状態であった。」とある。

㈡教育団体等による幻灯会

 明治二十一年以降は、通俗教育を目的とした教育関係団体による幻灯の利用も活発に行われるようになった。仙北郡では二十一(一八八八)年四月、大曲村(後、町となる)に教育団体の共攻会が組織され、本誓寺において学術演説会と併せ教育幻灯会を開催したが、幻灯会では人体に関する幻灯画を加え、赤星敬次郎医師がその説明に当たり非常に好評であったという。前後して、六郷町の六郷学術研究会が同様の学術演説幻灯会を同町及び角館町で開催している。

 同二十二(一八八九)年には秋田市の手形立効会並びに南秋田郡広山田村の青年団体進徳会が夫々幻灯を利用した学術演説会を開いた。
 二十一年一月、秋田の達磨座において延四日間にわたり教育幻灯会が開催された。杉本勝二郎という個人の主催であるが、会場が寄席であることから有料興行(興行主は達磨座主)であろう。ドイツから輸入した幻灯画が映写され、各日とも満員で木戸を閉める程であったという。この幻灯会は好評で、同年二月には横手寺町光専寺において開かれ来会者五百余名を数えたが、ほかにも土崎港町から招請の報道もあり、県内各地で開催されたと思われる。

教育幻灯会  去二十一、二十二の両日は兼て記したる如く、庁下茶町扇ノ丁なる達磨座に於て教育幻灯会を催うしたり。開会は午後六時にして、両晩とも風雪の厳重なりしに関わらず、観客は陸続と出掛け意外の大入にて頗ぶる盛況なりき。扨て其模様は、杉本勝二郎氏が会主に代りて開会の趣旨を簡単に演述され、了りて拍手喝采の間に順次映写するものは、世界の名所、古跡若くは古今に名だたる英雄豪傑の真肖にして、事々物々真に迫り、宛然相接するが如く、喝采の声は万坐を轟かせり。殊に杉本氏は一ゝ説明を加え、西洋美術の進歩と日本美術の優劣を対照し、且又た抱腹絶倒なるを交えて巧みに世間を諷戒するなど、歓笑の間、自ら観客をして感動せしめたるが、唯だ水中動物の映写と化学の作用のみ甘く出来さりしは中々遺憾に思われたり。当時は徒らに祭文とか浄瑠璃とか青年子弟の為め豪も有益ならざる興行のみ流行の場合に際し、斯くの如き催しありしは教育上蓋し有益のことにて甚だ嘉賞の次第なり。
(秋田日日新聞 明治二十一年一月二十四日)

 教育幻灯会の名を冠した興行は、二十二年六月に秋田市の富貴座においても行われたほか、七月には長栄座において、東京日本橋の歌川国竹が中島待乳の製造した幻灯器を用いて興行した。英雄豪傑の肖像、名所古跡の実景等を映写し、毎夜入場を断る程の人気であったが、観覧者は学校生徒が多く、特に女学生も多く見受けられたという。
 なお、「鹿角市史」(平成三年刊)には、「明治三十一年七月、大湯小学校での幻灯興業は、観客の重みで二階が落ち怪我人が出るほどの大変な盛会だったという」とある。適当な興行場が無く学校施設を借用したものであろう。

2 学校幻灯会

㈠二十年代の幻灯会

 明治二十一(一八八八)年には、いよいよ学校において学習に幻灯が利用されるようになった。
 同年十二月二十四日夜、秋田町旭小学校(現、秋田市立旭北小学校)において、同校高等科一年以上の約百名を対象に、天文、生理等の幻灯を映写し、教員が解説を行なった。理科教材の合間に、修身に関するポンチ画(漫画)も映写している。幻灯の教育効果にいち早く着目し、光源、遮光等の設備が未だ不十分で夜間に実施せざるを得ない時代であったが、生徒を登校させ、他に先駆けて映像による授業を行ったのである。

 学年合同による講堂映写会方式であるが、この試みは秋田県における近代的教具を使用した最初の視聴覚教育実践ということができよう。「東京都教育史」(都立教育研究所・平成六年刊)には、学校で幻灯を利用した事例として、明治二十二(一八八九)年八月の東京府立尋常師範学校付属小学校における幻灯会を最初に挙げているから、旭小学校は全国的に最も早い時期での実践であったと思われる。

教育幻灯会  同会は本月二十四日、旭小学校教員諸氏が催しにて、同小学校内に於て之を開く。来観者は百余名にして、同校高等一年以上の生徒なり。天文、生理等の写影をなし、一々其学理を講明せられたれば、生徒の学業に於て少なからざる利益を与え、且つ、間々修身上に関する「ポンチ」等を示されたるは、一入の感動を起さしめたりと。
(秋田日日新聞 明治二十一年十二月二十六日)

 旭小学校では二十二年九月、高等科四年生数名が理科研究の余暇活動として幻灯器械の製作を行った。この自作の器械は構造が簡単で安価であるが、市販の良器に劣らぬ性能であったという。幻灯画は、英文読本、高等読本、普通読本等から模写工夫し、永く学習に供することを考えたものであった。

 そして同年十月二十二日の夜、この器械を披露するための幻灯会が同校で開催された。参加者は教育関係者、生徒父兄等で、烈風暴雨の悪天候にもかかわらず数百名が参集した。天文、生理、修身、雑画等数百枚を映写し、四人の訓導が懇篤明晰に説明し感動を与えたという(注10)。
 なお、当時の小学校の修業年限は、尋常科が義務制で四年、高等科が四年であった。(旭小学校に初めて電灯がついたのは明治四十一年である)

 二十一(一八八八)年には旭小学校のほか、八月に、平鹿郡浅舞小学校が理科器械と共に幻灯器を購入している。また、十二月には、由利郡本荘尋常高等小学校が新築落成による開校式を行なった際、化学器械や博物標本などゝ共に幻灯器も陳列した。両校とも、有志寄付者を募って購入したものであるが、備付後の使用記録が無いのが惜しまれる。本荘小学校では二十二年十月に講堂で一般対象の教育幻灯会を開いた。

 二十二(一八八九)年九月の秋田魁新報に「明徳小学校高等科四年級の生徒等は今度幻灯二個を買求め、地理学、理化学等の幻灯を使用し、生徒交番にて説明し、大いに教育の進歩を図り居る由」との記事がある。幻灯器械はかなり高額であったから、生徒達の購入したのは子供用として販売されていたものでなかったろうか。「明治世相編年辞典」(朝倉治彦、稲村徹元編)には、明治二十二年の項に「少年用の小型幻灯機は玩具店にさえ並べられ、五十銭前後、映画(幻灯画のこと)は一枚二銭から五銭」とある。

 学校における幻灯器械の購入備え付けは明治二十二年頃から次第に進んだ。しかし、これを教科学習に役立てるため昼間に教室で使用するには、適切な幻灯画が少なく、また遮光設備等も不十分であったから、実際上極めて困難であったと思われる。
 当時の新聞報道で見られるのは殆んど校内で開催された夜間の教育幻灯会であり、観覧対象も当該校の父兄や地域住民が多く、先の旭小学校のように生徒のみを対象とした例は全くみられない。県内小学校の創立記念誌等に掲載された学校沿革史においても同様である。

 明治二十二年十月には、平鹿郡植田小学校において午後六時から教育幻灯会を開催、増田、浅舞両校教員の応援もあって円滑に映写が進み、終了したのは午後十一時半であった。観覧者は「無慮六百余名にて校内破るるが如き有様なりき」という。
 同年十一月には、南秋田郡土崎小学校において午後六時から、教員の発案による教育幻灯会が、父兄約六百名を集めて開催された。南秋田郡長も臨席して教育の重要性について演説、その後幻灯に移り、天文(地球の円体、三体運行、潮汐、月の盈虚、日月の蝕、星座)、生理(骨格、栄養器、心肺)狂画(正直な丁稚)等を校長や教員が説明した。

㈡三十年以降の幻灯会

 明治二十年代が過ぎると、衛生幻灯会が活発に開催されるようになって、学校や教育団体等が行なう教育幻灯会は少なくなった。三十年代に入ってからのユニークな学校幻灯会を挙げると、まず秋田師範学校付属小学校の三十四(一九〇一)年九月十四、十五日に開催された幻灯会である。
 児童保護者及び同校卒業生にも参観を求め、前日は男児のため、翌日は女児のためにと児童の男女別によって分けて開催した。幻灯画は歴史、地理、家庭教育、赤十字、日清戦争、北清事変等から適当なものを選択し、その説明は職員のほか、男子は尋常三年以上、女子は高等一年以上から各学年一名を選び、話し方の練習を兼ねて担当させている。

 三十四年十月八日夜、秋田市の私立福田小学校において児童及び父兄のための教育幻灯会が開かれた。この学校は、貧困のため正規の教育を受けることの出来ない児童のために、明治二十八年五月、秋田市の本間金之助が同市保戸野中町に開校したもので、三十四年当時の修業年限は四ヵ年(開校当初は三ヵ年)、教員二名(校長ほか一名)、生徒定員は百名(当初は五十名)であった。幻灯会は近隣の明徳小学校の協力援助により行われ、明徳校の校長並びに訓導二名が器材を持参し、家庭教育、地理、動物、日清戦争等の幻灯画を映写、説明し感動を与えた。

私立福田小学校の教育幻灯会(抄)
同校にては去月八日夜を以て生徒及其父兄の為め教育幻灯会を開きたるが、 ――略―― 同幻灯会には大島明徳小学校長並に佐々木訓導、松林訓導の三氏尽瘁斡旋し態々出張して交々器械の取扱及説明の労を採られ、児童善悪の結果家庭教育画の如きは頗ふる生徒及父兄に感動を与へ、尚ほ人物、地理、動物画并に日清戦争画等は見るも始めての彼等なれば、何れも非常の喜びにて至りて静かに其説明を聴取せりとぞ。
(秋田県教育会編「秋田県教育雑誌・第百十三号」 明治三十四年十一月二十日発行)

 三十四年十月十日から十二日まで三日間、土崎小学校では、初日は高等科男子、二日目は尋常科男子、三日目は女子全体と区分けし、父兄対象の幻灯会を開催した。数十枚の幻灯画を職員が交替で説明し、児童には幻灯画に対応した種々の唱歌を歌わせた。非常に好評で毎夜平均千二、三百名の来観者があったという。

 三十五(一九〇二)年一月、北秋田郡鷹巣小学校では三日間にわたって父兄を対象に教育幻灯会を開催したが、幻灯画の説明は学校職員のほか、農事試験場技師、蚕業農家、病院医師などが専門的な分野を担当して行なった。なお、同年二月に北秋田郡小学校長学事諮問会が開かれ、「幻灯会及び通俗談話会等にて向学心を喚起すること」が満場一致で決議されている。

 北秋鷹巣小学校幻灯会概況 
昨年九月校舎新たに成り、教授訓練等に些の遺憾もなく稍々幸運に向いつゝあり。曩には家庭と連絡を計りて父兄会を開きしが、去二十三日より引き続き三日間教育幻灯会を催しぬ。二十三日は来会者七百名以上に達し流石の大講堂も殆んど立錐の地だもなく階上なるを以て其の危険を慮り中途にして階下体操場に移すの止むを得ざるに至りし程なりき。翌日は大吹雪のためか少かりしもなお三百名以上に達し、其翌日二十五日はまたも五百名以上の大数に至り三日共頗る盛景を極めたり。映画中、家庭教育、物理、天文、自然現象等に関するものは森川学校長、勧業に関するものは多田農業試験場技師及び成田獲治氏、欧州教育、大家史伝、終身、歴史に関するものは鈴木訓導、蚕業に関するものは谷田部佐兵衛氏、生理に関するものは菅野、貝塚(病院)の二氏、地理、景色画に関するものは三沢訓導、交互其の説明の任に当り、又、森川校長は映画中父兄に対し国家教育の趣旨、学校の主義方針、訓練等に関する談話を爲せりという。
(秋田魁新報 明治三十五年二月一日)

 四十(一九〇七)年、秋田県教育会においては「小学校理科教授要項」を発表したが、高等科第三学年の第二学期における教授事項の中に「幻灯の構造作用使用法」が取り入れられていた。翌四十一(一九〇八)年四月には、小学校令の改正により尋常科六年制、高等科二年制となったことから、「理科教授要項」も改められ、「幻灯器の構造及び作用」を高等科第二学年第一学期において教授することとし、時数は写真器の構造作用と合わせて二時間、教具として種板、幻灯器、同説明図を準備することが指示された(注11)。

 以上のほか、鹿角郡大湯小学校の創立百周年記念誌(昭和四十九年発行)には「明治三十一年七月六日、二階で幻灯会の最中、二階墜落、負傷者生ず」の記載がある。詳細は明らかでないが、狭い教室に大人数の児童を詰め込んだことによる事故であろう。

㈢幻灯師による幻灯会

 明治三十三(一九〇〇)年、北秋田郡西館村笹館尋常小学校の学校日誌の六月二十六日には「教育幻灯師筒井新太郎ナルモノ幻灯イタシタキ旨申込アリ」、六月二十八日には「午後八時半頃ヨリ筒井新太郎ナルモノ教育幻灯ヲ始メ仝十二時頃退散セリ」とある(注12)。また、同年十月一日には由利郡下川大内小学校でも同じ幻灯師が教育幻灯会を開いている(注13)。幻灯師とは、幻灯器械と幻灯画を携行し、学校等を巡回して、幻灯の映写、説明を行って報酬を得ることを生業としている者をいうのであろう。

 三十五(一九〇二)年四月、雄勝郡西馬音内小学校では、由利郡へ向う途中に立ち寄った幻灯師筒井新太郎に頼んで教育幻灯会を開催している。筒井幻灯師は香川県人で前二校のときと同じ人である。同校ではその報酬を支払う予算が無く、教育篤志家から義捐金を集めて賄ったという。幻灯会は午後七時から体操場で行なわれ、社会教育、家庭教育、各地古跡、日清戦争の偉勲軍人等を映写説明し午後十一時に終了した。百坪の体操場に老若男女約三百人余が集まり立錐の余地がない程の盛会であった。

 三十七(一九〇四)年五月には南秋田郡飯田川小学校において、各町村を巡回していた大館の幻灯師石井某による幻灯会が行なわれた。村の有志が主催、会費十五銭で三百人程が集まり盛会であったが、会場が狭隘で入場できない若者達が乱暴を働き、校舎の窓ガラスを割って怪我人を出すという騒ぎを起している。

 同じ三十七年五月、由利郡平沢町では青年達が本荘町の幻灯師菊地某を招き、平沢小学校で幻灯会を開催した。体操場に一千名余が参集し、日露戦争の幻灯画数十枚を映写したほか、時局演説や生徒の軍歌等があって散会は夜十二時であった。当夜の経費は学校職員、生徒並びに町有志の寄付金により支弁している。このように、明治三十年代には幻灯師が県内で活動しているが、その人員、居住地等の実態も、稼働状況も不明である。

3 通俗教育幻灯会

㈠通俗講話会との併催

 秋田県においては、明治三十五(一九〇二)年頃から通俗教育(社会教育)のための講話会(講談会または講演会ともいわれた)が開かれていた。また三十八(一九〇五)年になって、通俗教育講話会に幻灯会を併催するようになった。
 同年十月、雄勝郡教育会では院内町信翁院において、第一回通俗講話会を開催し講話後に幻灯を行なった。しかし、多数の観衆が押し合い危険となったので幻灯会は半ばで中止されたという。

 三十九(一九〇六)年二月、文部省は日露戦争の終結に当たって、全国の地方長官あてに「戦役中に各地方で特別に開催された通俗講談会、幻灯会等は教育上多大の利益を与えたので、今後もこのような行事を継続して益々拡張普及せしめること」を通知したが、これを受けて県は、国の指示どうり通俗講話会や幻灯会等の継続拡張について、郡市長あてにはこれを奨励するよう、各県立学校長あてにはこれを取り計らうよう通達した(注14)。
 こうして通俗教育のための講話会に伴う幻灯会が全県的に展開されることになったのである。

 四十(一九〇七)年十一月、山本郡教育会では、郡内の町村を四区分した各部会ごとに、それぞれ開催要領を定めて通俗講談会及び幻灯会を実施した。例えば第一部会では、
①通俗講談会及び幻灯会は、本部会内各小学校に於いて向番に開催するものとす。但し、部内を二部に区分し、各部の一週を以って一回とし、毎年二回開催すること。其の区分順序等は会長之を定む。②講談者の嘱託及び幻灯器械の借入等は、会長之が任に当たる。③開催地小学校長は、二日以内に状況を会長に報告するものとす。④開会に要する費用は部会の負担とす。但し、不足は当番町村にて支弁するものとす。⑤幻灯器械一校の留置期間は一週間以内とす。
という内容であった。

 四十四(一九一一)年三月、秋田市の第五回通俗講話会が明徳小学校体操場で夜六時半から開催された。来賓として森知事ほか旅団長、県会議長等が出席、聴衆は六百名を数えた。渡辺県農会技師、山本明徳主事の講話のほか、米人ベテンジヤーの「米国に於ける家族生活」と題する講話などがあった後、佐々秋中教諭が「バクテリアの話」について幻灯を使って説明を行なった。最後に小花鉱山学校長の「世界の鉱山額分布の状況」の講演があって、盛会裡に九時半閉会した。

㈡県委員会の計画

 四十四年五月、文部省は、社会教育の振興を図るため、同省内に学識経験者による「通俗教育調査委員会」を設け、委員には新渡戸稲造、手島精一ら二十五名を任命した。
 同年七月には委員会の事業を三部に分け、「第一部―読物の選定、編纂、懸賞募集、通俗図書館、巡回文庫、展覧事業等に関する事項、第二部―幻灯の映画、活動写真のフィルムの選択、調製、説明書編纂に関する事項、第三部―講演会に関する事項並びに講演資料の編纂及び他部に属せざる事項」とする部会規則が定められた。
 同年十月に「幻灯映画及活動写真フイルム審査規程」(明治四十四年文部省告示第二百三十八号)が発表されて、通俗教育に使用する幻灯画については申請により審査のうえ、適当なものを認定し公表することになった。

 四十四年七月、秋田県では文部省の補助を受け「通俗教育委員会」を発足させ、委員会の提案に基づいて通俗教育講演会を開催することになった。会長は内務部長とし、委員には県吏員、県立学校長、新聞社員等を嘱託した。七月十八日最初の委員会を開き、通俗教育講演会開催の方針として、
 ①各郡市に凡そ三ヵ所開催すること。②昼間の開催を主とし、地域の状況によって夜間も開くこと。③先ず幻灯及び蓄音器の種板だけを購求し、幻灯器、蓄音器は他より借用し、なお調査のうえ将来を期して活動写真機をも購求すること。(種板の購求は県にて選択し委員に諮りて購入すること)④講話の種類をおおよそ産業、道徳、衛生、理化、法制経済、音楽、社会の七目位とする。
等を決め、各講師の分担についても次の通り割り当てを行なった。

産業―石川老農、福士試験場長、渡辺県農会技師、中川陸羽試験場長
道徳―小山、樋泉両師範学校長
衛生―西山医師会長、宇野秋田病院長その他
理化―石黒工業学校長、各県立学校理化学教諭、鉱山学校職員等
法制経済―県庁各高等官その他
音楽―県立学校音楽教師その他社会―新聞社員等 

 県では右の方針に基づき通俗教育講演団を組織し、四十四年八月七日から二十一日までに県内二十四町村において通俗教育講演会・幻灯会を開催した。各会場とも盛会で、特に幻灯会には多数の観覧者が集まり、増田町千五百名のほか、土崎港町、船越町、六郷町、角館町、花輪町でも千名を超える観衆が会場に溢れた。

土崎の講演会
 県教育会の通俗教育講演団岩元事務官、藤井県視学等の一行は、七日午後二時半より、土崎男子部小学校に於て第一回講演会を開けり。当日来聴者は約三百名の多数にのぼりたるが、定刻に至るや藤井氏先ず開会の趣旨を述べ、終るや西山医学士は「肺病」に就て、永田当連隊少佐は「平戦両時に於ける軍隊の業務」に就き、渡辺本荘中学校長は「国民道徳と我が国の位置」に就き、真崎同校教諭は電磁石の実験談を実地に就て試みられ、最後に岩元事務官の閉会の辞ありて、各自退散せしは午後七時にして頗ぶる盛会なりき。夜は八時より同校に幻灯、蓄音機を以て昼間同様に開会せしが、来会者千余名にて、さしもに広き同校も殆んど身動きの出来ざる程の人出なりしなり。斯くて教育に関するもの数十種、模範的町村の自治実況を撮影する事数十種の多きありしが、孰れも来会者に多大の趣味と感動を与え、午後九時半頃閉会退散に及べり。
(秋田魁新報 明治四十四年八月九日)

 明治四十四年十一月、県は文部省の通達に基づき内務部長名により、各郡市長、県立学校長、図書館長等あてに通俗教育普及のための通牒を発した。公私立学校における通俗教育実施に関しては、

①各学校において学校教育上妨げなき限り、続々通俗講演会、展覧会、幻灯会、活動写真会等を開き、父兄母姉は勿論、広く一般公衆をして之を聴講観覧せしむること。②通俗講話会においては、理科に関する実験を行い、又は、幻灯、活動写真、蓄音機を用うる等、通俗教育上最も趣味に富み、兼て娯楽を供するの工夫を凝らすこと。③各学校の職員をして、事務の余暇、成るべく其の地方における通俗教育の普及発達に関し尽力せしむること。
等を指示した。

 通俗教育講演団は、四十五(一九一二)年一月四日から十二日まで、十六町村において、冬期休暇を利用し再び通俗講演会、幻灯会を開催した。各会場では幻灯の合間に、レコードによる音楽や理科の実験を行なうなど夏期の場合とは異なる工夫があった。夜の幻灯会は、院内町千五百名、西馬音内町千二百名、大久保町千余名など各地とも盛会であった。

 翌大正二(一九一三)年二月、県通俗教育委員会が県庁で開かれ、通俗講演会の効果的な在り方について議論したが、昼間の講演会に続く夜間の行事は、従前の幻灯会に替えて蓄音機及び活動写真(映画)を供することに協議がまとまった。講演会は二月下旬から始められ、夜のプログラムには、幻灯を加える若干の町村もあったが、総ての会場において挙って映画が上映され好評であった。教育部門においても遂に幻灯の時代は終焉を迎えたのである。 
 

第三節 衛生幻灯会の推進

1 赤痢予防幻灯会

㈠伝染病の発生

 明治七年に手島精一が外国から持ち帰った幻灯画の中に人身解剖二十枚が入っていたが、その後、我が国でも人体の生理、衛生に関する幻灯画が製作された。したがって前述の数多い教育幻灯会では、決まってこれらが映写されていたのであるが、特に衛生をテーマとして幻灯会を開くというものではなかった。

 ところが、明治十九(一八八六)年には、秋田県にコレラ、天然痘が爆発的に蔓延し県民を恐怖におののかせ、翌二十年にも天然痘が前年同様に流行し、伝染病予防にかかわる衛生問題が大きな課題となってきたのである。
 さらに、同二十三、二十四年には腸チフスが流行し、両年ともに患者数が一千名を超え、死者数も合わせて五百名余に達した。

 このような伝染病の発生状況から、秋田市医師会では明治二十五(一八九二)年、市民の衛生思想の喚起を図るため通俗幻灯衛生講話を行っている(注15)。これが衛生幻灯会の最初であろう。

 劣悪な衛生状態、特に不潔な生活環境は、古くから疫病を蔓延させてきた。赤腹(アカハラ)病とよばれた赤痢もその一つである。内閣統計局の資料が始まる明治十二年の本県の赤痢患者数は百四十四名(死者数不明)で、その後は、十九年に三十三名(死者十名)を数えたほかは、年間発生患者数二~八名で推移していた。だが、二十七(一八九四)年には突発的に赤痢が発生し、三年間にわたって大流行したのである。
 たちまち二十七年千八百三十一名(死者三百十四名)、二十八年千八百十八名(死者三百六十七名)、二十九年千八百五十三名(死者三百八十六名)という恐ろしい状態になった。
 このため、医師会や医療機関を中心として、予防措置は勿論、幻灯等を利用しての衛生啓蒙活動も活発に行われたと思われるのであるが、明治二十七年から三十二年までの間は、秋田魁新報が一部分を除き殆んど保存されておらず、資料不足からその状況は明らかでない。

 明治三十(一八九七)年四月に「伝染病予防法」が公布された。秋田県では同年十二月「衛生組合規則」及び「伝染病予防法施行細則」を定め、同三十一(一八九八)年には県警察部内に衛生課を新設し、本格的な伝染病予防行政と同時に、新たな衛生指導体制がスタートした。

 三十二(一八九九)年には再び赤痢流行の兆しがあり、腸チフスも減退しないことから、県は訓令「伝染病予防実行要項」を発して予防の徹底を期することにした。「鹿角市史」(平成三年刊)によれば、伝染病予防等を目的に組織された北鹿連合衛生会では、同年十二月に毛馬内小学校において衛生幻灯会を開催している。

㈡渡部広晋の活躍

 明治三十三(一九〇〇)年に入って、衛生幻灯会は全県的に広がりをみせるようになった。特に秋田市においては衛生講話会や衛生幻灯会が活発に開かれたが、その熱心な主唱者は当時の秋田市第三区衛生組合長渡部広晋であった。
 渡部は元秋田藩士であり、廃藩置県後に警察官となり、本荘、横手署長などを務めた後、秋田署において衛生関係の業務を担当、明治二十六(一八九三)年に退職し公立秋田病院の主席書記となった人物である。
 二十八(一八九五)年には、看護婦の養成と派遣を目的とした秋田看護婦人会を創立し自宅を教場にあてゝいる。同年十月、大曲町のコレラ発生時には県警察部の要請に応じ同会から看護婦二名を派遣した。

 翌二十九(一八九六)年には日赤秋田支部の看護婦養成計画に参画、養成委員(職員)となって救護看護婦の養成にも尽力し、同年八月の六郷地震には救護員と共に現地に出動して活躍した。三十一(一八九八)年には秋田市衛生組合の設立に伴い第三区組合長に推され、特に家庭婦人を対象に衛生思想の普及啓蒙に献身的な努力を続けていた(注16)。
 三十三(一九〇〇)年からは他組合長と力を合わせ、医師を講師に招き、市内の学校、寺院、劇場等を会場にあて、講話や幻灯会を活発に開催し公衆衛生に力を注いだ。

 三十三年四月から秋田市において渡部広晋等の主唱による通俗衛生講話会が始まり、五月十七日には秋田市寺町の秋田座において衛生幻灯会が開催された。映写された幻灯画は二十題で、
”①食物の胃中に停滞する有様 ②腐敗物及び生煮を食したる有様 ③不熟の果実を食したる有様④病者の寝室不潔より病毒伝播の有様 ⑤病毒の用水地下に潜入する有様”
等であった。年度が変わった最初の幻灯会として、整った会場である劇場を選んだと思われるが、参観者は定員を超え盛会であったという。

 同年五月下旬には牛島小学校、手形町淳風会、保戸野小学校で衛生幻灯会が開かれ、県警察部が百余円を投じて新たに購入した幻灯器を使用し、新発明のガスによる光源で鮮明な映像が映写された。
 ①赤痢病原のアメーバ ②赤痢大便より蔓延する図 ③赤痢伝播の有様 ④肥料中の赤痢病毒各用水に浸入する図 ⑤赤痢村落市街一時に蔓延するの図など、幻灯画は十種が使用され、市内の医師等が分担して説明に当たった。

 秋田県警察部の久保警部長は、同年六月、地区衛生組合長の渡部広晋並びに宮沢謹三両名に対し、衛生幻灯会開催に尽力した貢献を称え、深い感謝と今後の協力を求める書簡を贈った。

 渡部広晋は、この後も衛生組合長として、衛生講話や衛生幻灯会を開催するなど、献身的に衛生活動を続け、明治四十四年三月には内務大臣から衛生功労者として表彰を受けた。秋田魁新報は「表彰された渡部広晋翁」と題し、自らの活動を振り返って記者に語った談話を二日間に亘って掲載したが、幻灯の利用を発意した当時の思い出として「(幻灯利用は)空前の成功を見るように至った」と述べている。

表彰されたる渡部広晋翁談話(抜粋)
「その後明治三十五年に至り、如何にもして衛生思想を市内に普及せしめんとて、巡回衛生講話を始むべく各開業医等に相談を掛けし所、成功覚束なしとの口実の下に到る所皆刎ね付けられる。けれども飽く迄初心を貫徹せんと覚悟し、先ず多数人を惹くには幻灯に依て説明するこそ宜けれと、当時上肴町なる某家に之が幻灯機を借り受けんと交渉したが見ん事断わられる。然るに土屋善三郎氏之を聞いて自ら貸し与うることを云われ、早速之を最初外町の学校、寺院などを会場とし開会したのに、果せるかな多数の来会者あり空前の成功を見るように至ったのである。その後は独り外町のみに止めず、内町各小学校などにも始めた所が孰れも来会者多かった。而し後ちに至り只幻灯見に来ると云う様に効力も段々薄らいで来たから、今度は幻灯だけ止して各自の講話のみを乞うことにしたのである」(注、冒頭に明治三十五年とあるが、明治三十三年の誤りである)
(秋田魁新報 明治四十四年四月二日)

2 ペスト予防幻灯会

 明治三十二(一八九九)年十月、伝染病の中でも極めて致命率が高く伝染力が強大なペストが広島に発生した。以後わずか十日ほどの間に神戸、大阪、岐阜、浜松に及んだが、翌三十三(一九〇〇)年に入って一旦終息した。しかし四月に再び大阪で発生、各地に伝播する勢いとなり、全国的にその防疫対策は焦眉の急となってきた。
 三十三(一九〇〇)年六月五日、秋田県は訓令をもって「ペスト予防要項」を定め、感染源であるネズミの駆除、ペスト発生時の市街地の検査等予防に万全を期することにした。

 赤痢予防を重点としてきた秋田市の衛生幻灯会は三十三年五月末までに十四回を数えていたが、急遽、ペスト予防を主眼とする方針に切り替えられ、同年六月十一日に、最初のペスト予防に関する衛生幻灯会が秋田倶楽部楼上で開催された。発起人は渡部、宮沢ら地区衛生組合長達で、幻灯器械は県警察部職員が持参し、幻灯画は県が新たに購入したものであった。

 はじめに渡部広晋が開催の趣旨を述べ、次に深味医師がペストについて説明した後、幻灯に移り
”①ペスト病毒輸入の事 ②病毒運搬の事 ③病毒感染の事 ④病毒協議の事 ⑤病毒撒蔓の事 ⑥病毒確定の事 ⑦ペストバチルス ⑧患者送院の事 ⑨病毒汚染物消毒の事 ⑩患者の看護と昆虫の駆除法 ⑪病毒発生地遮断の事 ⑫遮断家族診察の事 ⑬遮断解除の事 ⑭入院患者全快退院の事 ⑮ペスト艦隊襲来の事”
などの映写画面について西山医師が精細に説明を行なった。

さらに赤星医師、木田医師が追加説明を行って午後十一時頃に閉会したが、知事夫人をはじめ主として中通り地区の住民四百余名が参集し盛会であった。ペスト予防の幻灯会は、二日後に再び倶楽部において亀の丁通り住民を対象に先と同じ要領で開かれたほか、六月中に楢山の報国館及び築山小学校でも開催された。

3 一般衛生幻灯会

㈠警察署等の活動

 ペスト騒動が一段落すると、三十三(一九〇〇)年秋口になって腸チフス、赤痢が発生してきたので、警察署や渡部広晋等の計画により再び市内各所で幻灯会を開催することになり、十月四日、その第一回を楢山長泉寺で開き、その後、楢山迎信寺、手形闐信寺など寺院の会場が続いた。

 十月十日には劇場長栄座において市及び衛生組合長等の主催による衛生幻灯会が開催された。参観者は千人を超え場内に溢れたが、子供を入場させず、男女を入り口から座席に到るまで厳重に区分けし、ランプ燭台を充分に増やして場内を明るくするなどの措置を講じたため、全く混乱なく整然と行なわれたという。

楢山に於ける衛生幻灯会の状況
市衛生組長渡部広晋、宮沢謹三の二氏及秋田市役所、警察署員の発企にて、一昨四日の夜、楢山古川新町長泉寺に於て衛生幻灯会を開きしに、午後六時過ぎには狭からざる同寺本堂立錐の地を余さざるに到りしが、幻灯準備を為す間に於て、三神秋田警察署長は拍手の裡に迎えられ、種痘は天然痘予防に尤も必要なるは今更贅するまでもなく、不日市役所に於て接種の挙あれば、速に参集免疫の幸運を謀る可き旨熱心に演説、渡部氏は頃日開業せし助産婦境田レツ子を聴衆に紹介せる等の事あり。
やがて幻灯の準備も整いしを以て、赤星国手は腸窒扶斯に就き、会田氏は天然痘に就き、寺町善長寺住職佐藤氏は仏書に参酌精神的衛生の道を行うべきの必要欠くべからざることに就き、深味氏は赤痢病に就き予防消毒の忽諸に付すべからざることを、何れも熱心に演説されたるを以て、大に満場の同志を得たるものゝ如く、就中、深味国手は婦人聴衆に対し産婦産児の健否は産婆の巧拙に在れば、有志者挙て産婆改良に黽めつゝある結果に依り、頃日境田レツ子は大学の卒業免状を以て当市に開業し、已に完全なる器械も東京より着したれば、此の助産婦を措き新智識なき取り上げ婆さんに倚るが如きことなきを希望すとて懇ろに説く所ありしが、婦人方は一層の感に打たれたる模様に見受けられたりと。
当夜の出席者は深味、赤星、根田、木田、名古屋、小瀬の諸国手、五十嵐、近藤の二薬剤師、警察署、市役所、警察部衛生課員等にして、説明者は頗る多かりしも、夜の深更に及びしより、以上説明者の外に河野衛生課長の二三簡単なる講話ありしのみにて閉会を告げしは、発企人に於ても頗る遺憾とせし所なるも、何れ茲旬日の間には市内数ケ所に開会する筈なれば、各熱心家の説明を聴くことを得るなるべしと。
(秋田魁新報 明治三十三年十月六日)

 明治三十三年八月以降、秋田市以外においても、各警察署が主催する衛生幻灯会は盛んになった。山本郡では、八月二十九日の二つ井村では四百名、翌日の能代町米代座では千名を超える参観者を数えた。
 九月には、由利郡矢島町役場、本荘小学校、上浜村萬照寺、平鹿郡上吉田、下吉田小学校、川辺郡船岡小学校、雄勝郡湯沢町安乗寺、西馬音内町宝泉寺、仙北郡刈和野小学校、荒川村境小学校など全県的な広がりに拡大し開催されるようになった。

 秋田魁新報によれば、明治三十三(一九〇〇)年中に県内で開催された衛生幻灯会の回数は百六十三回、通俗衛生談話会百七十三回、合計三百三十六回、聴衆は衛生談話会を含め六万六千六百五十四人、説明者は医師八十四人、教員七十三人、検疫官五十七人、警察官三百七十二人、郡町村吏員百六十四人、其の他十七人で総数は七百六十七人にのぼっている。
 また、県が発表した明治三十四年衛生事務概要によれば、三十四(一九〇一)年中の通俗衛生談話会、幻灯会は三百五十四回、聴衆凡そ六万人となっている。

㈡私立衛生会等の活動

 明治三十三年頃から県内の幻灯器購入数は急激に増加している。特に各郡に結成された十を超える私立衛生会すべてが夫々一台を備え付けたのはじめ、町村、団体等を合わせ、同三十四年末までに衛生幻灯用として県内に整備された幻灯器は五十台に及んだ。

 これらの幻灯器を用いて、衛生幻灯会に限らず、教育、宗教、日赤、軍事等に関する幻灯会が頻繁に開かれ、明治三十三年から数年間、幻灯会は、秋田で初公開されて以来のブームとなった。

 三十五(一九〇二)年五月、仙北郡医会は常会を開き、年度予算に幻灯費二百六十五円を置き、郡民の衛生思想喚起のため各町村に衛生幻灯の持回りをすることを議決した。

 伝染病撲滅に対する各方面の努力にもかかわらず、県内の赤痢及び腸チフスの発生は抑えきれず、明治四十年代に入っても伝染病予防を主目的とする衛生幻灯会は活発に行なわれた。
 例えば、四十(一九〇七)年九月に、県警察部衛生課では新たに幻灯画を購入し秋田市寺町誓願寺等で幻灯会を開催し、四十一(一九〇八)年八月には、東宮(大正天皇)の本県行啓を控えて、県警務長は全県警察署長会議において衛生思想を喚起するため各町村において衛生講話会、衛生幻灯会を開催するよう指示している。

 四十二(一九〇九)年には河辺郡内において、トラホーム予防のための幻灯会を開催したことが「河辺郡誌」(大正六年刊)に見られる。
 また四十三(一九一〇)年六月、県医師会総会が鹿角郡小坂鉱山事務所で開催された際、これに出席した県衛生課員は尾去沢をはじめ郡内各地を廻って衛生幻灯会を開いた。
 四十四(一九一一)年五月には、雄勝郡西馬音内町を中心とする雄勝郡西部衛生会が、アセチレンガス二百五十燭光の新式幻灯器を購入し、各町村の申し込みに応じて衛生幻灯会を実施している。

 しかし、明治末期から大正初期にかけて、県内各地への映画進出が活発となるに従い、人々の幻灯への興味が急速に薄れ、大正二、三年頃以降は新聞にも衛生幻灯会の開催報道は殆ど見られなくなった。

西部衛生幻灯会  雄勝郡西馬音内町を中心とせる西部衛生会にて、アセチリン瓦斯二百五十燭力の新式幻灯機を購入せしが、各町村よりの開催申込非常に多く、佐藤署長は学士飯塚弥一郎氏の説明講演を懇情せられしに、同氏も公益の為め承諾せられ、田代、仙道を始めとし、去る十九日新成村に於ける幻灯会の如きは、寺院皆人を以て充たされ、来観者三百余、各自非常の熱心を以て夜の移るを知らざりし。因に記す、幻灯の種類は、学校及び公衆衛生、各種伝染病を始めとし、公徳、勤倹貯蓄、農業、養蚕、名所旧蹟、日清日露活動戦争影画等にして、小国巡査の影写技術巧妙なりしため、大なる興味を以て迎えられたり。
(秋田魁新報 明治四十四年五月二十四日)


第四節 宗教等の幻灯利用

1 宗教幻灯会

㈠キリスト教幻灯会

 秋田の幻灯が宗教活動から始まったことは既に述べたところであり、初公開は明治十六(一八八三)年のカトリック教会の司教によるものであり、さらに翌年には宣教師がキリスト教の布教に幻灯を利用している。

 明治二十一(一八八八)年になって宗教活動に幻灯を用いることが多くなってきた。同年二月、秋田英和学校では、二日間に亘り校内において一般を対象としたキリスト教演説会を開催し、夜には幻灯会を催したが両夜とも盛会であったという。同校では同年七月に再びキリスト教幻灯会を開催し、さらに十月中旬には十日間にわたって説教・幻灯会を開いた。因みに、同校は明治十九(一八八六)年に米国宣教師ジョージ・スミスが秋田東根小屋町に開校した私立学校であり、二十一年当時の生徒数は十八名であった。

 秋田市本町四丁目の基督教会堂では明治三十三(一九〇〇)年の春と秋に宗教幻灯会を開催したほか、三十五(一九〇二)年一月には毎日曜日の晩に幻灯会を開いたことが報道されている。明治三十年代、教会においては説教とあわせて幻灯会を頻繁に開いたものと思われる。

㈡仏教幻灯会等

 仏教界で幻灯を利用した最初の動きは、秋田市寺町の宗教団体崇徳会である。同会では明治二十一年四月に布教活動のため幻灯器械を発注し、七月には会員二名が南秋田郡広山田村広面(現、秋田市)に出かけ、幻灯を用いて真宗の教旨について演説し村民の啓蒙を図った。同年八月、本多澄雲が能代の長根町敬正寺において仏教演説・幻灯会を三日間にわたり開いたが、来会者は毎日二百名を数え盛会であったという。

 二十一年暮から二十二年にかけては、秋田の寄席において仏教幻灯会が開催された。先ず二十一年十二月、茶町の寄席達磨座において破邪顕正を掲げた仏教演説・幻灯会が開かれた。主催は当地有志諸氏と報じられている。また、二十二(一八八九)年五月、山口県人松岡君之助が小林昇道、菊地陽蔵を帯同し、尊皇奉佛大同団拡張を掲げて達磨座で仏教演説会を開催し、六月には小林昇道ほか数名が馬口労町神田亭で、さらに七月には、松岡、小林が上亀ノ丁万来亭で三日間、それぞれ仏教演説・幻灯会を開催した。

 二十二年八月十九日から三夜にわたって達磨座において開催された幻灯の興行は、秋田魁新報及び秋田日日新聞の双方に「愛国護法・大日本一幻灯利用・大演説会」と広告を出す大げさなものであった。弁士三人による仏教演説のほか、宗教、教育、衛生等多面にわたる幻灯の興行であるが、使用する幻灯画は「教育博物館御用幻灯師中島氏の製造した最上無類の良品」との触込みであった。
 中島氏とは前に述べた国産幻灯器製作者の中島待乳を指すと思われる。広告の幻灯画は、
釈尊御一代記(三十四枚) 釈迦八相(二十四枚) 見真大師一代記(三十枚) 日蓮大菩薩一代記(二十四枚) 印度古跡(十五枚) 二少年の栄枯(十五枚) 金のなる木(二十四枚) 飲酒家の結果(十六枚) 早婚の害(十五枚) 家庭教育(十五枚) 養蚕(二十四枚) 其の他天文 生理 妊娠 衛生 勧業 人物 動物 植物 景色 花輪車 顕微鏡画 雨雪雷光虹蜺 狂画など
総数三百数十枚に及ぶものであった。

 教育幻灯会とも言うべき内容であるが、毎夜、宗教画を主体に幻灯画を取り替えて映写したものであろう。この幻灯会は非常に好評で八月二十三、二十四日に延長再興行されたが、その際は前年七月に噴火した会津磐梯山噴火実景写真も映写された。さらに九月になってから三日間、長栄座においても同様に再興行された。
 この愛国護法幻灯興行は奥羽地方を巡業しているもので、同年十月中旬には仙北郡六郷村の有志が招聘し同町善応寺において数日開催された。新聞は「中々の盛大にて十七,八間に十間位の精舎も毎夜立錐の地なく、外に佇立して聴聞する者亦数多なる程なりし」と報じている。また、同月下旬には雄勝郡院内銀山の正楽寺において、十二月下旬には横手町の正平寺において夫々開催された。

 三十三(一九〇〇)年十二月、曹洞宗布教家の田口大機師が奥羽巡錫の途、山本郡二ツ井村清徳寺、種梅村福寿院、荷上場村梅林寺、藤琴村宝昌寺、粕毛村自福寺において、昼は説教、夜は幻灯を催して村民に信仰を説き、このあと五城目地方に向け出発したというが、翌三十四(一九〇一)年四月には、秋田市楢山長泉寺において同師による仏教幻灯会が開かれているから、師は長期間県内に滞在し各地で同様の催しを行ったものと思われる。

 日蓮宗関係では、三十五(一九〇二)年六月、秋田市寺町久城寺において日蓮宗六百五十年紀念法会を機として、日蓮聖人一代記の幻灯会を催した。また、法華宗では、保戸野蓮住寺において同三十七(一九〇四)年六月及び九月に日蓮上人や日露戦争等に関する幻灯会を開催し、三十九(一九〇六)年十月には鹿角郡花輪町本門法華宗信行会が同町本勝寺において布教のための幻灯会を開催したが、釈尊伝記、元寇反撃等々、各種幻灯画二百数十枚が映写されたという。

 三十六(一九〇三)年五月、秋田市の青年布教会(浄土宗)では幻灯器を購入し、同月から翌月にかけて市内の迎信寺、當福寺、本念寺(広山田村赤沼)及び誓願寺において仏教教育衛生幻灯会を開催した。同年八月再び迎信寺において、十一月に土崎港町の善導寺において、それぞれ同様に開催された。青年布教会では三十七(一九〇四)年においても幻灯の利用に努め、五月に長栄座、六月に誓願寺において仏教をはじめ教育、衛生、日露戦争等各分野にわたる幻灯画を用いて幻灯会を開催した。

青年布教会  予記の如く去月二十九日午後七時より登町仰信寺に於て開催せる同会第六回幻灯会の概況を聞くに、定刻、常盤祐道氏開会を告げ、次で参観者一同整粛に君が代を三唱して貴顕の御肖像を映写し奉り、終って及川無一氏教育勅語の映画につきて説明し、次で伊藤警部登壇衛生演説をなせり、氏は諸種の清潔法より伝染病予防法及び飲食物の注意等につきて演説し、佐藤観亮、渡辺広晋、伊藤警部等の諸氏交々二十余種の衛生映画につきて適切なる説明をなし、終って照井隆善氏は釈尊一代、港千代治、鈴木台専の二氏は幼学綱要、照井大善氏は四恩等各映画の説明をなし、余興画数種を映写して同十時三十分閉会せり、参観者約一千名満堂立錐の余地なき盛況なりしという。
(秋田魁新報 明治三十六年九月一日)

 秋田仏教青年団では、明治三十七年の日露戦争中から幻灯器を備えて布教活動に活用していた。三十八(一九〇五)年一月には幻灯器、幻灯画を新たに購入し、秋田市寺町歓喜寺(曹洞宗)で開かれた例会においてテストを行なった後、同牛島寶袋院住職沢部広瑞、同添川乗福寺住職中泉旭嶺の二名を特派して、四月には河辺郡種平村潜龍寺、五月には南秋田郡大久保村大久保小学校、払戸村福昌寺、脇本村宗泉寺、男鹿中村瀧川寺において幻灯会を開催している。

 右の秋田仏教青年団では、三十年代は郡部のみを対象として巡回していたが、四十一(一九〇八)年一月には川尻村一乗院、歓喜寺、楢山満福寺において、宗教、教育等に関する幻灯会を開催した。また、四十三(一九一〇)年二月、秋田市の曹洞青年伝道会では、寺町妙覚寺において釈迦如来誕生から入涅槃までを描いた幻灯会を開催している。

 神道においては、明治三十六(一九〇三)年十月、北秋田郡東館村の敬神尊皇会が、北秋田郡内の神職等の要請により同町において幻灯会を開催し、神代の巻、官祭祝日、皇太后の大喪式の状況等の幻灯画を映写した例がある。

2 農業幻灯会

 明治期、産業振興に幻灯を活用した記録は少ないが、農業における利用例として、明治三十年十月、鹿角郡花輪町において鹿角郡勧業会が開催された際に幻灯会を開き、農事奨励に少なからず効果があったと報道されている。また、河辺郡農会においては明治三十四年以降数年間、害虫駆除のため昆虫に関する幻灯会を郡内の各町村で開催し、専ら害虫の防除を督励している(注17)。

 この後、農業幻灯会に関する報道は途絶えたが、大正七年九月に至って、産業組合中央会秋田支会雄勝郡部会において各組合の希望により幻灯講演会を開催することになり、第一回の試みとして次の日割りによって、支会から坂野主事を派遣し開催する、という新聞記事がみられる。
 九月二日 岩崎町信用組合
   三日 三輪村貝沢赤袴信用購買組合
   四日 大戸信用購買組合
   五日 新成信用組合

 農業に関して事例となる記録の少ないのは残念であるが、明治以降に幻灯の利用が全体的に中断した後、戦後昭和二十年代になって農業改良普及分野で幻灯が極めて活発に用いられたことを思えば、明治期においても農業における幻灯の利用は少なくなかったものと思える。

3 赤十字幻灯会


 人類愛に基づく救護活動を行なう団体として、明治十(一八七七)年西南戦争のさなかに創設された博愛社は、同二十(一八八七)年五月「日本赤十字社」と改称したが、ジュネーブ条約に加盟する赤十字団体として強固な組織を確立することが急務であった。
 地方組織として当初は各府県に地方委員を置いたが、二十九(一八九六)年七月になって地方委員を廃止し、全国に支部を置くことに改められた。そして、組織維持の要である運営の資金は、社則によって社員の納付する拠出金を以て賄うことゝされたので、財政基盤を磐石にするため社員の増強拡大を図ることが全国各支部に課せられた使命であった。

 博愛社の創設に尽力し赤十字運動を積極的に推進していた陸軍省医務局長・陸軍軍医総監(中将相当官)石黒忠悳は、社旨を普及し社員募集の効果をあげるため自らの講演に幻灯を利用した。講演の原稿を見ながら下絵を考え、画家に頼んで下絵を完成し、それにより幻灯画を製作させたという。
 講演には幻灯師を連れて各地に出向いたが、後には幻灯の操作を夫人に習わせ夫婦で巡回し、その都度に数十人、多いときは数百人の社員の加入をみるという実績をあげたという(注18)。

 明治二十四(一八九一)年七月には、浜離宮において皇后(後の昭憲皇太后)と皇太子(後の大正天皇)が、二時間余にわたり石黒の説明で赤十字幻灯をご覧になったが、このことが新聞に報道されたことから幻灯会開催の希望が相次ぎ、各支部においても競って幻灯を利用するようになった。

 二十七(一八九四)年一月、内務省の地方長官(知事)会議の際に、日本赤十字社では帝国ホテルに全国の知事を招待したが、その時に行なわれた佐野常民日本赤十字社社長の挨拶要旨が同年三月の秋田魁新報に掲載された。
 この中で社長は「赤十字幻灯会を開きし等に依り其地方社員の著しき増加したるの事実ありしは蓋し該会幻灯会の効果多きに居らずんばあらず」と述べている。秋田支部がいつ頃から幻灯会を開催するようになったかは明らかでないが、この記事は支部の運営に大きな刺激を与えたと思われる。

 秋田魁新報の明治二十七(一八九四)年七月から三十(一八九七)年八月まで、三十一(一八九八)年一月から三十二(一八九九)年四月まで、及び三十二年九月から十二月までは保存紙が全く欠けているので、その空白期間の秋田支部における幻灯会の状況は詳らかでない。保存されている明治三十年代の秋田魁新報では、先ず三十年十月六日の平鹿郡横手町における幻灯会が報じられている。
 この日、午後七時から、新築された横手高等小学校大広間において赤十字幻灯会が開催された。予め入場券を生徒及び父兄に配布していたが、先を争って入場し観覧者は二千名を超えた。熊野支部幹事が、映写された幻灯画により赤十字博愛主義の意義を詳しく説明し、大きな感動を与えたという。

横手片信  赤十字社支部長の斡旋にて赤十字社の幻灯を広く衆民に示さん為め、本月六日横手高等小学校大広間に於て午後七時より、生徒を始として父兄迄広く入場切符を渡し置き、同刻より開会したるに我先と争うて観覧二千余名の多きにて、戸村支部長開場の辞あり、後ち熊野県庁同会幹事には一々映画日清戦争の武勇談より赤十字社の博愛主義の事柄を詳演し、大に感動を与えたりし。
(秋田魁新報 明治三十年十月十二日)

 次いで同月九日、同郡増田町の満福寺において同様に赤十字幻灯会が開催され、七百名余の観覧者が集まり盛会であった。同町ではこの幻灯に感激し二十名が社員の申し込みをしている。さらに十一月には雄勝郡湯沢町においても同じように幻灯会が開かれた。会場や観覧者数など詳細は不明であるが、日赤秋田支部「百年史」(昭和六十三年刊)によれば、その結果として凡そ五十名くらいの入社申し込みがあったという。

増田通信  赤十字幻灯会は九日午後七時より増田町満福寺に開かる。秋田支部より熊野、岩間の両氏、郡委員部よりは戸村郡長、遠田郡書記出張、入場するもの殆んど七百余名の盛会なりき。是れが為め新らたに入社申込のもの二十名許りありと聞く。
(秋田魁新報 明治三十年十月二十七日)

 このほか、三十二(一八九九)年六月、仙北郡荒川村の荒川小学校で開催された赤十字幻灯会では、赤十字の真義に感動して幻灯終了後に即時数十名が入社申し込みをした(注19)。
 同年八月に南秋田郡の戸賀村等五カ村、三十三(一九〇〇)年五月に山本郡の能代港町等十三町村において赤十字幻灯会が開催された。また、三十四(一九〇一)年一月には鹿角婦人会が赤十字幻灯会を開催したことが「鹿角市史」(前出)に載っている。

 三十四年九月、日本赤十字社総裁小松宮殿下台臨のもとに、秋田市千秋公園において秋田支部の第一回社員総会が開かれたが、来会者は二千余名に及んでいる。秋田支部では、この最初の社員総会を三十二(一八九九)年九月に開催する予定で準備を進め総裁の臨席を懇請していたが、諸事情により三十四年に至って実現したものである。
 支部はもとより、各市町村関係者は総会に向けて社員の増加を図るため、三十二年から三十四年にかけては積極的に地域を巡回して赤十字幻灯会等を開催したものと思われる。

4 征露幻灯会


 幻灯映像がブームとなった明治期において、日清、日露の二つの大きな戦争があった。日清戦争は明治二十七(一八九四)年八月に始まり、二十八(一八九五)年四月に終わった。
 開戦当初の平壌の戦いから黄海海戦を経て遼東半島の占領に至る間の戦況を描いた新作の写し絵が評判となり、明治期の写し絵興行において最高の盛況を示したことは前に述べた通りである。
 この戦いの武勇伝は幻灯画にも描かれ、秋田においては明治三十(一八九七)年の赤十字幻灯会で公開されている。

 「鹿角市史」には「幻灯は三十年から始まり、日清戦争の実況を伝える幻灯が興行されていたという」とあるが、花輪町では明治三十年十月に第六回鹿角勧業会が開催された際に幻灯会が行なわれているので、この時に戦争画が映写されたのであろう。

 三十年以降も様々な幻灯会の番組に戦争画が加えられており、三十四(一九〇一)年九月の秋田師範付属小学校における幻灯会においては、日清戦争のほか、三十三(一九〇〇)年に起きた北清事変の幻灯画も取り上げられている。三十四年十一月には、秋田市の私立福田小学校の教育幻灯会及び河辺郡下北手小学校で開かれた衛生幻灯会において、それぞれ日清戦争の幻灯画が映写された。
 なお、明治三十三年十月二十八日、県教育会が、県会議事堂において一般を対象に観覧者千三百余名にのぼる海軍幻灯会を開催し、翌日は、秋田市内の師範学校、中学校、高等小学校の生徒を対象に同じ幻灯会を開いた。十一月になって、県から兵事担当者が出張し県内各地において海軍幻灯会が開催された。

 日露戦争は、明治三十七(一九〇四)年二月、仁川沖海戦、旅順口夜襲から二日後に宣戦が布告された。旅順攻撃、遼陽会戦、奉天会戦、日本海海戦等々の激戦が続いて、三十八(一九〇五)年九月講和条約が調印され、日本は勝利し大戦は終結した。
 明治二十(一八八七)年頃から幻灯器材の製造、販売を営んでいた東京新橋の吉沢商店は、北清事変の際に特派員を戦地に派遣して映画を撮影公開したが、日露戦争においても特派員を派遣し映画を製作し、あわせて日露戦争幻灯画の製作、販売も行なった。幻灯業者の提供する幻灯画は敵愾心をあおり、県内では活発に幻灯会が開催されたが、それは戦意の高まりから征露幻灯会と呼ばれた。

 開戦の翌月、三十七年三月には早くも秋田市柳町長栄座において日露戦争大幻灯会との看板で業者による興行が数日間行なわれた。幻灯画は大阪において好評を博した最新のものという触込みであったが、残念ながら映写画面が不鮮明であったという。映写された幻灯は仁川沖の海戦、旅順口の奇襲等であるが、これらは宣戦布告前の戦いであるから、その場面の幻灯画は絵画によるものであったと思われる。

長栄座  日露戦争大幻灯は時節柄大に人気を得、観客頗る多く昨夜などは千名近く、仁川港の海戦、旅順口の激戦、其他日露将校の肖像及種々なる戦争画の外に、時局と献金等に関する目新しきもの多く、それに一々委細の説明を為し、観客をして一層の敵愾心と勤倹心を奨励せしむるの値あり。惜むべきは撮影の鮮明ならざるにあり。
(秋田魁新報 明治三十七年三月二十六日)

 明治三十七(一九〇四)年四月三十日に開催された河辺郡教育会総会においては「日露戦争幻灯種板を本会において購入すること」を議決し、各町村からの出金により支払うことを決めた。
 同年五月には、雄勝教育義会総会において、日露戦争の幻灯会を各町村で開催することを議決、最初に西馬音内小学校において二夜連続で開かれ観覧者は毎夜千五百名を超えた。また、五月には、南秋田郡上井河村、由利郡平沢町等において征露幻灯会が開催された。
 その後も明治三十八(一九〇五)年九月の終戦まで、各地で征露幻灯会が開催されたほか、教育、衛生或は宗教幻灯会においても時局幻灯として戦争画が決まって映写された。

 明治三十七年五月、文部省は各府県に対し、日露戦争の時局が教育に及ぼした影響について照会したが、秋田県の回答の中には「学校に於ては時局に関する講堂訓話若くは幻灯会を為す等は勿論、云々」という一項が記されている。県内の学校では戦争の意義を認識させるため盛んに幻灯会を開催したのである(注20)。
 例えば、本荘市鶴舞小学校の沿革誌には「明治三十七年八月九日・戦時教育ノ必要上幻灯会ヲ開キ、児童ヲシテ来観セシム」とあり、体操場は狭隘なので屋外で開催し、児童父兄合わせて千五百人以上の来観者であったと記している。また、男鹿市五里合小学校(当時、五里合村)の沿革誌には「明治三十八年五月二十三日・日露戦争大幻灯会開催する」との記載がある。

 宗教界においても戦争遂行に関心を示し、三十七年五月、秋田市の青年布教会が長栄座において幻灯会を開催し、仏教画のほかに日露戦争の幻灯画も映写したほか、十月には、秋田市の神道、仏教、キリスト教等の各宗教家が合同し、市内の富貴見楼において宗教演説会並びに征露幻灯会を開催している。
 ちなみに、三十八(一九〇五)年五月、秋田魁新報に掲載された吉沢商店(前出)の映画、幻灯等の広告には「大本営陸軍幕僚御蔵版 弊店特派従軍写真班技師撮影 征露実地写真幻灯映画 三百余種」とある。

5 慈善幻灯会


 娯楽性に富み多数の人々が集まる幻灯会は、しばしば慈善運動の場として利用された。明治三十四(一九〇一)年十一月十一日、前々日から郡役所楼上で開かれていた由利郡小学校長会は、この日諮問事項に対する協議を行なったが、その中の「貧民子弟の就学に便利を与うる方法如何」という諮問に対しては、「学校外において実施すべき事項」として決議した八項目の一つに「慈善音楽会及び慈善幻灯会を開き、その収入を貧民教育費に寄付する風を起すこと」が含まれていた(注21)。

 明治三十五(一九〇二)年七月中旬から八月上旬にかけて、岐阜県の濃飛育児院による慈善音楽幻灯会が県内九町村において開催された。
 濃飛育児院は、当時岡山孤児院と並んで有名な施設で、明治二十八(一八九五)年に本部を岐阜県に、支部を東京に設置し、創立以来の収容孤児は百二十名、当時在院七十六名に達していた。
 同院では、さらに事業の拡張を図って必要に応じて各地方にも支部を設ける計画があり、教育基本金及び養育費に充当する義捐金募集のため、育児院幼年音楽隊による演奏会と幻灯会を開催したのである。

 幻灯会は、象潟町、新屋町、牛島町、土崎港町、五城目町、能代港町、鷹巣町、大館町で各一日のほか、秋田市の長栄座で二日間行われた。
 幻灯画は同院創立以来の概況など数十種で、二千燭光の電光瓦斯器を使用し、二丈(約六㍍)余の大きさに映写するものであったという。
 長栄座では会費として特別二十銭、普通十銭、小児五銭を必要としたが、来会者は二日間とも千二百名を超え、集金額はおよそ三百円であった。

慈善音楽幻灯会  明治二十八年五月初めて岐阜県に創立せられたる濃飛育児院は、院長五十嵐善広氏の苦心経営の余になりし慈善事業なるが、今回同院の少年音楽幻灯隊の一行が、目下在院児なる百有余名に代り事業拡張救養費募集の目的を以て東北各地を巡行し、今や当市に来り市内慈善者の発起に依り一昨夜より田中町長栄座に於て挙行されたるが、挙行目録の通り濃飛育児院創立時代の悲惨なる状体なりしより漸次同院の事業の拡張せられ現在の気運に至りたる間の経過をば、凡て幻灯を以て直観的に訴て慈善者の同情を引き、且つは孤児自身より皷吹する音楽の音を以て、今後益々同院の拡張を計らんとするを、見るもの志士仁人の同情を引起するもの多かりしと見受けられたり。而して幻灯の鮮明にして音楽の巧妙なるを以っても一覧に値する所なるのみならず、今回の見聞より得たる可憐なる彼等一行をして多くの満足を与えられんことを切望して息まざる所なり。
(秋田魁新報 明治三十五年七月二十二日)

 明治三十四、五年、東北地方は凶作に見舞われ、特に青森県の農家では窮乏が激しかった。三十六(一九〇三)年三月、雄勝郡湯沢町では有志の発起により、同町高吉座において二日間にわたって慈善幻灯会を開催し、義捐金を青森県の凶災救助費の一部として拠出した。
 同年七月には、青森県窮民慈善幻灯会員が、東北各地の貧民の惨状を撮影した写真を幻灯画として、秋田市の秋田座で公開している。

 三十九(一九〇六)年には、青森慈善院貧孤児教育部の一行が、一月には大館町、二月には秋田市の各小学校において慈善幻灯会を開催した。また、仙台仏教救済会が三月に横手町及び大曲町で、四月には秋田市で東北凶作救済幻灯演説会を開催するなど、同年は慈善幻灯会が続いた。

 四十二(一九〇九)年四月には、河辺郡四ツ小屋村の大火を始め、雄物川洪水による仙北郡神宮寺町の家屋流失等の災害が続いたことから、同年六月、秋田市の県公会堂において被災者救援を目的とする慈善幻灯会が開催された。
 この幻灯会は、神宮寺町の洪水により家屋、家財を失った罹災家庭の悲惨な状況を目の当たりにし、自らの貯金、衣類等を与えていた仙北郡神宮寺小学校訓導の渡部つる子の発意によるもので、慈善幻灯会実行のため、各郡の有力者夫人を糾合し発起人としての参画を懇願し、開催の準備から幻灯の説明に至るまで全て婦人達が担当したという。
 入場券は十銭で希望者に頒布し、収益は残らず救援資金に充てた。なお、渡部つる子は仙北郡愛国婦人会幹事として、同年五月に南楢岡小学校及び外小友小学校において会員募集の幻灯会を開いている。

慈善幻灯会  既報の如く一昨夜午後七時半頃より公会堂に於て開かる。五、六百名の入場者あり、渡部つる子女史開会の主旨を述べ、了りて両陛下の御真影並びに東宮妃殿下の御肖像を映出し、一同の君が代の唱歌ありて後、洪水及汽車転覆の惨状、其他種々の映画あり、暫時休憩の間尺八と琴の合奏ありて、再び幻灯に移り二三滑稽ものゝ映画ありて、最後にバイオリンの演奏や一二の映画もありて閉会せしは十時半なりき
(秋田魁新報 明治四十二年六月二十日)

 この後、慈善幻灯会は影をひそめた。すでに、明治三十九(一九〇六)年七月には、岡山孤児院の慈善活動写真会が開催されており、幻灯に代わって、いよいよ映画(活動写真)が主役となるのである。

 明治期の初めに輸入された幻灯は、娯楽を目的とした写し絵とは異なり、秋田では当初から教育、衛生、宗教など人々を啓発教化することを企図して利用され、単なる娯楽物として使用されることは殆んど無かった。しかも、明治人の、新しい時代に向って知識を求める意欲は強く、幻灯会の開催は夜間にもかかわらず、何時でも何処でも会場には人が溢れた。とは言え、ときには千人を超える人々に足を運ばせた幻灯の魅力が、大きなスクリーンに拡大映写される映像の娯楽性にあったことは論を俟つまでもない。

 だが、この娯楽性に富む幻灯も、明治三十年代から出現した動く映像である映画には敵わず、その影響を受け映画の進展と逆比例して急速に衰退した。明治四十五(一九一二)年七月三十日、明治天皇が崩御され、大正と改元されたが、その後は、大正期のはじめ頃に衛生幻灯会等が僅かに開催されたにすぎなかった。奇しくも改元に合わせたかのように、秋田の映像文化は、幻灯から映画の時代に移ったのである。

 こうして幻灯は、その光源が強力な映写ランプになり、幻灯画がフィルムスライドとなる昭和の復活が到来するまで、長い空白が続くことになる。
(後に「幻灯と紙芝居」として記述する予定。)

注1 小林源次郎著「写し絵」 昭和六十二(一九八七)年三月発行(巻末の年表による)
2 古河三樹著「図説・庶民芸能―江戸の見世物」 平成五(一九九三)年四月発行
3 秋田大学秋田県教育史研究会編「秋田県教育史研究 第三号」 昭和四十三(一九六八)年三月発行(西宮正男著「秋田市手形郷土史」は昭和二(一九二七)年六月頃に脱稿、未刊とのこと)
4 石井研堂著「明治事物起源 上巻」 昭和十九(一九四四)年十一月発行
5 「写し絵」 (前出) (「明治事物起源」の『教育幻灯の始』の項にある「幻灯の輸入は明治六年」は誤り                 
  との記載がある)
6 鈴木孝一著「ニュースで追う・明治日本発掘 第四巻」 平成六(一九九四)年十二月発行 
(朝倉治彦・稲村徹元編「明治世相編年辞典」においても幻灯について同一趣旨の記載がある)
7 朝倉治彦・稲村徹元編「明治世相編年辞典」 昭和四十(一九六五)年六月発行
8 井上隆明著「秋田の今と昔」 昭和五十二(一九七七)年七月発行
9 「写し絵」 (前出)
10 秋田日日新聞 明治二十二(一八八九)年十月二十五日
11 秋田県教育会編「秋田県教育雑誌 第百九十八号」 明治四十一(一九〇八)年三月発行
12 「秋田県教育史 第二巻 資料編二」 昭和五十七(一九八二)年二月発行
13 「大内町立下川大内小学校創立百周年記念誌」 昭和四十九(一九七四)年十月発行
14 秋田県教育会編「秋田県教育雑誌 第百七十三号」 明治三十九(一九〇六)年三月発行 
  「秋田県教育史 第五巻 通史編一」 昭和六十(一九八五)年三月発行
15 「秋田県医師会史」 昭和五十五(一九八〇)年二月発行
16 渋谷鉄五郎編「義産大和尚・衛生貢献者渡部広晋」 昭和四十九(一九七四)年十月発行
17 河辺郡役所編「河辺郡誌」 大正六(一九一七)年三月発行(昭和五十六(一九八一)年九月復刻版発行)
18 大野濶著「続世界を繋ぐ旗」 昭和五十二(一九七七)年五月発行
19 「協和町立荒川小学校創立百周年記念誌・荒川小のあゆみ」 昭和四十九(一九七四)年十月発行
20 「秋田県史 資料 明治編下」 昭和五十五(一九八〇)年一月復刻 
「秋田県教育史 第二巻 資料編二」 (前出)
21 秋田県教育会編「秋田県教育雑誌 第百十五号」 明治三十五(一九〇二)年二月発行  
  「秋田県教育史 第二巻 資料編二」 (前出)

挿入資料
 ① 新聞広告  教育品製造会社 教育用品販売弘告(秋田日日新聞 明治21年9月1日)
 ② 新聞広告  吉沢商店 日露戦争活動写真フィルム(秋田魁新報 明治38年5月24日)
 ③ 新聞広告  本間教育用品仲介所(秋田魁新報 明治四十四年八月七日)

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