なぜベストを尽くさないのか!? ~あるいは麻雀理論派によるアジテーション
※2016年にブログで書いた記事の再掲です
bakaseさんがブログで書いている記事が興味深い。
【麻雀本】コアなキュレーションメディア?
本屋歴20年の店長としては、麻雀本の売れなさ具合は身に沁みて分かっている。実用書担当でもないのに、棚の構成や発注まで考えて、天鳳民が手に取りそうなアイテムは面陳にしているのに、全く売れない。他のうちの系列店はそうでもないから(それでもほかのジャンルに比べてニッチすぎるのだが)、根本的に滋賀県に需要がないのかもしれない。ウザク本で2冊売れとか。もちろん、内1冊は自分が購入した。
麻雀本はもちろん、そもそも本自体が圧倒的に読まれなくなっている。それは周知の事実だが、四六時中本に囲まれた生活を送っており、月に5万くらい書籍代に充当し、一部屋まるまる足の踏み場もないほどの本の倉庫と化し、積ん読本(買ったまま読んでいない本)だけで500冊くらいはありそうな私に言わせれば、本屋の店員でさえほとんど本を読んでいないも同然だ。
これは教養や一般常識といった類の問題でもあるだろうが、だいたいが、読書という趣味自体がマイナなのだ。新書を新刊のことだと思っていたという妹の話を聞いて(妹は全く本を読まない)、情けないと嘆いた過去があったが、先日の「アメトーク」読書芸人回で、同様の「勘違い」が語られ、呻くしかなかった。
所詮は狭い世界であり、自分の慣れ親しんだ生活=趣味を、一般に敷衍して生きるなんて、甚だ思い上がりが激しい。
確かに、その通り。
読書という趣味でさえそうなのだから、狭い麻雀という世界の、さらに狭い天鳳という世界の、さらに狭い「麻雀戦術本読みます!勢」など、雀の涙ほどの人口であると知れる。今年の麻雀本ベスト5冊を挙げられるような人種など希少種に違いなく、連盟系以外の全ての戦術書を読んでいるであろう自分などは、ほとんど絶滅危惧種の類に属するであろう。
そこで問題にしたいのだが、「なぜ、読まないのか?」
天鳳でたとえば鳳凰卓まで到達した打ち手の中で、これまで一冊も麻雀戦術書を読んだことがないという人はいないだろう。
否、それは書痴であり絶滅危惧種である私の愚昧な「思い上がり」なのであって、本当はそういう打ち手も少なくない数存在するであろうことは想像がつく。世の中には本当に、活字を見るだけで頭が痛くなる、という種族が棲息しているのだ。
私は中学1年の時に、悪友のすすめで麻雀と出会った。悪友は、家族麻雀を正月にやるような、当時はよくある家庭環境に生まれたため、クラスメイトを巻き込んで麻雀仲間を増やそうと企んでいた。
あまりに複雑なルールに口伝だけではどうにもならず、すぐに本屋へ走って『ニャロメの麻雀教室』や井出洋介の入門書を数冊購入してきた。ほどなく近代麻雀誌を知り、三誌すべてを毎月買い揃え、当時は漫画でないマージャン雑誌も刊行されていたのでそれも定期購読し、とりわけ桜井章一氏の著作はすべて摂取し、数えきれないほどの麻雀について書かれた活字を飲み込んでいった。
いま、鳳凰卓で打っていると、前提が成立していないという麻雀に遭遇することが多い。特定の名指し批判ではない。主に七段に顕著であるが、対局中や後の牌譜検討をしていると、とんでもない打ち方をしている輩が目についてしまう。端的に、むちゃくちゃなのだ。
成立していない前提とは何か。
それはたとえば「遠くて安い鳴きはしてはいけない」といったような、ごくごく単純な戦術である。そんなことは、何冊か戦術書や戦術ブログを読めば、太字で書いてあるような、最低限の教養だ。
できない、ことはまだいい。しかし、知らないことは罪でさえありうる。
天鳳には時間制限があるし、その日の環境や気分により、正着打が打てない状況もあろう。誰だってA級ミスを皆無にすることは難しい。できない、ということは有り得るし、それは反省によりできる日がくるだろう。
しかし、事はそうした次元の問題ではないのだ。
知らないということ。
麻雀戦術だけではない。歴代天鳳位の名をすらすらと挙げられないなどということは論外だ。
私は批評家気質であり教養主義的なところもあるので、自分ができているかどうかは棚に上げて、そういう打ち手にはうんざりしてしまう。
むろん、分かったうえであえて、の戦略であるならば否定しない。私もトレンドや常識には逆らうほうが得をすると考える者だ。しかし、明らかにそうではない、単に「現代麻雀の当たり前」を知識として得ていない「麻雀戦術難民」のような人々がいま、大挙して特上から鳳凰卓へと参入しているのではないか。
昔から、「養分」とはそういう手合いを指す。自分だって鳳凰卓での自分の望外な好成績を、短期の確変であると穿って見ている。だが、それにしても、あまりに私の知っていることを知らない人間が多いのではないか。
私に見える世界は他者も見ている世界である、というのは独我論の罠である。
私の常識はあなたの常識とは違うかもしれない。それが謙虚に生きるということであり、倫理的態度というものだ。
その自覚を保持しつつ敢えて言うと、「なぜ、ベストを尽くさないのか?!」
鳳凰卓で打っているということは課金しているということだ。一般→上級→特上という、決して短くはない道程を潜り抜けた猛者のはずだ。そんな連中がなぜ、読書という、知識や教養を得るのに最適なツールを利用し、学び、向上しようとしないのか。
私には理解できない。
もちろん、現在流通する、あるいはこれから書店に並ぶであろう「麻雀戦術書」は、玉石混交さまざまであろう。単純に、これまでどこかで書かれたことの焼き直しでしかないものもあろう。読むことが害毒にさえなる本もあろう。
すでに一定以上の戦略や知識を有し、あとはひたすら実践あるのみという打ち手も、私の批判から除外される。理論→実践、あるいはその往還というのは、どの分野のどの世界でも当たり前の鍛錬法である。なぜ、麻雀だけが、天鳳だけが、そのプロセスを免れ得るのだと錯覚してしまうのか。
物事を知るために、さらに精通するために、書物から入るという態度は、端的に時代錯誤なのかもしれない。ならばブログでもTwitterでもいい。なぜ、ベストを尽くさないのか。
みなが当たり前のように知っていることを、知らなくて平気なのはなぜか。調べたくならないのか。知りたくならないのか。強くなりたくないのか。
麻雀は文化である。文化には歴史があり、それは継承されるべき知的財産である。
現代の麻雀は、歴史的にもほとんど飽和点近くにまで達しているように思う。それはコンピュータの功績に依るところが大きい。統計学的手法や価値観が齎した「デジタル運動」は、これまでの麻雀の在り方にパラダイム・チェンジを引き起こしたはずだ。かつてなく舗装された高速道路が眼前に伸びており、新規参入者が強者になる速度も数も、昔とは比べ物にならない。どの分野でもそうだが、人工知能(爆打!)の脅威も、われわれの「以前の常識」を破壊していく恐れがある。
そんな歴史の結節点にいるわれわれは、ある種幸運なのだ。現在形で、何かが変わろうとしている瞬間(あるいは、何かが終わろうとしている瞬間)に立ち会える歓びと畏怖。人は、歴史という巨大なものに飲み込まれる愉楽を知る唯一の動物である。
偉そうなことを言っているが、私だって種々の理論がすべて実戦で発揮できているわけではない。自分の放った一打が、「あれ、それはおかしいよ。石橋本の48Pに書いてあることが全然守れてない(適当です)」などと批判されることも大いにある。
それでも、麻雀という勝負にベストを尽くして立ち向かうのだ。
麻雀本全般の宣伝のようになりましたが、論旨は明確です。
知的好奇心があるならば、活字に触れよう、そして自分で考える力を養おう。
幸運なことに、多くの質の高い戦術があちこちで語られている。年に5冊でいいから、読んでみよう。取捨選択はその後でいい。金がもったいなければ立ち読みでもいい。無料のブログでもいい。
今の「当たり前」のトレンドを知ろう。強者の思考をトレースしよう。得た知識を言語化し、実践を通して身体化しよう。
あなたが興味を抱いた「麻雀」という宇宙を知ろう。強くなることが目的でなくてもいい。ただ漫然と打つばかりでなく、いったん立ち止まって麻雀のことをもう少し知ろう。狭くてマイナな世界だけど、此処は人生の少しの時間を割くのには充分値する、素晴らしい世界なのだから。