居酒屋
僕は昔から雑音が嫌いだった。
外出するときはいつもイヤホンをしているのが常だった。僕の耳に流れてくるのは、決まって美しい歌声や均整の取れた楽器群の演奏だけだった。自分とは人生が交わることのない人たちの些末な会話は耳に入れないようにしていた。
その日、僕は2年ぶりに大学の友人と再会した。社会に出て、2年が経ち、積もる話も多くあったので、楽しみにしていた。
集まったのは僕以外に中尾と谷口だった。いつも3人でつるんでいたので、僕自身、居心地が良かったのだろう。
中尾から指定されたのは県内でも有名なチェーン店の居酒屋だった。
「おう、久しぶり」中尾は開口一番、そう口にした。
久しぶりに会った中尾は髪を短く切り揃えていたので、驚いた。学生時代はホスト風の外見で、女には事欠かなかったようだ。お酒を飲んでいるときによく女の話をされたが、すべて聞き流していたので、詳細はわからない。
「雰囲気、変わったな」当然の感想を口にする。
「まあ、さすがに就職したらね。あのままじゃいられないよ。でも、どれだけ風貌が変わってもあいかわらずモテてしかたない」中尾はそう豪語した。
「そうだね」当然、後半を聞き流した。
「久々なのに冷たいな。ていうか、あいつは?まだ来てないの?」
「まだみたいだね」
谷口は学生時代から時間にだらしなかった。待ち合わせに遅れてくることは当たり前だった。10分前行動を学生時代から実践していた僕は首を傾げるしかなかった。
そんな心配をしていたが、意外とあっさりと谷口は現れた。待ち合わせ時間の2分前だった。
「2年も経つと人は成長するんだな」中尾は谷口を言葉で見下ろした。
「うるせえよ。俺は改心したんだ」谷口はそう胸を張った。
県内でも有名なチェーン店だけあって店内は大勢のお客さんで賑わっていた。狭い廊下を案内されているとき、慌ただしい様子の厨房が目に入った。
店員に案内されたのは狭苦しい個室だった。4人くらいは入れそうだ。僕の前に中尾と谷口が座った。
上着を脱ぐと同時に中尾は「俺はビールにするけど」と訊いてきたので、僕と谷口もほぼ同時にビールで、と答えた。
ビールがすぐに運ばれてきて、中尾が「久々の再会を祝して乾杯」と叫んだ。
「何食べる?」僕はお腹がすいていた。
「とりあえずフライドポテトだな」中尾は目についたメニューを指さした。
「お前、学生時代から全然変わってないな」谷口はメニューを繰りながら言った。
「何が?」中尾は何も思い当たる節がないといった様子だ。
「何がってわかるだろ? お前はわかるよなあ?」谷口は僕に水を向けてきた。
「中尾はいつもポテトばっか食ってたって話だろ」
「そういうことね。こういう集まりだったらポテトは絶対頼むなあ。会社の飲み会だったら頼まないよ。あっ、だし巻きとかたこわさも頼もうぜ」
「おっ、成長してんじゃん」谷口は囃し立てる。
「だし巻き、いいねえ。食べたい」僕は中尾の案に乗った。
それから1時間ほど近況を話し合った。3人ともかなり酔いが回っていたが、谷口の酔い方は尋常ではなかった。そう言えば、谷口は学生時代からお酒が弱かった。
「お前、飲みすぎだぞ」さすがに心配になってきた。
「最近さ、仕事が嫌なんだよ」谷口は下を向いたまま、吐露した。
「そういうことか。話してみろよ」中尾も身を乗り出した。
飲み会で、同僚が仕事にかける熱意などを話しているのを聞くと辟易としてしまうのが僕だった。でも、こうして気の置けない友人とならそれも許せてしまうし、友人が悩んでいるのであれば、寄り添ってあげるのが筋だろう。
「人は辞めていく一方だしさ、かと言って新しい奴が入るわけでもないし。それなのに、早く帰れとかめちゃくちゃだろ」谷口はうなだれた。
よくある話だなと思ったし、僕にも身に覚えがある。
どうやら僕も飲みすぎたようで、意識が朦朧としてきた。思わず、後ろの壁に身を預ける。すると、今まで話に夢中で一切耳に入ってこなかった雑音が不意に耳に流れ込んできた。僕の後ろの個室から聞こえてくる話し声だった。
「上の階の住人の騒音がうるさくてさ、困ってんのよ」
「そういうのあるよねえ。ほんとに迷惑」
話し声から推測するに40代くらいの女性2人のようだ。
「そう言えばさ、お宅の近所が野良猫が多いって話どうなった?」落ち着いたトーンの女性はそう言った。
「前も言ったけど、ほんとに酷くてさ。うちのごみとかも荒らされちゃって。でもね、ここ1ヶ月くらい、めっきり猫を見なくなってさ」もう一方の嗄れた方の声の女性が言った。
「良かったじゃん。改心したんだよ」
改心したとはどういう意味だろうか。
今日はほんとによくある話を聞くなあと思った。そんな物思いを突然、目の前の色男に遮られた。
「おい、お前、聞いてんのか?」ジョッキ片手の中尾は呆れていた。
ふと中尾の隣に目を移すと、谷口はうつ伏せていた。これは今日はもう駄目だなと心の中でため息をついた。
トイレ行ってくるわと中尾は席を立った。途端に個室は静まり返り、雑音が流れ込んでくる。どこかで皿と皿が擦れ合う音がした。
先ほどの女性2人はあいかわらず話が尽きないようだ。
「隣の住人が餌をあげてたんでしょ?」
「そうそうそう」嗄れた方の女性は何度もうなずいた、と思われる。
「その住人とは挨拶くらいはするんでしょ?」
「まあね。夫婦2人で暮らしてたみたいなんだけど、あんまり愛想は良くなかったから」僕は壁越しにどうして過去形なのか気になった。
「でも、そんな状態じゃあ気まづいでしょ?」
「まあ、所詮、挨拶程度の関係性だったし。」
「だった、って?」落ち着いた方の女性は嗄れた方の女性の言葉尻を気にした。
「ああ、ごめんごめん。言葉の選び方が変だよね。酔ってるのかな」嗄れた方はそう言って、笑い飛ばした。
突然、横開きの扉が開いて、中尾が帰ってきた。
「遅かったな」
「いやあトイレが混んでてさ。谷口もこんな感じだし、そろそろ帰るか」
谷口を見ると、まだうつ伏せていた。完全に眠っているようだ。
しばらくの間、物思いに耽っていた、というより隣の個室の会話を盗み聞きしていたから、酔いは覚めたかと思ったが、甘かった。立ち上がった瞬間、体が傾いで視界が揺らいだ。
「おいおい、お前もかよ。2人も介抱できないぞ」中尾はひどく呆れた様子だ。
「すまんな。ちゃんと家まで送り届けてくれよ」
「それは断じてできん。駅までは送るが、あとは自力で帰ってくれ」
中尾の宣言通り、駅までは送り届けてくれた。
目覚めると、12時だった。外はよく晴れていた。どうやって電車に乗って、家まで辿りついたのかまったく思い出せなかったが、帰ってすぐにベッドになだれ込んだことだけは覚えている。
頭に鈍い痛みを感じた。完全に二日酔いだった。今日が日曜日で良かったと心底思う。谷口はちゃんと家まで帰りついたのだろうか。
ベッドから起き上がり、ローテーブルに置いてあるリモコンでテレビの電源を入れた。
ニュース番組だった。どうやら殺人事件があったようで、キャスターが現場からリポートをしている様子が映し出されていた。
「殺害されたのは矢野美代子さん、55歳と矢野由紀夫さん、58歳の夫婦。死後1ヶ月は経っているようです。今朝、10時頃、宅配配達業者が矢野さん宅を訪れた際に郵便ボックスに大量の郵便物があるのを不審に思い、部屋の中を覗いたところ人が倒れているのを発見し、通報したとのことです。警察によると、矢野美代子さんと矢野由紀夫さんにはナイフでめった刺しにされており、殺人事件として捜査本部を設置した模様です。現場からは以上です」
映像が現場からスタジオに切り替わる瞬間、画面の端に映し出された地名を見て、気味が悪くなった。昨日行った居酒屋の近所だったからだ。
顔を洗いに洗面所に行って戻ってくると、また映像が現場に切り替わっていた。
「新しい情報が入ってきました。矢野美代子さん、矢野由紀夫さん夫婦は隣人とのトラブルが絶えなかったことが近隣住民への聞き込みで判明しました。また、その隣人の佐々木幸子さん、44歳の居所がわからないということで、何らかの事情を知っているものとして現在、行方を追っています」
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